徒花
輪円桃丸
1
朝靄に陽の光が乱反射して、森全体が薄ぼんやりと明るくなる。目覚めた動物たちが思い思いに挨拶を交わした。清々しい始まりだ。
踏み固まった獣道を一匹の狼が駆ける。狼は少し進んでは後ろを振り返り、ときには座って待った。足音が近くなると尻尾を揺らしてまた進み出す。
不意に狼が首を伸ばして周囲を見渡した。目標を定めると、一気にそちらへ駆けていく。
「どうかしたの?」
足音の主が狼に問いかける。今度は止まらずに進んでいく狼を、不思議そうに追いかけた。
やがて出たのは川岸。下流の穏やかな流れに落ち葉が身を任せている。狼は水流のすぐそばをうろついて臭いを嗅いでいた。
「あらあら、大変」
足音が止まり、一拍おいて狼に駆け寄った。
傷だらけになった少女が縁に流れ着いていた。
*
遠い場所で団欒が聞こえる。懐かしい声だ。
幼い子供が無邪気に笑っている。
小さな燭台を囲んで、夢を語っている。
いつか、すげーどろぼうになるんだ。
あんたなんかより、いっぱい稼いでやる。
おい、笑うなよ。
でも、そのまえに、おまえみたいになるんだ。
頭の切れる悪党にさ。
かわいらしい女の子より、そのほうが。
ずっと、楽しいからさ……。
*
「あら、目を開けたわ。母様、ちょっと」
気配が遠くなっていく。甘い香りと暖かい感覚に、クレナはしばらく意識を泳がせた。
全身が鉛のように重い。指先さえ微かにしか動かせない。どうやら首を捻ることも難しそうだ。不自然に欠けた視界で、室内であるということは分かった。
「気分はどうかしら、お嬢ちゃん」
嗄れた声が掛けられる。瞳を動かして視界の端を見ると、人の良さそうな老婆が映った。
「良くはないわよね。ええそれは分かっているわ、おかしなことをきいたみたい」
「……、」
返事をしようとして痛みに身を固める。深呼吸が出来ない。
「酷い怪我なの、無理をしないで?大丈夫よ、ここは安全だから」
老婆が柔らかく微笑んで毛布をかけ直した。
「お医者さまは驚いてたわ。きっと神様が守ってくださったのね」
「……」
「ああシュガー、ミルクを淹れてきてくれる?少し温くね」
「分かったわ母様」
一人分の気配が動いて、一瞬だけなびいた金髪が見えた。
穏やかな空間に思考が解けていく。再び微睡みそうになるのを堪えながら、状況をなんとか思い出した。
ああ、そうか。生き延びてしまった。
一気にクレナの体温が冷えきった気がした。魂までも砕け散れと願ったが、魂どころかこの肉体すら形を留めているではないか。
「……の、まま」
「うん?どうしたの」
「死んで、しま、えたら」
老婆が心配そうにこちらをのぞき込んだ。哀れみの目が心をざわつかせる。
「ええと」
何も言わないでくれ。今の体では怒鳴ることも出来やしない。
「……そうね、あのまま流されていれば、楽になれたのでしょうね」
困ったように老婆は言った。
「ええ、あなたは運が良くなかったのね。私に見つけられてしまったのだもの。死んだほうが楽なことだってたくさんあるというのに」
老婆の小さな手が動かないクレナの手に重ねられる。老婆は心から戸惑ったように、眉を下げて手を撫でた。
「ごめんなさい、助けてしまって。でも私、あなたに生きて欲しかったのよ」
クレナは何も言い返す気になれず、ただ老婆を見つめた。形容しがたい沈黙がしばし続いた。
「母様、客人がお見えよ」
カップを載せた盆を持ちながら、先程の声の主が顔を覗かせた。繊細な金髪を腰まで垂らした、見目のいい娘だ。
「そう、今行くわ。この子をお願いね」
老婆はゆっくり手を離すと、娘と入れ替わりに部屋から出ていった。
「手は動かせる?スプーンで運びましょうか」
娘はにこりと笑って椅子に腰掛けた。
「わたしはシュガー。あなたはお名前あるのかしら」
スプーンでミルクをかき混ぜながら娘、シュガーは名乗った。クレナは面倒に思って最大限そっぽを向いた。
「嫌ならいいわ。名前って大事なものだもの。はい、口を開けて」
「いら、な」
「駄目よ。せっかく淹れてあげたんだからせめて半分は飲みなさいな」
老婆と違い押しの強い女だ。クレナは思わず顔を顰めた。
「あら、そんな顔出来るんだったら大丈夫ね。さっさと飲んでさっさと怪我を治しなさい」
「気の、強い」
「お淑やかなだけじゃもう生きていけないのよ。ほら」
「む」
否応なしにスプーンを突っ込まれる。口内にほんのり甘味が広がった。
「もう少し良くなったらお粥を作ってあげるわ。急にものを食べるとお腹によくないんですって」
「……」
「そう、あなた5日も寝ていたのよ?全くお寝坊さんなんだから」
「……」
「飲み終わったら包帯を替えますからね。まだ痛みがあるだろうけど我慢して……あら」
手早くスプーンを動かしていたシュガーが手を止めてこちらを見つめた。今度はなんだというのか。
ペラペラと喋っていたシュガーが黙りこんで微かに笑う。呆れたような困ったような、よく分からない表情だ。
「いいわよ、気にしないで」
よく分からない許し。何のことを言っているのだろうか。
毛布に雫が落ちて染みを作った。
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