シンデレラが灰になるまで 08
「おきゃくさんー??」
戸を叩く音に反応してクーが立ち上がる。走り寄ろうとする少女を慌てて抱きあげてハンナは「ちょっと待ってね」とソファの上へと戻す。
チャイムを鳴らさずに戸を叩くとは、いったい扉の向こうにいるのは誰だろう。ハンナは不思議に思いながら戸に近づく。据え付けられた粗い液晶モニターから玄関前の映像を見ると、黒いフードを被った男が立っていた。
ゴーシュの知り合いだろうか。特に物音もしなかったし、エレベータ前の組員二人が大人しく通したという事はきっと何らかの関係者に違いない。エルザはインターフォンをオンにして話しかけた。
「どちらさま?」
『お世話になってます。ねずみの御者です。カボチャの馬車で、シンデレラを連れて参りました』
フードで全く顔は窺えないが、ノイズ混じりの声を聞く限り若そうだ。男はパーカーのポケットからおもむろに何かを取り出すとカメラに向って翳す。
それは、涙形の青い粒が詰まった小瓶だった。
「それは……!?」
『どうしました?いつものですよ?』
男は見せ付けるように瓶の中身を振る。
ハンナはごくりと唾を飲み込んだ。急に渇きを自覚する。昨日からシンデレラティアを飲んでいない。こんなに長い間摂取していないのは久しぶりだ。
欲しい。薬が欲しい。
強い常習性からくる欲望に衝き動かされるままにハンナは解錠ボタンを押した。がちりとロック解除の重い音が響き、固定されていたドアノブがゆるりと動く。鈍い音を立てて扉が開いた。
「こんばんは」
音も立てずに部屋に滑り込んだ男は、ゆっくりとお辞儀をした。その手に握られた瓶にハンナは飛びつく。
「早く!それを頂戴!」
男はハンナの華奢な腰に手を回し、抱擁するようにその身体を受け止めた。だが、瓶を持った片手は高く持ち上げられハンナには届かない。必死で手をばたつかせる歌姫は、溺れかけた人魚のように無様だった。
「……そんなに、これが欲しい?」
耳元で囁かれた声に、酷く懐かしさを感じてハンナはぱたりと手の動きを止めた。
「……?」
そして何かを思い出そうとするかのように目を細め、そこでやっと、ハンナは男の顔を見た。
目深に被られた、そのフードの奥を。
「せっかくの再会だよ。笑ってハンナ」
優しく自分の名を呼ぶ声に、彼女の記憶が深い眠りから揺り起こされ、そのドールアイは驚愕に瞬きすら忘れた。動きを止めて静止していた手が、震えながら頭一つ以上高い位置にある黒いフードに触れる。両手で挟むようにフードを握り締めて、ゆっくりと引き下ろす。炭のように真っ黒な枝葉が揺れて、そこに実る赤い粒が擦れ合ってしゃらりと音を鳴らした。
ソファの上で夢中になっておもちゃで遊んでいたクーが、顔を上げて蕩けるような笑顔を見せた。
「ぜろー!!」
「クー、お迎えだ。兄貴が下で待ってる。一人でエレベーター乗れるか?」
ハンナを抱き締めたまま、ゼロは指で空きっぱなしの出口を指す。
「うん!いっかいならボタンおせるもん!」
「よしよし、じゃあ俺はこのお姉さんとちょっと話があるから、先に行ってな」
「うーん?」
クーは不思議そうに真っ白な瞳でゼロを見つめた。一緒じゃないのが不満らしい。
「うん、後で俺も下りるよ」
軽く頷いて見せるが、クーは不機嫌そうに頬を膨らませた。
「うそつき!いいもんにーにいいつけるから!」
くるりと背を向けて走り去っていく小さな後姿にゼロは苦笑いした。
「はは、手厳しいな」
胸の中に収まる薔薇の花を見下ろす。彼女は夢幻に語りかけるように、頼りない声を上げた。
「……ナナ…………」
先ほどまでの獣のような笑顔はなりを潜め、蓬髪の青年は在りし日に浮かべていた穏やかな微笑を浮かべた。ハンナを抱き締めて、花の香りに包まれながら青年は何年もずっと言えなかった言葉をやっと口にする。
「ハンナ、迎えに来たよ」
この再会の為に、彼は長い年月を全て費やしてきた。
あの燃え落ちた家から立ち上がった。
全てが燃えて、
熱は消え去って、
灰になって、
無になった。
もうナナですらなくなった。
だから、彼はゼロになるしかなかった。
全てを、もう一度やりなおすために。
「もう一度、俺にチャンスをくれないか?」
だが、ハンナにその言葉は届かなかった。
「いやぁぁぁああぁぁぁぁぁぁ!!」
半狂乱になってハンナが彼の腕の中で暴れだす。死に物狂いでもがき出そうと整えられた爪を振り回し、彼の頬や首筋に緑の線が走る。彼女の華奢な腕が肩を、脇腹を叩く。彼の目が僅かに細められた。
「ハンナ。俺はあの後何度も自分に火をつけた。ハンナの気持ちが知りたくて」
「やめて!なんで生きているの!?」
クスリで白濁とした意識の中、ハンナは涙を流しながら首を振る。
「何度も何度も、気が狂いそうになりながら、それでも俺は自分を燃やし続けた。炎に包まれながら考え続けた。俺を灰にしたいと思った、ハンナの心を考えた」
強く強く抱き締める。
「そしてわかったんだ。ハンナは、これからもずっと繰り返されるだろう俺達のズレに絶望したんだろう?」
青い瞳孔が見開かれ、硝子玉のように無機質に彼を映し出す。
「俺が大人になる頃に、ハンナはきっと生まれ直る。ハンナが大人になる頃に、俺がまた生まれ直るんだろう。ぐるぐるぐるぐる、呪いのように、愛した人を育んでその面影を追いかけ続ける人生は、噛み合わない歯車のように滑稽で残酷だ」
微笑む彼のその頬に、ハンナは爪を立てる。ぎりぎりと彼の頬を抉り、常緑血(エヴァーグリーン)が彼女の指を伝った。それでも、彼は穏やかな顔のまま。
「だけど、あの日、炎越しに見たハンナは凄く綺麗で、俺はやっぱり、辛そうに泣いているハンナを抱き締めたかった。手を繋いで頭を撫でられているだけで幸せだった。俺はまだガキだったし、昔の俺の事なんて覚えていなかった。けど、その時確かに――俺は、ハンナに恋をしたんだ」
「もぅやめてぇぇぇぇええ!!」
絶叫と共にハンナはゼロの腕を凄まじい力で振り払った。殆ど倒れるように絨毯の上に倒れ込み、がたがたと肩を震わせる。焦点を失った碧い瞳からは涙を止め処なく流し、能面のように白くつるりとした相貌は体温さえ感じさせない。彼女の脳内は、薬物によって何倍にも膨張させられた罪悪感とあの日の悪夢で破裂寸前だった。
「悲劇でも喜劇でも構わない。もう一度だけ、俺にチャンスをくれないか?」
そんな彼女に、それでも彼は言葉を紡ぐことしかできない。
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