シンデレラが灰になるまで 09
「ハンナ。大好きだ」
その声は、彼女の身体を射抜いてその薄い体の動きを止めた。糸の切れた人形のように首をだらりと垂らし表情は窺えないが、蕾のように丸まったスカートの襞に涙の染みが広がっていく。まるで、彼女が生きている唯一の証拠のように。
「…………駄目なの……もう駄目なの」
やがて、掠れた声が小さく発せられた。それは歌姫のものとは思えない、疲れを含んだ老婆のような声だった。
「私はもうあそこには戻れない……ナナと私、二人だけのあの場所を燃やして、捨てて、そして逃げ出した。私はもう、戻れない」
やっと顔を上げたハンナは、真珠のように美しい涙の粒を溢しながらも、少女のようにあどけなく顔を綻ばせた。
「たとえ貴方が、ナナのように微笑んだとしても」
混濁した意識の中、それでもハンナは二人のナナを区別した。
区別して、自分が育み愛したナナに語りかけた。
精一杯の虚勢でもって、保育者(ガーデン)としての矜持だけを礎として。
薬でどろどろにかき混ぜられた記憶や感情を抑えつけて、彼女は愛すべき子供に笑いかける。そしてスカートの裾を正して立ち上がり、背筋を伸ばして、嗄れ声ながらも凛と声を張った。
「こんなところまで会いにきてくれて有難う。だけどもう私は別の人のものなのよ。だから、今日はもうお引き取りなさい」
目尻に涙を残したままそれでも気丈に振る舞う彼女に、在りし日の母だった姿を見て、ゼロはそれ以上我儘も言えずに数秒黙り、バツの悪そうな顔で頭を掻いた。
「……もしかして、俺、ふられちゃった?」
「ええ」
悪戯っぽく微笑んだハンナにゼロは唇を尖らせる。母親を前にした子供のように。
「一世一代の告白だったのに!」
「ナナはまだまだ駆け引きがなってないわ。あとタイミングもね。もっとちゃんと、いっぱい幸せな恋をしなさい」
在りし日の保育者(ガーデン)の顔で彼女は微笑む。ゼロが信頼し、親愛し、恋慕した野薔薇は、母でも姉でも恋人でもある笑顔を湛えてゼロを見つめる。
そして、告げる。
鐘の音が鳴ることを。魔法が解けることを。
舞台に、幕が降りることを。
「そろそろ、時間切れね」
しわがれた声で、ハンナは呟いた。落ち着いた声だった。僅かに、頭部を飾る花弁が紅茶めいた色に変色している。
「ハンナ?」
「禁断症状よ。シンデレラティアは飲み続けないと効果が持続しないの。魔法はね、硝子の靴と綺麗なドレスだけでは務まらないのよ」
何時の間にか、彼女の手には小さな小瓶があった。ゼロの腕から逃れた際に掠め取った、青い雫の詰まった小瓶。
「ハンナ!?」
「このクスリを使った末路ぐらい、ナナも調べたんでしょう?私ぐらいのジャンキーになったら、これ以上使っても使わなくても、結果は一緒。だから、最期まで綺麗なままでいさせて。ねえ、ナナ?」
言葉を発するうちにも枯化は急激に進行し、ハンナの肌から瑞々しさが失われ、花弁が萎れていく。
「間に合わなかったなんて思わないで。ナナは間に合ったわ」
「そんな……俺は、ハンナが生きていてくれるなら、どんな姿でも――――」
ゼロの赤い瞳から涙が一筋零れた。伸ばそうとした手を、ハンナの視線が押し留める。
「貴方は、間に合ったの」
そう言って、ハンナは小瓶の中身を喉へと流し込んだ。こくりと嚥下して数秒で、肌が白磁のように透き通り、頬は薔薇色に、花弁は温かみのある珊瑚色に再び色付いていく。
その姿と共に、彼女の記憶も逆巻いていく。
「ねえ、私綺麗?貴方と私の時間、もう一度ちゃんと重なった?」
目の前には、彼女の最愛の人が立っていた。
黒い髪に白い肌。
紅玉のような赤い瞳、同じ色の美しい実を生らして。
縁起が悪いと彼は厭っていたけれど、白雪姫みたいだと彼女は内心羨ましかったのだ。
彼女はその生涯で、一番無垢で美しい笑顔をその顔に刻む。
世界で一番幸せだった頃のように。
「ナナ。大好きよ」
そして、ハンナは崩れ落ちた。
立ち尽くすゼロの前で、ハンナはもう起き上がることも出来ない。
「ハンナ……」
ゼロは微かに上下する薄い背中を食い入るように見つめていた。寒水石のように透明感のあった白い背中が、じわじわとくすんだ灰色に変わっていく様を、息を止めて凝視することしか出来ない。
魔法が解けるよう、ハンナは変わり果てていった。
熱量(カロリー)が天に奪われる。
その魂が、燃え尽きていく。
「ハンナ……!!」
全身を灰色に変えたハンナが、静かに呼吸を止める。同時に、ゼロが思い出したようにひゅっと呼吸した。
低い獣の呻り声が聞こえる。
それが自分の咽から出ているものだと気付くのに、そこまで時間は掛からなかった。
「うぅ……ううぁぁ……うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
命を失ったプランツの体は、次代へと繋ぐためにその身体を苗床へと変容させる。だが、麻薬物質に汚染されたハンナの身体は、まるで燃え尽きた後のようにさらさらとした灰に変わるばかりだった。
「ああああぁぁぁぁぁああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああぁぁぁぁぁぁぁ!!」
ゼロは床に額を押し付けて絶叫した。
泣き叫び、嗚咽を漏らし、崩れ行く彼女に触れることも、その姿を直視することも出来ずにただ涙を流す。
どれだけ泣いただろう。ゼロは恐る恐る涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を上げた。
もはや形を留めていない。小さな灰の塊がそこにはあった。ゼロは顔を歪める。
「なんで……」
開け放たれた窓から冷たい夜風が吹き込んでくる。呆気なくハンナだったものは舞い散り、毛足の長い絨毯を尾を引いて汚した。
それだけだった。
それが、永遠の歌姫を望んだ野薔薇の最後だった。
継代(コピィ)すら残す事もできず、彼女は消えた。
「ハンナ……ハンナ……」
壊れた人形のように、その名を呼び続けるゼロ。生まれたばかりの自分を育て、慈しんで、愛して、飽きて、厭うて、最後には燃やそうとした。
それでも、彼女はゼロの最愛だった。
「…………」
実際は数分だったのだろうか。とても長い時間が過ぎたようにゼロは感じた。
いつまでも蹲っていられる気がした。足を止めて、平伏して、彼女の死を悼んでいたかった。
だけど。
ゼロは濡れた顔を拭って立ち上がる。
まだ、しなければいけないことがあった。
深く被り直したフードの裾から白い顎が覗く。涙の跡もそのままに、その口元は笑みを刻んでいた。
きしきしと音を立てるほどに牙を剥き出し唇を歪ませ、ゼロは嗤っていた。哂っていた。
ただ獲物を仕留める事を夢見て、その感触を想って浮かべる、壮絶な笑みを。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます