府立異世界博物館

扇智史

第1話「魔王ルギルギグスの肖像」

 深夜の博物館である。

 展示室の照明は落とされ、屋内にはぽつぽつと常夜灯がともるばかり。ガラスケースに陳列された古びた書物や年代物の器や近代様式の風景画が、薄闇の中にうっすらと自らの存在を主張している。保存性を優先して常に気温が調整されている室内には、冷え冷えとした空気が漂う。


 そんな、静寂に包まれているはずの、夜の博物館。


 そのいちばん奥、館内でもっとも広い大展示室では、今まさに、魔王がこの世に復活しようとしていた。


「せんぱぁい、もうこいつ、この絵ごとぶっ壊しちゃった方がいいんじゃないっすかぁ?」


 バトルアックスを肩に担いだ、学芸員の黒田くろだ拓郎たくろうがとぼけた調子で言う。文系らしからぬムキムキの大胸筋はスーツからはちきれんばかり。今にも武器を振るいたそうに、うずうずしているようだった。


 彼の前には、人の背丈ほどもある額縁に収められた、古い肖像画。

 その表面からごうごうと音を立てて、どす黒い瘴気しょうき--魔族の出現に伴って生じる暗黒の魔力を持った気体が発せられていた。闇色の瘴気に覆われた額縁が、今しもくびきから解き放たれようとする獣のように、がたがたと振動する。


「拓郎くんのおバカ! それでも学芸員の端くれかーっ!」


 彼の後ろで木製の杖を構えた、同じく学芸員の佐伯さえきうららは、志の足りない後輩を一喝した。


「何度も言ってるでしょう! この博物館の収蔵品は、異世界から輸入された貴重な文化財なの! 学芸員の名にかけて、命を懸けても収蔵品を守るのよ! 斧でぶっ壊すなんてもってのほか!」

「そうは言いますけど、せんぱぁい。理屈こねてる場合じゃないっすよぉ?」


 額縁の中の絵に描かれているのは、ひとりの年老いた男。

 豪奢な宝石で飾られた黒いローブを身にまとい、クリスタルをあしらったロッドを手にしている。年輪を重ねた面差しには、よこしまな笑みが浮かび、枯れることのない邪悪な欲望と執念が、絵画の中に刻み込まれているようだった。

 こめかみから天に向かって伸びる2本の角が、その男が、高位の魔族であることを示していた。

 題名は「魔王ルギルギグスの肖像」。

 200年前に異世界に実在した魔王を描いた、肖像画だ。


 肖像画の中央、杖を握りしめた右手のあたりから、黒い瘴気をかき分けるようにして、鈍い輝きを帯びた紅色の魔族の爪が伸びている。

 絵から飛び出し、実体化した魔王の爪が、獲物を狙う蛇のごとくうごめく。

 かつて、勇者によって絵画に施された封印から、魔王が復活しようとしているのだ。


「ここには俺らしかいないわけッスしぃ。俺らが何とかするしかないっしょ?」


 斧を担いだ拓郎の口調はさばさばとしている。絵画の価値なんかどうでもいい、とにかく目先の事態を何とかすべきだ、という割り切りなのだろう。

 麗は、スーツに包まれた彼の大きな背中を恨めしげに見つめながら、内心で歯噛みする。


(まったく、何でこんな日に……)


 この「魔王ルギルギグスの肖像」から魔王が復活しようとするのは、初めてではない。

 あらゆる異世界の文物を取り扱う異世界博物館では、こうしたトラブルはむしろ日常茶飯事だ。古代魔術の秘儀を記した写本は、時として自らに秘められた魔術を解放しようとする。ドワーフが手塩にかけて造った土器は、秘術の力で中からこんこんと水を湧き出させて洪水を引き起こす。

 そんな異常事態が頻繁に起こるこの異世界博物館には、魔術管理資格を持った腕利き学芸員が24時間体制で勤務し、問題に備えている。普段であれば、彼らが一斉に対処することで、魔王をあっさりと再封印できるはずだった。

 しかし、今日は運が悪いことに、夜間当直は新人の拓郎と麗のふたりだけ。20代半ばにしてベテランの風格を醸す麗であれば、拓郎をフォローできるはず、という館長の判断だった。


 信頼されている、ということでもあるが、さすがに危機管理が甘かった、と思うほかない。


(でも、やるしかないのよね)


 麗は、魔術管理資格者の証である深紅のマントの下で、肩をすくめる。


「破壊するなんて言語道断よ」


 きっぱりと麗は告げた。拓郎が不満そうに眉を上げるが、彼が反論を口にする前に、麗はまくし立てる。


「あの絵画はそれ自体が封印になっているから、破壊したらそれこそ魔王が復活しかねない。しかも、異世界大陸国家連合によって認定された特級文化遺産よ。もし損傷させようものなら、とんでもない額の賠償が請求されるわね」

「俺らの給料から支払うんすか?」

「博物館の年間予算つぎ込んだって足りないわよ。私らは減給どころか懲戒免職まっしぐら」

「そりゃ困りますね」

「だから壊すのはなし、路頭に迷いたくなきゃね」


 文化を軽んじる拓郎も、金と仕事の話になれば理解が早い。1年目の若造には、こういう説明の方が通じやすいらしい、と麗は学んだ。

 下手すれば国交断絶とか、異世界との戦争とか、そこまで発展しかねないが、まあそこまで説明したって現実感がないだろう。身の丈の話の方がちょうどいい。


「でも、そしたらどうするんすか、あれ」


 拓郎と麗が話している間にも、絵画の封印を解いて魔王が復活しようとしている。さっきは爪だけだったのが、今はもう第二関節まで出現して、指全体が現世に顕現するのも時間の問題だ。魔王の復活に伴い、瘴気はますます色濃く絵の周りを染め上げている。


 あまり瘴気が濃くなると、展示物にも被害が及ぶ。魔力のこもった金属器や土器に瘴気が触れれば、魔術的反応によって変色やひび割れが起こってしまう。

 魔王の復活を阻止できず、国宝級の展示物を傷つけたとあっては、それだけで学芸員の名折れだ。


 高い倍率を突破して、あこがれの異世界博物館に就職し、多くの展覧会や企画を催して実績を重ねてきた。この博物館の学芸員として、いい仕事をしている、という自負が、麗にはある。


 こんな、魔王の復活ごときで、そのキャリアを棒に振るわけにはいかない。


 それより何より。


(たかが魔王に、貴重な文化財を傷つけさせてたまるもんですか!)


「決まってるでしょ、お引き取り願うのよ!」


 ぶん、と、麗は杖を振るう。バトントワリングのように、くるくると手の中で器用に杖を回転させると、先端にセットされた魔宝石が淡い光を放つ。


「この術は、あんまり使いたくなかったんだけどね……!」


 ぼやきながら、麗は右手で杖を把持、残る左手で空中に魔術文字を書く。うっすらと発光した左手の人差し指が描く複雑な文様は、時々刻々と姿を変え、壮大な魔術の発動の予兆を告げる。

 同時に、麗は口元でぶつぶつと呪文を唱える。魔術管理資格6類の過去問では頻出の、資格取得した学芸員なら絶対覚えている封印呪文だ。


 そして、術式が完成する。


「邪なる魔よ、とこしえの眠りに還るがいい! 発動、絶対封印!」


 かっ、と。

 展示室に光が満ちあふれる。


 壁面のガラスケースに設置された魔術書が。

 部屋の中央に安置された古代の魔宝石が。

 入口近くに鎮座する大理石の神像が。

 一斉に光を放つ。


 レーザーめいた光が、展示室内を駆けめぐり、その空中に巨大な魔法円を描き出す。

 麗の描いたのより数段複雑な古代文字と文様で彩られた魔法円が、魔王の肖像画と向かい合って輝く。


 魔王が封印されてより200年。

 長い歴史の中で、異世界の魔術も長大な進歩を遂げた。

 かつては勇者にしか取り扱えなかった強力な封印魔術も、今では、下準備さえあれば誰にでも使いこなせるようになっているのだ。


 そんな、長い歴史を背負った魔術師……いや、学芸員の誇りにかけて。


「魔王よ退け!」


 麗が杖を振るう。


 瞬間、魔法円が、肖像画めがけて飛んだ。


 バチィッ!


 神聖な輝きを放つ封印の魔法円と、邪悪な瘴気を纏った魔王の爪が、ぶつかり合う。衝突する魔力が稲妻のようにはじけ、展示室のあちこちに飛び火する。

 ばちん、ばちん、と、魔力を浴びた展示室の壁が黒こげになる。


「さっさと封印されなさいよ! 壁紙だってタダじゃないんだからね!」


 杖を構え、吹き付ける瘴気に顔をしかめながら、麗は声を張り上げる。さすがに魔王相手とあっては、簡単にはいかない。魔法陣を維持するために、必死に精神を集中する。


「すごいっすねー、さすが先輩ッス」


 麗の苦労も知らぬげに、拓郎はのんきに言う。と、彼は何か思いついたみたいに、斧を振り上げた。


「ねー先輩、絵は駄目でも、この指だけならぶったぎっちゃえばいいんじゃないすか?」

「え、ダメダメ!」


 あわてて麗は首を横に振る。全く何にも分かっちゃいない、このド新人。


「そんなことしたら絵柄が変わっちゃうでしょ!」


 魔王の指を切断したら、絵の中の指も消えてしまう。杖をもてなくなってその場に落っことしてしまうかもしれない。

 国宝の絵の図柄が変わったなんて、破壊するのと同じくらいのスキャンダルだ。


 だいたい、杖を落とした、威厳のない魔王の絵なんてつまらないだろうが。


「けど、早く終わらせないと」

「分かってるってーの!」


 拓郎がしびれを切らして斧を振るう前に、終わらせるしかない!


「いい加減、おとなしく絵は絵に帰れっ! 今はもう魔王の時代じゃないんだからっ!」


 魔王なんて歴史の中の存在でいい。

 心配しなくったって、私は、魔王ルギルギグスの名前を忘れない。

 魔王の悪行も、勇者との戦いも、全部歴史に刻まれて、この世界の人も異世界人も絶対忘れない。肖像画を見るたび思い出す。


 だからもう、外に出てくるな。


 願いにも似た怒りを込めて、麗は裂帛の気合いを放つ。


「封印に帰れぇぇぇぇぇぇぇっ!」


 魔法石が、ひときわ強い光を発した。


 麗の気迫に押されたように、魔王の爪が、魔法陣に圧迫されて絵の中へと退いていく。火花がひときわ強くなり、展示室全体が激しい稲光に包まれる。さすがの拓郎も、びびったように身を屈めた。


 そして、魔法陣が、魔王を絵の中に押し返した。


 魔法陣の輝きは、そのまま絵の表面にとけ込んでいき、ふっと消える。


 あたりを圧していた魔力の光も、漂っていた瘴気も、かき消えた。

 展示室に残ったのは、どこからか鳴り響く非常ベルの音と、荒い息を吐く麗と、ぽかんと立ち尽くす拓郎。それから、一部始終を静かに見守っていた、展示物たち。


 封印は成功した。これで、魔王がよみがえることはしばらくないだろう。


「あー、疲れた」


 麗はつぶやいて、その場にへたりこむ。緊張が解けると、大規模な魔術を使った疲労感が一気に襲いかかってきた。全身からどっと汗が吹き出る。腕にも脚にも、力が入らない。


「……すごいっすね。お疲れさまッス」


 しゃがんだまま、アックスの柄の先端を床に置いた拓郎が、麗を見てつぶやく。


「正直、見直しました。学芸員の先輩って、理屈っぽくて、細かいことにやかましくて、うざいって思ってましたけど……マジなんすね」

「あたしらいつでもマジよ。本気で、何百年とか何千年とかって歴史を守ってるの」


 酔狂な話だとは思うが、こんなこと、本気で命を懸けなきゃやってられない。


 はあ、と息を吐いて、麗はその場に横たわった。


「けど、これはきっついわね。シフトもうちょい検討してもらわなきゃ……黒田君、いざってときに役に立たないんだもん」

「だって先輩が壊すなって言うから」

「そもそもさあ、何で戦闘技能しか持ってない子を雇うわけ? 魔術管理資格くらい持ってないと」

「俺だって、ここは本命じゃなかったんすよ。冒険者やりたかったんすけど、枠がいっぱいで」

「今の異世界は平和だもん、冒険者は倍率高いに決まってるじゃない……ったく、黒田君もたいがい夢見がちね」

「ほっといてください。それより、いつになったらこれ止むんすか」


 拓郎は、顔をしかめて部屋の天井を見上げる。ずっと鳴り続ける非常ベルが、いいかげん忌々しいようだ。それは麗も同感だった。


「そりゃもちろん、警備会社が来るまでよ」


 封印魔術を使えば、漏出魔力で展示室は焦げるし、展示用のガラスケースだって割れてしまう。そうなれば当然、警備会社に伝わって、警備員が総出でやってくる。


「だからやりたくなかったのよねー、封印魔術」


 警備員から聞き取り調査を受けて、補修の見積もりをして、一部は麗が自力で修復しなきゃならない。異世界の美術品を補修・修繕するための修復魔術でやることが、割れたガラスケースや壁紙の修理というわけだ。


 まったくもって、学芸員も楽じゃない。


* * *


(府立異世界博物館・収蔵品カタログより抜粋)


「魔王ルギルギグスの肖像」


 日本に最初に輸入された異世界絵画である。300年前に異世界を席巻した魔王ルギルギグス(生年不詳)の肖像画は、その闇の魔力が発する威容、世界のほとんどを制圧していた王者のカリスマをひしひしと感じさせる。有力魔族にして、当時随一の技量を誇った肖像画家の技量はきわめて高く、その重厚なリアリズムと激しい明暗のコントラストの融合は、見るものを魅了せずにはおかない。

 そしてこの肖像画には、魔王そのひと(?)が封印されているというのも大きな特徴である。本来なら厳重に保管されるべきこの肖像画が、異世界を離れてこの異世界博物館に収蔵されたのは、この肖像画に魔王が封印されているという来歴が忘却されていた、という経緯がある。魔王ルギルギグスを打倒した勇者は、その直後に失踪(勇者の実力と人気を恐れた当時の国王により暗殺された、とも伝えられる)、主を失った魔王城は廃墟と化し、魔王の集めた財宝は盗掘によってすべてが散逸した。この宝物の中に、件の肖像画も含まれていたのである。由来の分からないまま、この肖像画は好事家の手に渡った後、流転を繰り返した末に「こちらの世界」へと渡来した。それが魔王の宮廷画家によって描かれた真筆であると判明したのは、つい最近のことである。

 長らく劣悪な保存状態に置かれた肖像画は、塗料の劣化が激しく、それにより魔王の封印も弱まっている。そのため、府立異世界博物館に所蔵された後、この肖像画からはしばしば、太古の魔王が封印を解いて再び出現しようとすることがある。とはいえ、魔王封印より数百年にわたる魔術の進歩によって、太古の魔王は、現代では恐るるに足る存在ではなくなっているため、魔王の退治は決して難しい作業ではない。一方で、肖像画の製作に使われたある種の塗料は現在では稀少品であり、異世界においてもめったに採取・生成されることがないため、完全な絵画の修復=封印の再現はきわめて困難となっている。この事実は、異世界における絵画芸術の保存と修復、そして知的歴史遺産の維持、という二つの大きな課題を突きつけているとも言えよう。

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