インシデント・M

 そこから先はオーナーの息子の話になった。

 オーナーは酒の勢いも手伝ってか、酔っ払いのように(実際酔っているのだが)同じ話を何回かぐるぐると回る。

 オーナーは値の張る氷を持ち出してオン・ザ・ロックのウイスキーを作り、そして滔々と彼と息子の思い出を語った。

 琥珀に揺れる極小の氷山がオーナーの眼鏡にからりと映る。

 氷の薄靄うすもやが、カラメル色にゆっくりと沁みてゆく。

 彼の凍った哀しみは、乱暴な味わいの蒸留酒に少しずつ溶かされているようにも見えた。


 惜日、惜日、惜日。

 汗血馬の名を冠したサルーンの夜は暮れる。

 ひっそりと夜が店を浸してゆく。

 彼の息子は、幼い頃からサルーンに憧れを抱いていたらしい。

 西部のそこここに広がるろくでなし達の現実、例えばブルズ・ヘッドのフィル・コーと彼の酒場を巡るごたごたであったり、幌馬車ドナー隊の話であったり、そう言った類いのことを知ってくれば大抵の少年は、馬を駆ってスイングドアを押し開く日を夢見るようになる。自分の馬を持ち、語り継がれるような魔術を引っ提げ果てなき開拓の地平、輝ける未来に向かって心を踊らせるのだ。


 そんな彼は、どのような最期を迎えたのだろう。少なくとも、『ティム』が思い描いていたのとは違うものであったことは確かだ。

 レイは彼の死を見てはいないが、悼んだ。

 心の底から悼んだ。

 オーナーからの彼の物語の一つ一つを聞くたびレイの心に暗く憂鬱の影が落ちる。

 しかし、果たしてレイ自身に彼の死を悼む資格などあるのだろうか?

 決まっている。まやかしだ、こんな悲しみ。

 レイは自己嫌悪とは微妙にずれた、どこか諦念のようなものをもて余していた。

 この感情は借り物だ。

 焼けつくような蒸留酒で溶かされた薄っぺらい憐憫が水かさを増して、浸かるのに丁度よい深さになっているだけだ。

 酒は便利だ。

 精神肉体両方に有用な小道具にもなるし、時には人の本性を引き剥がす。

 オーナーの堰を切ったような昔語りは、いつの間にか彼の息子が初めて馬に乗った時のことまで遡っていた。

 レイとロッドはその話に耳を傾けながら、またウイスキーをオーナーのグラスに注いだ。


 しかし夜通し続くかと思われた話は、鉄条ばね仕掛けのスイングドアを切る音に絶たれる。

 時刻はもうとっくに11時を回っていた。オーナーの呂律は回らなくなっていた。


「開いていますかね、ここは」


 掠れたバスが聞こえる。

 先程戸を押し開いた人物は、黒革のグローブをポケットにしまいながら、店内をまじまじと見渡していた。男のようだ。

 まず目を引くのがその丈だ。

 恐らく6、7フィートと言ったところだろうか。いずれにせよ彼に乗られる馬は難儀だろうなと思うし、威圧感がある。

 赤土色のワークパンツを穿き、黒いウエストコートと仕立てのよさそうな白いシャツを着ている。

 灰色の髪は短く切り揃えられており、口許には柔和な笑みを湛えていて、ひょっとしたら芝居小屋でも活躍できるかも知れない、と思わせる程度には顔立ちは整っていた。

 しかし、その間抜けな予感は腰の右側にあった鞭とのアンバランスさに一気に解消される。ずっしりとして精緻な紋様を施されている黒革のブル・ウイップは、男の印象とそぐわなかった。

 左腰にはコルトを吊っている。

 カウボーイが持つにはいささか高値の品だ。

 ウエストコートの胸の膨らみから察すると、多分ボウイナイフか何かでも入っているのだろう、とレイは見当を付けた。

 総評すると「小綺麗なギャンブラー」と言った風体だ。

「見ての通り、コックとバーテンとスタッフを兼ねているやつが酔い潰れた」

 とロッドは返した。

 男は肩を竦める。


「水を貰えたらすぐに退散しますので、どうかそんな冷たいこと言わないで下さいよ。馬を休ませてやりたいんです、あいつは疲れ切っているんだ」


 レイは首を捻った。

 この見知らぬ男の頼みを突っぱねるのも忍びない。オーナーが予想外に下戸だったことを考慮せずとも、助けない道理はなかった。


「おい、聞いてるかマスター」

「...あぁ、何だー?客ぅ?」

「いい加減にしろ、この酔っ払い」


 ロッドがたしなめる。


「へへぇ、すまないねぇ...水?」

「そうだ、水だ。あんたが出来ないようならばおれが代わりに持っていくが」

「あらぁ...いやいや、おるがちゃんとやるから、大丈夫、だいじょぶ」

「おい、バレットさん」

「その呼び方止めてくれ、気持ち悪い」

「俺が水を汲んでくるから、あんたはその潰れてる馬鹿をどうにかしてくれ。二階にそいつの部屋がある」

「はぁ...解った」


 レイはひょいとオーナーの体を担ぎ上げる。

 彼の躯は存外重く、骨が太いのだろうと思わせる。だらりとレイの肩から垂れ下がっている手には、ぽつぽつと赤くまめが滲んでいた。働き者だ、とレイは思う。

 従業員のたぐいは見掛けなかった。

 彼は一人でこの酒場を切り盛りしてきたのだろうし、これからも倒れる日までそうするのだろう。

 失った息子の思い出を日々に浸して、さすらう旅人たちの船着き場となる。

 レイは誰ともなく、この無遠慮なオーナーの生き様に敬意を表した。


 レイが言われた場所らしき部屋のベッドにオーナーを放り込んで一階に帰ってくると、丁度ロッドが風車で深堀り井戸から汲み上げた水を持っていく所だった。

 馬に蒸留水を使うのは流石に贅沢だと思ったのだろうか、それとも単に切らしているだけなのか。

 例の男の姿は見えない。

 恐らくうまやに鞍なり拍車なりを置きに行っているのだろう。


「あいつ、何者だ」

「俺が知るわけがないだろう。格好からするに、どうも普通の旅人らしいが」

「馬鹿を言え。あの鞭、多分魔導を噛ませてあるだろう?確か昔同じような物を使っている輩に会ったことがある」

「ふぅん」


 ロッドはそう短く相槌を打った後、少し考え込むような仕種をとって外に出ていった。

 レイも男の様子を見に行こうかと一瞬思案したが、止めた。

 夜の湿った風が店内に吹き込んでくる。






 ロッドは水がなみなみと入った木桶を手に男が居る厩に向かった。

 糞と、藁と、汗と、生き物の香りがする。

 本来馬を留めておくだけならば馬繋ぎ棒を建てておけば良いだけの話だが、サルーンを暫くの拠点とする流れの狩人やガン・スリンガーなどにとっては不都合になる。

 貴重な足である馬を野ざらしにして、苛立たせてはまずいのだ。

 そのためにわざわざ厩を建てた、とマスターはしたり顔でロッドに話していた。


 もう客も居ないので、繋がれた馬もそう多くない。マスターとロッドの野生馬ムスタング、そしてあの男のものらしいアンダルシアンがぶすぶすと鳴いているだけだった。

 ロッドは丸太作りの厩の奥で鞍を外していた男に声を掛ける。


「水を持ってきた。藁は適当に使ってくれていい。どのくらい馬は走らせた?」

「ざっとアビリーンから、ですかね」


 男は愛想良く答えた。


「ええと...テキサスからはるばるご苦労だったな、ようこそサウスダコタへ、ここへは何をしに?」

「ええ、どうも。少し、人を探しに」

「驚いたな。いや、さっき中に居たあの義手の小僧も人探しの途中だと言っていたんだが」

「ここいらじゃ人探しなんてそう珍しいことでもないでしょう。...それより今あなた、『義手』と?」

「ああ、心当たりがあるのか?」

「はい。義手の、がきの魔導士を探してる途中なんです。途中でダコタへ向かったと聞いてこっちまで馬を駆けさせて来たんですが」

「......」


 この男が言っているのは間違いなくあの不遜な少年...レイのことだろう。

 しかし、この小洒落た男があの義手の小僧に一体何の用があると言うのだろう?


「ちなみに、そいつとはどんな因縁が?」

「仇討ちです」

「仇」

「カウンティシェリフ(保安官のこと)だった兄をやられました。昔っからひでぇ、あくどい、人でなしと蔑まれるようなことばかりしてましたから、当然も当然なんですがね」

「そしてお前はその片棒を担いでいた?」

「まぁ、兄弟ですから。助手に任命されちまいましたし、随分と恨みは買っているでしょうね」

「そうか」

「はい」

「ところで」


 ついさっきから俺の腹に当たってるこのクソナイフは何だ、と言い掛けた所でロッドは口を手で塞がれた。

 そのまま顔ごと地べたに打ち倒され、ロッドを衝撃が襲う。

 仰向けに転んだところをすぐさま男に強く組み伏せられ、大人しく地べたに転がるしかない。

 魔導や魔術を行使しようにも、口が封じられているので詠唱もかなわない。

 脳内のパス・コードである詠唱がなければ、刻み込まれた記憶を呼び出すことも出来ない。一から演算するなどもっての外だ。

 そして腹元には刃が突き付けられている。

 明らかに荒事に慣れていることを感じさせる手際だった。


「少しでも妙なことをしたら、刺しますよ。俺の指示に逆らっても刺します。脅しではないです。あなたはことを円滑に進めるための道具ですから」


 男は平坦な口調で告げた。

 腹には依然としてずっしりとした鉄の感触がある。


「今から少し質問をしたいので、イエスであれば一回、ノーならば二回、もしも質問の内容に誤解があれば三回咳をお願いします。良いですね?」


 それに答えて、ロッドはかすれた老人のような咳払いをした。砂塵と乾いた空気に晒された喉には少しいがらっぽさがあった。


「あなたと一緒に居たあの男は、今日知り合ったんですか?それとも前からの付き合いですか?」


 咳払いを二つ。


「そうですか...死人は一人で良さそうですね。一応人違いを避ける為に聞いときますけど、あのがきの義手には妙な仕組みがありませんでしたか?例えばリボルバ、とか」


 咳払いを、また一つ。

 男は満足そうに頷いた。


「用心棒を雇っていたりとかはします?」


 今度は咳払いを二つ。

 そんな金があったら、あのマスターは旨い料理と酒を作るのに使うだろう。

 酷薄な振りをしておいて、店で人死にが出る度に涙を流すような男なのだ。


「そうですか...判りました、ありがとうございます。暫く眠らせますが、恨まないで下さいよ。心配しなさんな、俺が命を取るのはあの"砲杭"だけだ」


 男はそうぶつぶつと呟いた。


「あなたも確か魔導士でしょう?折角覚えた魔術で鍛冶屋の真似事をやってるって変わり者が居ると兄から聞いたんですけどね」

「...」

「やっぱり。まぁ、どっちにせよ寝て貰うんですけどね」

「っ」


 ロッドが息を呑むと同時に、魔導で強化された拳が鳩尾に垂直に叩き込まれた。

 喉元に熱い何かがせりあがってくるのを感じながら、急激に意識が遠ざかっていく。

 暗転する意識の中で、ロッドはレイとの会話を思い返す。

 間違いようもない、俺はあの青年を我が身可愛さに売ったのだ。

 身勝手な願いと知りつつも、ロッドは薄れゆく視界をぼんやりと俯瞰しながら、どうか死ぬなと唱えて、そこで思考はぶつ、と切れた。

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