あかいみはじけた 10

 この手を離さないで。


 なんて言われたのはもう何年前だろう。記憶は定かではないが、自分は未だにこの手をしっかりと握り締めている。

『ねえリウ、月はいつも綺麗ね』

 彼女はいつも目を細めて笑う。自分と同じタンポポのプランツで、同じ街のスラムに暮らしていた。

『私達はね、本当は水と光さえあれば生きていけるの。政治も宗教も、芸術も贅沢も、私達には必要ないの。だけど思考があるから、言葉があったから、そして私達と良く似たヒトがいるから。何となく真似をしてこんな風になっちゃたのね、きっと』

 彼女は聡明で、スラムの劣悪な環境下でもおおらかで優しかった。いつも質素な生成りのワンピース一枚に裸足で歩き回り、日なたに錆びだらけの一斗缶を引き摺って来てはそこに腰掛けて、ぼろぼろに日焼けした本を開いていた。丁度近くの工場で日雇いの仕事をしていたリウは、彼女のそんな姿が気になって、何時の間にか時間があればそこに寄るようになった。勇気を振り絞って話しかけたかったが、怖くて見ていることしかできなかった。

 彼女と話をしたくて、捨てられている本を拾い集める内に『あなた沢山本をもっているのね』と逆に話しかけられた。泥や煤に汚れた、明らかに買った物ではない本を貸すのは正直恥ずかしかったが、彼女は目を輝かせてそれを受け取った。文字も殆ど読めず、内容を理解したくても難しい言葉がわからなかったリウは、結果彼女から本の内容を教えてもらうことで会話をするようになった。

 慣れない本を必死で読んだ。水と光しかいらないと口にしてはいるが、その実彼女がその結論に至るまで思想や哲学は、いつも手に抱える本から得たものだ。透明度が高いのに、底の見えない湖のように深い知性を秘めた瞳。その瞳に、自分を映してほしかった。

 仕事が終わった後の日の出ている時間は、すべてその一画で過ごした。彼女と話すのが楽しかった。汗に塗れながら何を作っているのかも知らずに只々土や鉄骨を運ばされ、口をきけば殴られた。くたくたになって家に帰ると気を失うように眠ってしまう。機械より安い労働力として酷使され続ける日々。思考する力を奪われていたリウは、再び彼女との会話で息を吹き返した。疑問を持ち、仕事の意味を考えられるようになった。今していることが慈善事業の病院を建設するための作業だと自分で調べて、その意味に心を震わせられるようになった。彼は、人間として自分の世界を広げた。

 そう思えたのは、彼女のおかげだった。

 彼女がいるから、リウは『生きている』といえた。

 気付けば、リウは彼女を愛するようになっていた。

『……?わたしが好き?』 

 人間のように種の保存に必要ないが為に、恋愛感情や執着が全体的に希薄なプランツの代表が彼女なら、その全てに反するリウは珍しいタイプだった。

『好きだ!大好きだ、本当に!』

 それでも必死のアタックの末、彼女が想いに答えてくれたときは嬉しすぎて彼女の前で泣いてしまい、恥ずかしい思いをした事も今となっては笑い話だ。

『なら、ヒトみたいに家族になってみましょうか』

 プランツは身体がヒトより頑丈で力仕事が得意だったので、彼女も仕事に就いて二人で小さなアパートに部屋を借り、一緒に住むようになった。特に彼女は手先も器用で、服の縫製工場では重宝されていたようだった。

 だがその分やっかみも多かったらしく、彼女は頑張れば頑張る程に次第に辛い表情をして帰ってくることが多くなった。彼女の容姿はどうしても人目を引き、侮蔑の対象とされてしまいやすかったのだ。今でも、リウは彼女を働かせたことを後悔している。

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