少しばかり眼が良いだけの一般人です

雛罌粟 朱鳥

第1話 普通であるということ


 普通―――特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それがあたりまえであること。また、そのさま(引用・デジタル大辞泉)



 私こと、佐倉緋音さくらあかねは、ごく普通の一般人だ。

 ・・・数時間前までは。



 〇 〇 〇


 事務職に就職して早二年。

 仕事にも慣れ、当たり障りのない人間関係を築いてきた緋音は金曜日である今日、普段よりも遅い時間に退社した。

 ごくたまに、うっかりミスをやらかしてしまう営業の男性社員が、顔面蒼白になりながら週明けの朝一で必要な書類作成を頼まれてしまっただけの話だ。

 取引先に迷惑をかける前に気づけたのは、唯一の幸いと言えるのかもしれない。


 もっとも、この役目を引き受けたがゆえに、緋音は今、最悪の状況と向かい合うことになってしまったのだが。



 普段ならば、日が落ちていないうちに通り抜けている脇道を前に、緋音は立ち止まっている。

 日中でも薄暗い脇道は、日が落ちてからは通らないようにしよう、と誰もが思うくらい不気味な雰囲気を漂わせている。

「・・・もっとも、私はここを通らないと家に帰れない、と」

 アパートまでの道はここ以外にもあるのだが、どういうわけか、今日に限って事故だったり工事だったりがあって通行禁止になっている。

 未成年ではないから、今日は家に帰らないという選択肢もあるはずだったのだが、それは選べない状況だった。


 わずかな光源もない、真っ暗な通り道の中央にある、一際濃い闇と


 普通の人の目には映らないソレは、ゆっくりとした動きで寄せ集まり、やがて人のようなカタチを取り始めた。

 にたり、と口元らしき場所が歪な笑みを浮かべる。

 獲物に狙いを定めた獣のように、キヒヒヒと奇妙な嗤い声を響かせながら近づいてくる。


 幼いころから他人には視えないものを視て、多少のことでは動じない性格にはなったが、コレ・・はどうしようもできない。

 徐々に近づいてくる恐怖に動けずにいると、突然、声をかけられた。

 

「―――佐倉さん?」

「っ、冴島さえじま課長。どうしてここに・・・」

 緋音以外の人間の気配がしたおかげで、ソレは人のカタチを崩し、身を潜めた。

 そのことに安堵しつつ、隣に立った上司を見上げる。


 冴島黎さえじまれいは、緋音の所属する第二営業部ではなく、第一営業部の課長である。その容姿と卓越した話術で女のみならず男までも魅了してしまう罪な男、と緋音の同僚である筒路真緒つつじまおが熱弁を振るっていた。


「ちょっとこの近くに用事があってね。佐倉さんこそ、そんなところに立ち止まってどうしたんだい?」

「あー・・・いえ、ちょっと怖いというか、通れないというか・・・」

 曖昧な物言いに首を傾げつつも近寄ってきた冴島は、緋音が見つめていた脇道を覗いてなるほど、と頷いてみせた。

「たしかに、夜遅くにここを通るのは勇気がいるだろうね」

「ええ、まあ・・・そうですね」

 本当は別の理由で通れないのだが、普通の人より眼が良いことは秘密なので頷いておく。

「この道以外に家に帰る道はないのかい?」

「それが・・・他の道は事故があったり、工事をしていたりで、通れないんです」

 ため息とともにそう伝えれば、課長はどこか遠くを見つめるようにしてそうか、と呟いた。

「あの・・・課長?」

 先ほどの緋音と同じように脇道を睨みつけたまま動かなくなった冴島に、戸惑いながら声をかける。

「―――ここに逃げ込んでいたのか」

 無意識であろう呟きは、普段の冴島からは想像もつかないほど、聞くものを慄かせる冷たい響きが混じっていた。

「か、ちょう・・・?」

「あぁ・・・ごめん、佐倉さん。怖がらせてしまったみたいだね」

 びくりと身を竦ませた緋音に気付いて、冴島が振り返って笑いかける。

 それにほっと息を吐きつつ、緋音は小さく首を振る。

「この道は危ないから、今日はホテルに泊まったほうがいいんじゃないかな?俺が予約取るよ」

「いえ、そこまでしていただくわけには!自分で何とかしますので」

 冴島からの突然の提案に、緋音は驚いて大げさに首を振った。

 いくら会社の上司でも親しい間柄というわけではないのだ。どういう理由であれ、そこまでしてもらうわけにはいかない。

 この道は危ない《・・・・・・・》、という言葉の意味を問い返してみたかったが、はぐらかされそうな気がしたため、聞けなかった。

「うん。だけど、そうも言ってられないんだ」

 いつものように冴島は、薄く笑みを浮かべながら緋音に顔を近づけた。

 咄嗟に身を引こうとしたが、それよりも早く冴島の腕が伸びる。

「―――大丈夫。眠っていれば、すぐに終わるから」

 大きな手に視界を覆われたと思った瞬間、唐突に睡魔が襲ってきた。

 くずれ落ちそうになる身体を必死に保とうとするが、力が入らず倒れそうになる。


 身体を抱き留められた感触を最後に、緋音の意識は途切れた。



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