ライフ・ストーリー

 短くない侃々諤々かんかんがくがくの末、レイは男に10ドルほどを支払うことになった。くしゃくしゃに丸められた紙幣の中で、数えきれないほど不気味な皺を作ったアレキサンダー・ハミルトンが、レイを建国の父として見つめていた。

 レイは乱暴にそれを男に突き出した。レイの大して重くもない財布は、更に10ドルぶん軽くなった。


「良心的な値段ではある」


 男は紙幣を受け取って、誰に話しかけるともなく呟いた。

 それは、男自身の、刻まれた手の甲の皺にぶつぶつと言い聞かせているようにも見えた。


 実際10ドルと言う金額は、東海岸の鉄道敷設に一週間ほど「真っ当に」従事すれば稼げるくらいの金額ではあったし、その結果として、レイの男に対する印象は少しばかり上向きに更新された。


「ところであんた、腹は減らないのか」


 男は紙幣をポケットにしまいながら尋ねた。

 指摘されれば、確かに空腹をおぼえはじめた頃だった。レイはウイスキーの最後をぐいと飲み干して、オーナーにビーフシチューを30セントで注文した。


 気付けば夕刻は過ぎ、辺りは暮れに包まれ、ちらほらと帰途につく者も見受けられる。

 先ほどの顔色が悪かったギャンブラーが更に蒼白になりながら、前屈みで逃げるように走り去って行った。直後に彼の所有物らしい、手綱を引かれた馬のいななきと、銃声と、そして悲鳴が聞こえた。

 それきり静かになる。

 乾いた発砲音が一発で止んだことから察するに撃った人間は、決定的な成功か、決定的な失敗を得たのだろう。


 ひょっとしたら彼は死んだかも知れない。

 賭けのカタに脳漿をぶちまけて、冷えた大地に、不健康そうな血をじくじくと吸い込ませている途中なのかも知れない。

 あるいは彼は銃弾をかわして、あの太った羊のような顔に汗をたくさん浮かべながら、自らの馬にそれまでの彼の人生の中で最も強く祈っている最中なのかも知れない。


 いずれにせよあの太ったギャンブラーがどうなろうと、レイには──さらに言えばこのサルーンのろくでなしたちには──遠い鉱山事故での人死にの報せのように、等しく関係がなかった。

 実感がないのではない。関係が、ない。

 開拓のただ中では、それだけでも死にゆく愚か者を見捨てる言い訳に値する。


 引き払われたオーク製の円卓には、食べ散らかされた料理と、芋虫のような人差し指が転がっている。レイは、それがあの太った賭博師の不運の産物だろうと見当をつけた。

 恐らく賭けに負けて失われる羽目になった彼の気の毒な一部に違いない。


「あの酒樽ファットはどうなったんだろうな」

 レイは気まぐれに尋ねた。

「死んだろう。あの体を引っ張るのには蒸気機関車3台は要りそうだ」

「そんな風に言うもんじゃないよ、ロッド」


 ふと、カウンターの方から声が掛かる。

 オーナーが薫製の牛肉をスライスしながら、笑ってこちらを見ていた。


「どうしようもなく救いがたいやつらなのは認めるけど、死んだらどちらにせよ不憫さ」

「ふん」


 鍛冶屋の男は鼻を鳴らした。


「あんたが慈愛に満ち溢れているのはよく理解したが、するとリンカーンにぶっ殺されたインディアン共も不憫と言うことになる」

「同じことさ。命に貴賤はないし、流された血は土地を汚す。そしておれの店も汚す」


 オーナーは料理を中断し、顔をしかめながら散らかった店内を片付け始めた。

 ちりとりに散乱した野菜と、冷えて脂が白く固まったソーセージのくずと、動かない人差し指を掃き入れゴミ箱に放り込み、最後に雑巾を円卓にささっと掛ける。流れるような一連の作業は見ていて小気味良くもあった。


「おまけにこの雑巾はもう使えなくなった。やつが殺されてると保安官がこっちにも飛んで来るんで億劫なんだ、どうか死なないでくれ」

「何もしやしないだろう、あの腰抜けは」


 ほどなくして、店内にはレイと男とオーナーの他には、片手で数えられるばかりの客しか残らなくなった。

 ここは随分と夜が早いとレイは思った。

 なおも鍛冶屋の男は帰らない。

 レイは目の前の偏屈な男に淡い興味を抱き始めていた。


「そう言えば、お前さんの名もろくに聞いてなかったな」


 レイは気まぐれに質問してみる。

 鍛冶屋の男はさも面倒そうに首を振った。


「ロッド・サーストン」

「それだけか。渾名は?」

「渾名は、定義からして自分で名乗るものではないだろう。呼びたいように呼べばいい」

「そうか。よろしく、ロッド」

「ご丁寧にどうも」


 ロッドは律儀に、左手を差し出した。

 レイはそれを見て、少し悪戯心を働かせた。幾分と意地の悪い企みが彼の中に浮かんだ。

 右腕の義手でロッドと握手を交わす。


 レイは筋肉に送る魔力圧を強める。

 魔力場の反発係数が上昇し、義手操作の基幹である放出導式の出力が増加した。

 すると、ロッドの顔が度数の高いウイスキーを飲んだ酔っ払いのごとく、かっと赤くなった。鍛冶業で身に付いた、彼の太い腕がぶるぶると震え始める。

 義手を馬鹿にされた意趣返しとばかりに、レイはロッドの右手を一際強く握ってから、ゆっくりと解放してやった。


「鍛治屋さん。あんた、力強いんだな」

「痺れるね、くそったれ」

「そいつは良かったよ」


 ロッドは再度舌打ちをした。

 それは前のものよりも強く、今度は彼の分厚い舌はさらにくっきりと見えた。


「それより、その義手、もう少し良く見せてはくれないか?どうも気になることがあるんだ、あんたのその、値が張りそうな忌々しい右腕についてだ」

「随分な物言いだな、たまげた。サウスダコタの男ってのは皆こうなのか?」

「こいつが偏屈なだけだよ、お若いの」


 レイが振り返ると、眼鏡を掛けた壮年のオーナーが、レイたちに二人ぶんのシチューを持ってきたところだった。


「今日はもうお前さん方が最後の客だろうな。おれも混ぜてくれ、一杯やろう」


 レイは義手をつけていない左腕で、鍛冶屋はふつうに右腕でそれぞれビーフシチューを食べた。シチューは美味だった。

 スプーンで突き刺したじゃがいもは、ほろほろとほどけるように崩れる。付け合わせのライ麦パンを褐色のルウにつけ、一口で平らげる。薫製肉と一緒に食べるのも良い。

 オーナーから差し出されたウイスキーを食事の合間合間にちびちびとった。

 体が火照り、胃の腑は躍り、なんとも良い心持ちになってくる。

 話の肴にはレイの右腕のことが上がった。


「お客さん、そもそもそんな腕どこで手に入れたんだ」

「神様から貰ったのさ」


 レイは適当にはぐらかした。

 言った所で信じられるような出自でもなかったし、特段理解も望まない。


「おれの知る神はもう少しけちな輩だがね」

「神様と言うのは二面性があるものだろう」

「珍しいじゃないかロッド、あんたが蹴飛ばせば痛いモン以外の話をするとはな」

「俺の脳みそは別に鉄で出来ちゃあしないよ、マスター」

「それで、二面性と言うのは?」

「ああ、すまん。まず人間ってのは誰であれ裏の顔を持ってるものだろう」


 レイとマスターは同意した。


「そして神は自分に似せて人間を造ったんだろう?だったらあのつまらん男...男か?ともかく、そいつも裏の顔を持ち合わせてるんじゃないのか」

「ふぅん、なるほど」


 オーナーが感心したように面を上げる。

 ロッドは思いの外信仰があるようだった。


「あんたがそこまで敬虔だったとは。今まで『光あれ!』なんざ唱えたことも無いような顔をしてるのに」

「よせ、家の都合だ。俺は全く十字架なんぞ持ち歩く気はないし、これからもそうだ。それよりもその義手を早く見せてくれ!そいつは一体なんなんだ?」


 ロッドは待ちきれないと言った体で催促する。もはや神についてのあれこれは彼にとって些事のようだった。

 レイは机に右腕を投げ出して、義手をロッドに見せる。

 ロッドはしばらくレイの右腕を持ち上げたり引っ張ったりして、何事かを調べていた。


「なんだ...これは、回転式弾倉リボルバ?しかし義手にこんな物も要らんだろう...隠し銃の形跡もない。飾りにしては妙な所に仕込まれているし...ひょっとするとこのリボルバ、中に金と魔導が張ってあるのか?」


 ロッドはぶつぶつとうわ言のように呟く。

 レイは右腕を鍛冶屋に弄られながらも、空いた左手で黙々とシチューを口に運んだ。

 ふと他のものより大きい塊の薫製肉を見付け口に運ぶと、口内で、脂と香草と野菜の煮溶かされた旨みがじゅわあっと溢れ、レイは至福を味わった。


「マスターは腕が良い」

「それは..ありがとう。毎日ろくでなしどもを相手にしてると忘れるが、あんたみたいなやつもいるんだな、嬉しいよ」

「いいや、俺もろくでなしさ。それにマスターの料理が旨いのは本当だ」

「そうか、良かった」


 ところで、とレイは話題を変える。


「マスターと俺の右腕を弄くり回してるこいつは、いつから知り合いなんだ?話を聞いていると見知った仲に聞こえるが」

「二月前くらいかな、持て余してた工房の責任者として雇ったんだよ。前任が酒場の小競り合いでくたばってな」


 開拓者が集まるサルーンには、壊れた道具や乗機、武器の修理を求める者も多かった。

 蒸気鍛冶はどこにでも詰めているわけではないし、それなりの品質を求めるならばそれなりの設備は必要だ。

 儲かりそうだからと言ってすぐに店舗を建てられるのならば、今頃西部にはひっきりなしに金槌の音が響いているだろう。

 日比の鉱山業や狩猟、戦闘ですり減る資材の需要に対して、各州に点在する鍛冶たちの数はあまりに釣り合わなかった。

 そこでサルーンのオーナーたち、特に良質の鉱山が多いカリフォルニア州やコロラド州などが中心になって考え出したのが、開拓客が集まるサルーンを工房の土地として提供し、設備も負担する宿場工房の存在であった。

 オーナーたちはこぞって腕の良いとされる鍛冶屋を招聘し、鍛冶たちもその話に乗った。


 試みは功を奏し、宿場工房を建てたほとんどのサルーンはその前よりも良い暮らし、例えば上等のウイスキーやマホガニー材のカウンターだったり、そういう結果を手に入れた。

 サルーンと蒸気鍛冶たちとの蜜月関係は今日に至るまで醸成されている。実際、レイがこれまでに立ち寄ったいくつかのサルーンでも、一様に蒸気鍛冶が雇われ、自らの稼ぎのいくらかをサルーンに上納していた。

 そしてロッドは傍目からも解るくらいには腕が良かった。


「なるほど、良い拾い物したんじゃないか」

「ああ。口は嘆きたくなるほど悪いが、腕が良いのでまだクビは飛ばしてない。前任には悪いが、こいつは逸材さ。例え無免許で魔導を使っていようが、へまさえしなきゃここでこのまま雇い続けても良いさ」


 レイは合点がいった。

 ロッドのいやに早い修理の『コツ』は彼が魔導使いだと言うことを踏まえれば、簡単に解決する。魔導を習得するには多大な金と労力が必要なはずだが、そうするとやはりロッドはどこか良い家の出なのかも知れない。


「それで、いい加減あんたは右腕いじりを止める気はないのか」

「あ?...ああ。すまない、いや、こんな出鱈目な義手は見たことがなかった。魔導を使ってるのにわざわざ小型の水槽を付ける訳も解らない。確かに高圧蒸気くらいなら出せるだろうが、それも数瞬だけのことだ。なぁ、何だか俺は自分の依頼主の頭がおかしいように思えてきたんだが」

「オーケー、俺は狂ってもいないし、その義手は何度も俺の命を救ってきた。そう言えばお前さんの知的好奇心は事足りるのか?無理だろう、ロッド。この手の秘密について一晩で語れることはないんだ。それに俺は明日にはこのサルーンを出るつもりだし、もうあんたと会うこともないだろう。西部ここいらはそういう場所だ」


 ロッドは毒気を抜かれたような顔をして、また暫く黙った。オーナーは目を細めながら、

 いつの間にか持って来ていたプレッツェルをこりこりとつまんでいた。


「聞いてりゃ若いの、中々に似合わん言葉遣いをするさね。おれのがきはもっと落ち着きがなかったね」

「良く言われるよ。しかし、へぇ、マスターには子供がいるのか」

「ああ、昔のことさ。今はもういない。丁度あんたくらいの時に死んだ。死体も回収できないくらいの最期だったらしい」 


 不意にマスターから転がり出た一言に、場の空気が冷えた。

 蒸気ストーブで暖まっているはずの店内が、どこかそら寒い。

 平坦な口調には、年月に洗い晒された哀しみの色が深かった。


南北戦争シビル・ウォーか」

「そうさ。ふざけた戦争だったよ、ありゃあ。魔術がぽんぽん飛び交ってすっかり地形は変わっちまったし、少なくとも理不尽な物だったと言うことだけは間違いないさ。全体、何をどうすりゃ84万人もくたばる間抜けな戦いが起きるのかおれには解らないね」

「息子さんと一緒の部隊には?」

「生憎と馬がおれの尻を気に食わなかったらしくてな、歩兵に回されたよ。恥ずべきことさ。おれが一緒に行けてりゃ、少なくともティムを守ってやれたかも知れない。俺は父親としてそうすべきだった」

「...そうか」

「いや、すまないね。こんな話をするつもりじゃなかったんだが」


 レイは食事をもう終えている。

 ただ、オーナーの話に聞き入っていた。

 オーナーは溜め息を一つ付いて、空いたレイとロッドの皿を片付け始める。

 ロッドもいつの間にか、自分のぶんを食べ終わっていたらしかった。

 じっと机に腰掛け、眉間に皺を寄らせてオーナーの話を聞いている。


 レイはオーナーを眺めながらぼんやりと考えた。語られた彼の息子のこと、ティムと言う名前。オーナーが作った薫製肉のビーフシチューの味や、昔の戦争のこと。

 ふと、思い出したことがあった。

 レイは思い付いたままに訊ねてみる。


「ひょっとしてあんたの息子の名前は、ティモシー・バンクスと言う名前だったりはしないか?」

「...そうだ。何故その名前を?あんたが戦争に参加したって言うのかい?」

「まさか。教えてくれたのは俺の知り合いだよ。魔導の師匠だ」


 レイは首もとのゴーグルを弄りながら言った。


「その、師匠...は、もう?」

「ああ、俺があんたの息子さんのことを教えられたのは師匠からの手紙だよ。手紙が来なくなって、それから暫くして代わりみたいに戦死したと聞いた」

「そう、か」

「ああ。あんたに似て、料理が上手かったらしいね。師匠が誉めてたんだ」

「...あいつ、しっかりやってたんだな」

「みたいだな」


 オーナーは眼鏡を取り、そのまま口許を抑え顔を伏せた。

 人間の振りをしていた銅像が、再び物言わぬ彫刻に戻ろうとしているかのような格好で、オーナーは嗚咽を漏らす。

 レイとロッドは黙って、ただ悲嘆に暮れる息子を失った父を見つめていた。

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