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遠くで呼ぶ声がする。
エリーヌは落ち着かなそうに鼻を鳴らして後ろを振り返った。
「気になるなら戻れよ」
ふらつきながら話しかける。意味が通じるかは分からないが。
エリーヌはクレナの周りをうろうろしながら見つめてきた。どこか気遣うような顔つきに本来の凶暴さは欠片もない。
獣道を外れてどのくらい経ったか、周囲の似たような木々は方向感覚を失わせる。隠れ家の森ほど鬱蒼とはしていないが、高く伸びた幹が檻のように連なる景色は少々気味が悪い。
クレナは息切れしながら倒木に腰を下ろした。全身が悲鳴をあげている。体力も落ちたが体を動かす度に骨が軋むのが厄介だ。外身は無事だったが中はそうでもないらしい。
荒く息を吐くクレナの足元にエリーヌが伏せる。家を出るときについてきてからずっと離れようとしない。
「お節介なやつだな」
不満げに呟くと尻尾をゆらゆらと振った。
空を見上げると、日が傾き始めていた。柔らかな光の中に枯葉が舞う。あと十日もすれば寒さがやって来るだろう。川の水はもう十分に冷えていた。
いつもなら、薪を集めたり屋根の補強をしたりする頃合だ。バルローズの冬は、量こそ北方まではいかないものの湿った重い雪が降る。雪の重みで家が潰れるというのは庶民にはよくある話だ。
遠巻きに牡鹿がこちらを見つめている。逆光で塗りつぶされた影にはどこか神聖さを感じた。しかし目の前に肉がいるというのに足元の狩人は見向きもしない。
「喰わねえのかい」
エリーヌは耳だけを動かして寛いでいる。牙を剥いて追い回すつもりはないらしい。
クレナは緊張感の欠けた空間にため息をついた。死と隣り合わせの世界に長く身を置いていたクレナにはどうも釈然としない。同じ国内でこうも違うものか。
包帯で覆われた両手をぼんやり見つめる。この場の何よりも汚れているだろう両手。無論生きるためにやったことだが、殺すために殺した命が無かったと言えば嘘になる。
覚悟をして、共に汚れてきたはずだった。道を違えるなど想像もしなかった。なにがあろうと片割れでいると、長年誓ってきたはずだったのに。
「……」
一時の迷いだと思っていた。彼があまりに惨めで、同情してしまっただけだ。殺してしまえば忘れるだろうと。
気づけば彼といることを楽しく感じていた。彼が笑うと嬉しくなっていた。一心同体とまで思っていた男が彼に放った言葉を、許せない自分がいた。
嘲笑をもらしたクレナをエリーヌが見上げる。
「薄情な女だ」
拾ってもらった恩も忘れて、感情に流され裏切ったのだ。せめてもの償いだと身を投げたのに、それさえしくじってのうのうと生きている。
「……もう一度死のうとも思わねぇや」
牡鹿はいつの間にか姿を消していた。クレナは自由のきかない体を無理やり立たせた。無闇に歩き回ったせいで足が火照っている。
エリーヌが擦り寄って鼻を鳴らす。賢そうな瞳がクレナを映した。
「まだ帰らねえよ」
腕を振って追い払う。よろよろと偏った重心で歩き出すと、エリーヌはひとつ吠えて後に続いた。
水音を頼りに森を進む。日暮れと相まって随分空気が冷えてきた。茜に染まる景色に、歪んだ影が伸びた。
やがて視界が開けて、水辺に出た。丸石に足を取られながらも近づく。エリーヌが心配そうに横を歩いた。
「よ、っと」
スカートの裾をたくしあげて、低めの岩に腰を下ろす。靴を脱いでよれた包帯を解くと、いくらか不快感がマシになった。
足を伸ばして水流にさらす。擦り傷だらけの素足を水が冷たく撫でた。この川が落ちたクレナを受けとめ運んだらしい。
夕日にきらめく水面を覗き込むと、包帯を巻いたつまらなそうな顔がにらみ返してきた。顔の左側を隠して、無愛想な表情が映り込んでいる。
「はは、見ろよ。まるであんたみたいだ」
クレナは失笑して独りごちた。やるせなくなって自身の左頬を撫でた。水面も真似をして右頬を覆った。
「恨んでるかい、俺を」
陽の光が消えていく。せせらぎに意識が揺らいで、冷えすぎた足先が感覚を失っていく。手を伸ばして叫んだ声が頭の中で反響した。
エリーヌに袖を引っ張られて、クレナの意識は現実に引き戻された。
「……戻るか」
辺りは薄暗くなり始めている。転ばずに帰れるだろうか。
包帯を巻き直して立ち上がると目眩がした。自然と笑いが込み上げてくる。
「本当にか弱くなっちまったな」
首を傾げるエリーヌを撫でて、クレナは森の中へ踵を返した。
徒花 輪円桃丸 @marutama
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