徒花

輪円桃丸

朝靄に陽の光が乱反射して、森全体が薄ぼんやりと明るくなる。目覚めた動物たちが思い思いに挨拶を交わした。清々しい始まりだ。

踏み固まった獣道を一匹の狼が駆ける。狼は少し進んでは後ろを振り返り、ときには座って待った。足音が近くなると尻尾を揺らしてまた進み出す。

不意に狼が首を伸ばして周囲を見渡した。目標を定めると、一気にそちらへ駆けていく。

「どうかしたの?」

足音の主が狼に問いかける。今度は止まらずに進んでいく狼を、不思議そうに追いかけた。

やがて出たのは川岸。下流の穏やかな流れに落ち葉が身を任せている。狼は水流のすぐそばをうろついて臭いを嗅いでいた。

「あらあら、大変」

足音が止まり、一拍おいて狼に駆け寄った。

傷だらけになった少女が縁に流れ着いていた。



遠い場所で団欒が聞こえる。懐かしい声だ。

幼い子供が無邪気に笑っている。

小さな燭台を囲んで、夢を語っている。

いつか、すげーどろぼうになるんだ。

あんたなんかより、いっぱい稼いでやる。

おい、笑うなよ。

でも、そのまえに、おまえみたいになるんだ。

頭の切れる悪党にさ。

かわいらしい女の子より、そのほうが。

ずっと、楽しいからさ……。



「あら、目を開けたわ。母様、ちょっと」

気配が遠くなっていく。甘い香りと暖かい感覚に、クレナはしばらく意識を泳がせた。

全身が鉛のように重い。指先さえ微かにしか動かせない。どうやら首を捻ることも難しそうだ。不自然に欠けた視界で、室内であるということは分かった。

「気分はどうかしら、お嬢ちゃん」

嗄れた声が掛けられる。瞳を動かして視界の端を見ると、人の良さそうな老婆が映った。

「良くはないわよね。ええそれは分かっているわ、おかしなことをきいたみたい」

「……、」

返事をしようとして痛みに身を固める。深呼吸が出来ない。

「酷い怪我なの、無理をしないで?大丈夫よ、ここは安全だから」

老婆が柔らかく微笑んで毛布をかけ直した。

「お医者さまは驚いてたわ。きっと神様が守ってくださったのね」

「……」

「ああシュガー、ミルクを淹れてきてくれる?少し温くね」

「分かったわ母様」

一人分の気配が動いて、一瞬だけなびいた金髪が見えた。

穏やかな空間に思考が解けていく。再び微睡みそうになるのを堪えながら、状況をなんとか思い出した。

ああ、そうか。生き延びてしまった。

一気にクレナの体温が冷えきった気がした。魂までも砕け散れと願ったが、魂どころかこの肉体すら形を留めているではないか。

「……の、まま」

「うん?どうしたの」

「死んで、しま、えたら」

老婆が心配そうにこちらをのぞき込んだ。哀れみの目が心をざわつかせる。

「ええと」

何も言わないでくれ。今の体では怒鳴ることも出来やしない。

「……そうね、あのまま流されていれば、楽になれたのでしょうね」

困ったように老婆は言った。

「ええ、あなたは運が良くなかったのね。私に見つけられてしまったのだもの。死んだほうが楽なことだってたくさんあるというのに」

老婆の小さな手が動かないクレナの手に重ねられる。老婆は心から戸惑ったように、眉を下げて手を撫でた。

「ごめんなさい、助けてしまって。でも私、あなたに生きて欲しかったのよ」

クレナは何も言い返す気になれず、ただ老婆を見つめた。形容しがたい沈黙がしばし続いた。

「母様、客人がお見えよ」

カップを載せた盆を持ちながら、先程の声の主が顔を覗かせた。繊細な金髪を腰まで垂らした、見目のいい娘だ。

「そう、今行くわ。この子をお願いね」

老婆はゆっくり手を離すと、娘と入れ替わりに部屋から出ていった。

「手は動かせる?スプーンで運びましょうか」

娘はにこりと笑って椅子に腰掛けた。

「わたしはシュガー。あなたはお名前あるのかしら」

スプーンでミルクをかき混ぜながら娘、シュガーは名乗った。クレナは面倒に思って最大限そっぽを向いた。

「嫌ならいいわ。名前って大事なものだもの。はい、口を開けて」

「いら、な」

「駄目よ。せっかく淹れてあげたんだからせめて半分は飲みなさいな」

老婆と違い押しの強い女だ。クレナは思わず顔を顰めた。

「あら、そんな顔出来るんだったら大丈夫ね。さっさと飲んでさっさと怪我を治しなさい」

「気の、強い」

「お淑やかなだけじゃもう生きていけないのよ。ほら」

「む」

否応なしにスプーンを突っ込まれる。口内にほんのり甘味が広がった。

「もう少し良くなったらお粥を作ってあげるわ。急にものを食べるとお腹によくないんですって」

「……」

「そう、あなた5日も寝ていたのよ?全くお寝坊さんなんだから」

「……」

「飲み終わったら包帯を替えますからね。まだ痛みがあるだろうけど我慢して……あら」

手早くスプーンを動かしていたシュガーが手を止めてこちらを見つめた。今度はなんだというのか。

ペラペラと喋っていたシュガーが黙りこんで微かに笑う。呆れたような困ったような、よく分からない表情だ。

「いいわよ、気にしないで」

よく分からない許し。何のことを言っているのだろうか。

毛布に雫が落ちて染みを作った。

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