インシデント・M セカンド

レイはスイングドアが軋みを立てて開くのを聞いて、気だるく視線を上げた。

正体を無くすほど飲んではいないが、脳みそにはまだ焼けつくようなウイスキーの味がこびりついている感覚がある。


男は最初にサルーンに来た時と同じように、一人でレイの所まで歩いてきた。

腰に吊られていたブル・ウイップは、いつの間にか彼の右手にある。

レイは剣呑な空気を感じ取った。

背骨がぴりぴりと震えた。


「ロッドはどうした」

レイは訊いた。


「眠って貰っています」

「眠って?」

「ええ。腹に見舞いましたし、しばらくは起きないでしょう。そしてその間に俺はお前を殺します」


「殺す」


レイは咀嚼するように、ゆっくりと繰り返す。


「そうです、殺します」


そう言って、男は不意に何かを唱えた。

その旋律は耳に飛び込んできた。

それは男が口にした奇妙な呟きだった。

死神が引き摺る棺桶のような響き。

背骨に雷が走る。


「push」


抑揚の無い声音、平坦な表情。

悟る。魔導士が紡ぐ、脈絡のない言葉。

それが何を意味するのかをレイは知っている。故に、悟る。

この男は。


「I push」


詠唱は脳内のブラック・ボックスに対するコールサインの役割を果たす。

男は定められた手順に従って、粛々と力を練り上げてゆく。


「the tempo will be ────」


「鞭男」が不吉な呪文を叩きつけるように唱え終わるのと、レイが格闘機動コンバット・マニューバを構築しながら地を蹴り出すのはほぼ同時だった。


「──harder!」

I was born to run!」


詠唱に応じるかのように、蹄鉄仕込みの軍靴がだんと床を鳴らす。

放出された魔力、その獣じみた加速のもとレイは敵に走り寄り相手の膝をえぐり込むような足刀を放つが、男は跳びすさってこれをかわし、すかさず右手に持つ鞭を奮う。

瞬間、レイの頭上を牛革の蛇がはしった。

身を屈めて避け、姿勢を保って疾駆する。


レイは思考をくるくると回し、ステップを踏みながら走る。

地を這う猟犬の格好を崩さず、鞭をいなしながら走り続ける。

鞭は動き続けないと避けることが難い。

それくらいの速さであり、鋭さだ。

焦燥に肌がちりつく。

まだ義手の準備が出来ていない。

あれを使うには水が必要だ。時間稼ぎをしなければならなかったし、脚技のみで太刀打ち出来る相手とも思わなかった。

使い手の技量はけして悪くない。

気を抜けばすぐさま胴と頭が泣き別れする羽目になるだろう。

体勢を崩してスライディング、そのまま男の背後へと通り抜けようとするも、あり得ざる角度と速度で鞭がレイの方向に飛んできた。

片足一本の宙返りで無理矢理離脱し、魔力を放出。するりとカウンターの裏に飛び込む。


そこにはレイの目当ての物──料理に使う、蒸留水を貯めたタンクが据え付けてあった。

タンクのバルブを開いて義手の小型水筒に無理やり繋ぎ、水を手早く注ぎながらカウンター越しにレイは毒づいた。


「どうしたカウボーイ! てめぇの鞭は虚仮脅しかっ!?」


円筒型の水槽の中に水がたっぷりと注がれる。男はこちらの動きを警戒しているのか、それとも単に攻めあぐねているだけなのか、

依然として仕掛けてこない。

レイは更に続けた。


「お前は一体なんなんだ、俺は呑んでいたんだぞ! 誰にも俺の至福の一杯を邪魔する権利はないんだ、くそったれ!」


その時、初めて男がレイに応えた。


「どうせ安酒に馬鹿舌でしょう、二日酔hangoverいを引きずるぐらいなら俺がお前の首をhangoverげて楽にしてやる」


こんな状況ではちっとも面白くないし、大して気の利いた返しとも思えなかった。

次第にその声音には、怒りと憎しみの色が滲んでくる。


「お前はただでは殺しませんよ、然るべき苦痛と死を与える」

「なんのことだ、おい、ああっ? 俺にはお前の女を取った記憶もないし、お前の金をちょろまかした記憶もない。ましてやお前と会ったこともないんだぞ」

「解りませんか」「ああ解らないねっ」

「では質問を変えましょうか」


そう言って、男は続けた。


「ホスロー・マイヤーズを覚えているか」


男のぞっとするほど冷えた言葉に、レイのある記憶が掘り起こされる。

二週間程前、アビリーンで憂さ晴らしと小遣い稼ぎを兼ねて受けた、小さな依頼だった。

悪徳にまみれた保安官を始末してくれという、そう珍しくもない嘆願だ。

生い立ちは興味も必要もないので聞かなかったが、売春の斡旋や暴力沙汰、ストライキの煽動等々纏めれば縛り首にして尚余るほどの悪行に手を染めていたらしい。

しかして予想通りに生き汚い輩だったので、戦うには戦ったものの結果として文字通り手こずり、レイの義手はずたずたになった。

魔術で強化したチェーンソーを操る手強い相手で、びっくり箱のように出てくる様々な仕掛けはレイを苦しめた。

お返しに「補強」ごと土手っ腹を思い切りぶち抜いてやり、受け取った報酬で腕の補修を繰り返し、辿り着いたのがこの街だった。


そして、その保安官──ホスローには弟がいた、と小耳に挟んだことがある。

響音蛇サイドワインダーと呼ばれる、鞭使いの魔導士。空を裂く蛇から逃れることは敵わず、卓絶した使い手だと。


「...そう言う、ことか。仇討ちか?しかし解せないな、何故俺がお前の兄貴をぶっ殺した時に出張って来なかった? マイヤーズの方はそれなりだったが、お前は本物だ。鞭と合わせれば勝ちの目もあったろうに」

「生憎と商用で出掛けてましてね、アヘン卸しに行ってたんですよ」


マイヤーズは悪びれもせずに言った。

耳許のピアスがちゃらりと揺れた。


「アヘン? なるほど、お前も大概だな」

「糾弾するつもりですか? ふざけるなよ、キャノンパイル。誰が何と言おうがお前は兄貴をやった人殺しだし、俺たちには俺たちの絆があった。お前は今ここで死ね」


レイは言葉に詰まった。

しかしそれは罪悪感からではない。

彼らはまごうことなき悪党だった。

だから、これは驚きによるものだ。

悪党にも心がある驚き。

レイは基本的に彼らは愛とか情とか、形ないものに無頓着であると考える。

実際レイが今まで殺して来た人物にはその例に洩れないろくでなしが多い。

そう言った意味では、このマイヤーズ兄弟は稀有な存在だった。


だが、殺す。


例えそれがどれほど涙ぐましい兄弟愛であっても彼らは所詮ギャングだとレイは断ずる。

金欲しさに人の道を外した愚か者。

まるで冬時のネズミが暖かい穴蔵に逃げ込むように彼らは性と暴力と言う最も単純な手段に逃げ込み、そして生き永らえた。

こいつらは人の皮を被ったけだものだ。


故に、殺す。


想いは斟酌しない。

祈りは聞く耳を持たない。

心は凍てつき、レイもまた暴で暴を絶つ。

それが一番安らかなやり方だと、ずっと昔から知っているから。



マイヤーズはぎりぎりと歯を噛み締めた。

彼の頭には空虚な、ある一点を見つめているような兄の死相が映っている。

その想いそのまま吐き捨てた。


「悪党には悪党の流儀ってもんがあるんですよ、お前がナイト気取りでずかずか領分に踏み込んで、こちらはどれだけ迷惑被ったか。お前も所詮ろくでなしでしょうに、誉れを履き違えるのも甚だしい」

「いかにも小悪党が吐きそうな台詞だな。お前もお前の兄貴と同じにする。惨めに這いつくばってくたばれ、ガラガラヘビ」


レイは寸分違わず返し切る。


その啖呵が口火となった。


そして、再び沈黙が落ちる。

そのしじまには音がある。

両者の鼓動の音でもある。

互いが互いを物言わぬ肉に変えることが出来る一秒を計って、測って、謀っている。


マイヤーズが仕掛けた。

鞭が音もなく振るわれる。

流れるように、薙がれるように。


それは一拍遅れてやって来る。


違和感にレイが気付いた瞬間、爆発じみた轟音と衝撃がカウンターごとレイを襲った。

内側から弾けるみたいにぱんぱんぱりんと小気味良く、ガラスがことごとく破砕した。

隠れていたマホガニー材の卓がびりびりと震える。


相待たず、二撃目の音波が放たれる。

サルーンを揺るがす大音声からの逃げ口はどこにも残されてない。

レイはそのまま衝撃波に晒された。

轟きが鼓膜をつん裂く。

音に縫い留められ、カウンター越しのマイヤーズに一撃を見舞うことすらかなわない。

酒、耳の疼痛、魔力酔いと相まってひどい頭痛がした。


ワイシャツの裾を義手で引き裂く。

そのまま乱暴に布を蒸留水のタンクに突っ込んで濡らし、丸め耳に栓をして、ついでに粉塵を防ぐために首もとのゴーグルを掛けた。


恐らく先の轟衝は鞭の先端、その音速を越えた高速で発生した衝撃波ソニックブームを魔術によって増幅した物だろう。

冗談のような威力だとレイは思った。

右頬にぬるりとした、生暖かな感触がある。

暴力的な大音声で鼓膜が破れたのだろうか。

そう言えば世界の音もぼんやりとして聞き取れない。全てがくぐもっている。


脚部の魔導、格闘機動コンバット・マニューバの正常を確認してレイはカウンターから跳び出した。

マイヤーズは既に鞭を手元に戻している。

再び振るわれた。

ブル・ウィップが狂気じみた精度と速度で、槍のようにレイに迫る。

事実それは一種の槍だ。

導式によって擬似的な力場を形成された黒革の暴威は、使い手の忌名───響音蛇ガラガラヘビよろしくその身をくねらせる。

魔導により変幻、その鞭捌きは無窮。

必要に応じて剣にも盾にもなるだろう。


レイは左に跳んで避ける。

追い掛けて水平に薙がれる鞭を蹴り落として着地し、狼のような姿勢で加速する。

床にはレイの蹄鉄の痕が残されていく。


跳ね、中空に三日月の弧を描いて蹴りを放つ。魔導による補強、魔力の放出、導式の連結を用いた強靭な蹴撃だ。


マイヤーズは左腕に鞭を巻き付け、手甲のようにして三日月蹴りを防ぐ。

魔力がぶつかり合い、透明な靄になって消える。それは溶けゆく氷のような揺らめき、透明と虹に近い色だ。


鞭使いの端正な顔が歪んだ。

マイヤーズの耳の精緻なピアスには、血の涙石のようなルビィがあしらわれている。それは星とランプの光を吸い込み、意思さえも感じられる。


追撃。

着地から二歩で浴びせ蹴り、片足ですくい上げる。虚を衝かれたマイヤーズの体勢が崩れた。その僅かな隙を狙って転がりつつ跳び切り、独楽のように蹴りを放つ。

一瞬、レイの足がぶれる。


「喰、らえっ!」


レイの滞空しながらの段蹴りはマイヤーズに吸い込まれるように突き刺さった。

左腕の防御の死角となった、右脇腹に一発。

攻撃の主軸となる右肩に二発。

急所の人中、胸骨に一発。


「があっ」


たまらずマイヤーズはのけぞる。

魔導で魔力場を張り、全身を補強しているとはいえ、鉄板をも貫くレイの足弾を総身に受けては耐えられるものではない。


左腕に巻き付け盾代わりにしていた鞭を振りほどき、マイヤーズはよろめきながら迷わず鞭を床に叩き付けた。

魔術が起動する。

爆裂した音波の波濤がレイを襲い、その足がたたらを踏んで止まる。


マイヤーズは切羽詰まった様相で、再び詠唱を紡ぎ出した。左手はコルトに掛けられており、ラピッド・ファイアちの構えをとっている。


「I push! he will make sidewinder!」


リボルバーが火を噴き、があああんっ、と強烈な音檄がサルーンに響いた。

鼓膜が破れた耳にずきりと痛みが走った。

瞬間、マイヤーズの咆哮を引き鉄に、暴風のような衝撃がレイの身を掠める。


最初に床がのたくった蛇じみた軌跡を描きいて、ぼんぼんと爆ぜてゆく。

巨大な質量を持つ鉄柱がそのまま空間をうねっていったような抉られ方だった。

それを契機に、次々とマイヤーズの拳銃の射線上にあった卓や食器が飛散する。

後ろのボイラーにも衝撃が着弾したのか、水蒸気が噴き出す音がぼんやりと聞こえる。

霧までが立ち込め始める。


サイドワインダーは止まらなかった。

腰だめの姿勢で、尚もコルトを乱射する。

マスター自慢のサルーンはたちまち蛇が何百匹ものたくったような傷痕だらけになった。


弾け跳んだ木片を脚や義手ではたき落としながら、レイはマイヤーズの突進を警戒して後ろに退き、走り、跳ぶ。


マイヤーズがリボルバー部ごと弾を交換して構えるのがもうもうとした霧の向こうに、ぼんやりと見えた。


敵の術理には予想が付かない。

マイヤーズは拳銃一つと鞭一本でサルーンの皿と言う皿、机と言う机を一つ残らず台無しにしてみせた。

恐らくは音、即ち波を操るたぐいの魔術だろうがこのまま、あの兄思いの弟がコルトを撃ち尽くすまで待っていると、こちらがくたばってしまう。


白い霧を割いて鞭が翔んでくる。

即、一足のもとに蹴り落とす。

勢いは止まらない。

黒革の蛇は敵を喰らわんとその牙を剥く。

身をよじって避ける。

避ける。

霧のせいで迂闊に動くのは不用意だ。

留まって持ちこたえるしかない。

当たりそうになるが、蹴って防ぐ。


まるで霧を挟んで得体の知れない物と相対している気分だった。

耳がおかしいのも合わさり、段々と左右の感覚が無くなってくる。頭もがんがんする。

やはりマイヤーズは強かった。

基幹魔導を完全に習熟し、全身を獣のごとく補強してからのあの鞭と銃だ。

予想通り、手堅い。


こちらから踏み出せば、またあの「音」が来るだろうが、しかしあちらも不用意に踏み出せば返り討ちに会うと承知しているはずだ。


敵は霧の向こうで、レイに静かな死を与えるつもりのようだった。


しかし。

それでもレイの頭の中には、推測がある。

それを導き出す為の回避である。

長年の戦場での経験が、裏打ちされた知識が、レイにここが攻め時だと教えている。


このまま膠着を続かせるのは望ましくない。レイはマイヤーズの耳環ピアス、その輝きに思いを馳せながら走り出す。

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