第2話「セイレーンの貝殻」

 府立異世界博物館・特別外来研究員インターンのキリカ・フォンタネージは、深々とため息をついた。


「全く、何てざまですか。なぜ私がこんなボンクラの治療をしないといけないのです、佐伯さん」


 キリカは、展示台の前に恍惚とした表情を浮かべて立ち尽くす黒田くろだ拓郎たくろうの後ろ姿を、半眼で睨んでいる。ぶすっとしたキリカの横顔をおずおずと見つめて、佐伯さえきうららは眉尻を下げて言う。


「エルフの魅了魔術を治癒できるの、あなたぐらいなんだよね……ごめんね、キリカさん」

「名前で呼ばないで、といつも申し上げています」

「あ、ああ、ごめんなさい」


 つい、キリカに対して馴れ馴れしい言葉遣いをしてしまう。彼女が初めて異世界博物館に出向してきて以来、麗はキリカとの距離感をうまくつかめていない。

 キリカはさっきから、ずっと眉根を寄せて、拓郎のアホ面をにらみ続けている。つり上がり気味の細い目つきも、まっすぐ通った鼻筋も、細い顎も、うなじでまとめた銀色の長い髪も、惚れ惚れするほど美しい。

 そんな彼女の容貌にあってひときわ特徴的なのは、とがった両耳だった。


 キリカ・フォンタネージは、異世界からこちらの世界にやってきたエルフだ。

 年齢は詳しく教えてもらえない(というか数えていないらしい)が、人間に換算すると数百歳。魔術に関しては、麗をはるかに越える凄腕で、魔術管理資格でいえば1類から6類までのあらゆる魔術に精通している。

 そんな彼女だが、博物館には研究生という待遇での在籍であり、まだ勤めて半年にも満たない麗の後輩だ。

 そういうギャップもあって、麗は、キリカという存在をちょっと扱いかねているところがあった。


「ごめんね……お願いできる?」


 だから、キリカにものを頼むにも、麗はつい腰が引けてしまう。だが、この状況に対処できるのはキリカぐらいなので、お願いするしかない。


 問題を起こしたのは、拓郎だった。彼は今、中央の展示台の前でひざを突いて、ぽかんと宙を見つめている。視線はうつろで、何も見えていないかのようだ。


 ガラスケースで覆われた展示台に設置されているのは、白亜の大理石を彫り上げて造られた貝殻だ。大きなネジのような螺旋状の形で、底部に大きな黒い口を持つ貝殻は、本物そっくりの迫真性を持ちながら、その精緻な凹凸や巧妙な螺旋の形状によって、実物以上の美しさを醸し出している。


 展示台に記された標題は「セイレーンの貝殻」。

 森のエルフの工房において製作され、魔術を宿した貝殻である。


 その貝殻は、見たものに「セイレーンの歌」を聴かせる。

 セイレーンは海に住まい、歌によって旅人を魅了し、水底に沈めるという、蠱惑的で危険な水の精霊だ。

 貝殻の発する歌は、制作者のエルフによって魔術的に再現された模倣であって、そこまでの危険はない。しかし、長時間それを聴き続ければ、意識を奪われて恍惚となり、最悪、人事不省の状態に陥る。

 この展示に当たり、”あまり長いあいだ、そばにいると危ないから、なるべく早くはなれてくださいね。”という注意書きが記されている。やたらにひらがなが多いのは、今回の展示が児童向けだからだ。


 夏休みには、異世界博物館でも子供を対象にした特集展示が開かれる。異世界の文物に触れてもらい、興味を持ってもらうことには、麗たち学芸員も格別な使命感を抱いており、展示には力が入るというものだ。

 「セイレーンの貝殻」は、そんな夏休み向け展示の定番となっている。異世界の音楽、しかもかなり古い時代の海棲種族の音楽を耳にできる機会は貴重だ。「セイレーンの貝殻」に魅了される危険はあるものの、音楽という無形の歴史遺産に触れられるというメリットは、それを補って余りある。

 だからこそ、学芸員の細心の注意のもとに「セイレーンの貝殻」を展示するのだ。


 なのに、子供を守る側の拓郎が魅了されているのだから、麗もあきれるほかない。キリカはなおのことだろう。


「#▲rx□z」


 キリカの口からこぼれた言葉に、麗は振り返る。


「何か言った?」

「何でもありません」


 答えは素っ気ない。麗はそれ以上突っ込むのはやめておいた。キリカは時々、人間には分からないエルフ語で何かをつぶやくことがある。たぶん、愚痴か怒りか、人には聞かせられない類の言葉だろう。


「とりあえず、彼をどうにかすればいいんですね」


 キリカは、拓郎の間抜け面に向けて、右の手のひらを差し出す。中指の根本に、鈍い青色の指輪が光っている。エルフの魔術発動体は杖とは限らず、様々な形状を取る。

 そして、キリカの唇から、呪文が流れ出る。


「&Gri♭↓◆△Fejh@♪ tc∧∀! ♪Rk<Lxh…」


 キリカの口から流れ出ることばには、独特の抑揚とメロディがある。どこか懐かしい、けれどこの世のどこにもない古い唱歌を思わせる旋律が、声の強弱と技巧的なスタッカートによるリズムによって整えられ、それ自体が独立したひとつの歌のようだった。

 歌と祈りは元々同じものだ。異世界民族学の講義で、教授がそんなことを言ったのを、麗は思い出す。

 エルフの呪文は、そんな歴史の息吹を残している。彼女本人が、ある意味、歴史の遺産だった。


「Rrrrrrr!」


 強い一声で呪文を結び、キリカは右手を一振りする。ぼーっと突っ立っていた拓郎の周囲に、光の粒が生まれ、くるくると渦を巻いて彼を包む。

 光が彼の体にとけ込んでいくと、次第に、拓郎の目が正気づいてきた。


「……あ?」

「黒田君、大丈夫?」


 麗は拓郎に歩み寄って、声をかける。しばらくはまだ意識の戻らない様子だったが、そのうち、困惑の表情を浮かべて麗を見つめる。


「あれ……佐伯センパイ? あれ、マーメイドのおねーさんと海鮮フルコースは?」

「幻だよ。黒田君、貝殻の魅惑魔術に引っかかったの」

「マジすか……そっか~、あのおねーさんは幻だったか~。目覚める前にもっと堪能しとくんだった」


「用事は済みましたか? では、私はそろそろ失礼します」


 麗と拓郎の与太話を白い目で見ていたキリカが、冷たい声で告げた。

 それと同時に、館内の時計が19時を知らせる。定時だ。


 まっすぐに背筋を伸ばしてその場を離れようとするキリカの背中に、麗は呼びかける。


「キリ……フォンタネージさん、今日も定時帰り?」

「残業は義務ではありませんよね」

「まあ、そうだけど、でも展示の準備がもうちょっと」

「そういう雑事は本来、私の仕事ではありません」


 お疲れさまでした、と告げて、キリカはすたすたと職員用出入り口へと歩いていってしまう。作業をしていた他の職員たちも、一瞬キリカの方にいぶかしげな目線を送るが、すぐに自分の仕事に戻る。何を言っても無駄だ、と、彼女が来てからの4ヶ月でみんな理解している。


 展示物を運搬したり、梱包したり、展示のキャプションを書いてデザインしたり、飾ったり、そのほか諸々。

 どれもこれも、博物館勤めの学芸員の大事な仕事だ。

 でも、学問のためにこの世界に来た誇り高いエルフにとって、そんなのは下賤で、手を煩わせることの厭わしい仕事なのかもしれない。


 変に彼女の機嫌を損ねれば、エルフ全体を敵に回しかねない。森エルフの長老会議は大陸連合にも強い影響力を持つ。キリカの口から異世界博物館についての悪評が伝われば、それこそ国際問題だ。

 なので、麗たち先輩学芸員も、キリカに正面切ってものを言いかねる空気があった。


 あんまりよくないよなあ、と、思うのだけれど。


「ねえ、センパイ」


 拓郎がぽつりとつぶやく。


「そういや、異世界にもキャバクラってあるんすかね?」

「……調査しに行きたいんなら申請出せば? 通らないと思うけど、予算」


 後輩が、使えないアホか、扱いにくい異世界エルフしかいない。

 麗は我が身を嘆き、頭を抱えた。



 ……その翌日から、異世界博物館の夏休み特集展示『ちがう世界に出会おう! エルフィーちゃんとめぐる異世界の旅』が開始された。

 異世界博物館の人気ゆるキャラ「エルフィーちゃん」のイラストがあちこちに掲示され、そのコメントに沿って展示を回るというコンセプトだ。

 初日から子供たちが訪れ、麗たちも案内や説明に追われている。

 そんななか。


「こんにちは~。エルフィーですよ~」


 キリカ・フォンタネージは、緑と赤の原色をふんだんに活かした衣装を着て、満面の笑みで、来館者の子供たちにチラシを配っていた。


「館内にスタンプがあるから、このチラシに押してね~。全部押したら、ご褒美あるからね~」


 子供の目線にあわせてしゃがみこみ、両手でチラシを差し出すキリカ。チラシを受け取った女の子が、エルフの金髪と長い耳にきらきらした目線を向けている。本物のエルフを見るのは、きっと初めてなのだろう。

 キリカはにこっと笑いかける。女の子は、つかのまぽーっとした顔をして突っ立っていたけれど、父親につれられて展示の方に向かっていった。


 昨夜の仏頂面とは、まるで別人だ。

 麗は、見事にイメージキャラクターの役目を果たしているキリカの姿を、呆然と眺める。


 と、客足が途切れたところで、キリカはつかつかと麗のほうに歩み寄ってくる。

 その顔は、いつものキリカらしい冷たい表情。けれど、何しろ衣装が衣装なので、いまいちしまらない。


「何ですか。私の態度に何か問題でも?」

「ううん、充分以上。でも……よくこんな仕事、引き受けてくれたね」

「子供は世界の宝ですから」


 きっぱり言い切るキリカ。一瞬ぽかんとする麗に、彼女は、いつもの真顔で言う。


「佐伯さん、展示のほう注意してください。『貝殻』のあたり、人が集まっています」

「あ、うん」


 麗ははじかれるように動き出す。小走りに展示の方に向かいながら、一瞬、キリカに振り返る。

 ぴかぴかの笑顔で子供たちに向き合うキリカの姿は、いつになく、輝いて見えた。


 異世界のことは、まだまだ、分からないことばかりだ。


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「セイレーンの貝殻」

 歴史あるエルフの森の工房にて作られた工芸品。彼らの作品は長らく門外不出であったが、近年、エルフと人間、そして異世界との交流が活発になるにつれ、外向的なエルフたちの活動によってその工芸品が人間の手に渡るようになった。

 森林種族であるエルフにとって、セイレーンや海の品々を実見する機会は限られている。しかし、長命なエルフたちのなかには稀に外の世界に出て様々な文物・物語を持ち帰る冒険的な存在もあり、彼女らによって貝殻やセイレーンの歌もエルフの森に持ち込まれた。彼女ら、いわゆる”旅のエルフ”の語りと歌を保存すべく、工芸の形で残されたのが「セイレーンの貝殻」を代表とする「歌う器」のシリーズである。言葉と記憶のみを頼りに再現されたにもかかわらず、その形状は異世界特有の貝を巧みに再現している。が、尖った先端部の天に伸びるような勢いを持つ曲線の美しさは実物を凌ぐほどであり、また、渦状紋が構成する数学的に正確な黄金比は、元となったファルカナ海岸のコロモガイの実物とは大きく異なる。独自の生活圏を築き、孤立した美学と静かな論理のもとに生きるエルフたちの美意識は、時に現実を遊離した理想世界の探求を夢見た。そうしたエルフ特有の耽美性が如実に表れている。

 この貝殻のもうひとつの特徴は、そこに封じられた「セイレーンの歌」である。貝殻のそばに接した観賞者は、魔術によって直に脳裏に歌声を再生され、遠い異世界で唄う海の精霊の歌を耳にすることが出来る。エルフによる又聞きを元に奏でられる歌であるものの、その効力はセイレーン自身が保つものに劣らぬ魅惑力を持ち、長時間の鑑賞によって精神的な変調を来すことがある。このため、観賞に当たっては細心の注意が必要とされており、博物館においても普段は倉庫に格納されていることが多い。しかし、異世界の歌を直に聴く、という点では大変貴重な体験を与えてくれるものでもあり、細心の注意のもとにしばしば展示が行われ、老若男女問わず人気を博している。

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