エピローグ ―少年が愛した子猫―

 暗闇の中を一人の青年が下りてゆく。一定の間隔で打ち上げられる花火によって照らされる僅かな時間の、僅かな明りを頼りにして、彼はゆっくりと、しかし、振り返ることなく下ってゆく。

 数分でふもとの商店街の明りが視界に捉えられるところまで戻ってきた。彼はその光に向かって、蛾の如く一直線に向かってゆく。普段は誰も使用していないような獣道を一気に駆け下ったこともあってか、少し呼吸を乱してはいたが、それでも立ち止まることなく、次は商店街をずんずん進んでいった。

 そう、ほんの一時間と少し前に通った路を逆走しているのだ。

 

 さっき、隣に栞を連れて歩いたときよりも随分と人は少なくなっているようにみえ、幾分か歩くスペースも出来ていた。幾つかの店は足早に看板を取り下げ、帰り支度を進めているところでもあった。これらの屋台の店主や、多くの客は花火を見る為に河川敷にでも陣取りに行っているのだろうな、と彼は思った。

 しかし彼は同時にこうも思った。


 同じ道を歩んでいるはずなのに景色がまったく異なる。

 同じ道を歩んでいるはずなのに感情がまったく生まれない。


 なぜだろうか。

 彼は考えた。やはり人が減ってきているからではないかと。

 そもそも、この商店街の日常からするとこの段階でも五倍を優に超す人がまだ商店街を練り歩いている。ピーク時なら数十倍だっただろう。これだけ人数も変われば情景のひとつやふたつ変わってもそう不思議ではない。

 それに、往路で見かけた高橋夫妻の屋台が見当たらなかった。彼にとって最もお世話になった二人だ。彼らがいるといないでは感情も異なるのも無理は無い。

 きっと高橋夫妻も花火大会を見に行っているのだろう、そう彼は思った。


 間違いではないのだろう。行きに見た光景と比べればいささか閑散としている雰囲気は商店街に流れる緩やかなテンポのクラシック風のBGMからも醸し出されている。

 しかし、これが全てかと言うとそうではない。

 彼は再び考え、頓にふっ、と喜びにも哀愁にもとれる笑みを浮かべた。

 「栞だ」

 彼が発したのはそれだけだった。

 そして間も無く彼は今来た道を再び戻る。今度は全速力で、だ。彼は獣道を掻き分け、石段を跳ぶように駆け上がった。

 そのとき、彼の脳裏に一瞬では描ききれないほどの膨大な映像が流れていた。これが走馬灯というものだったりするのだろうか、振り切ることの出来ないほどの情景を思い出しながら彼は走った。

 

 真っ白な空間

 真っ白な毛布

 純白の中に絡んだ紅の斑点

 忙殺されそうなトラック運転手

 涙を浮かべる少年と涙を押し殺す老人

 首輪を羨ましがる白い猫

 肩車をされた少女

 手を引かれる青年

 花火に背中を照らされる少年


 断続的な映像は彼が階段を一段ずつ上るにつれてひとつずつ消滅していき、最後の一段で綺麗さっぱり情景や事物は脳裏から消え去っていった。

 「栞!」最上段まで駆け上った彼は息が切れそうになりながら、もてる限りの声量で少女を呼んだ。

 しかし、彼の呼びかけに応答するものは無かった。ただ、彼の声だけが反芻し、フェードアウトしていっただけだった。ただ、生い茂った木々のさざめきだけが音として残り、それさえも失った神社は漆黒と静寂に包まれた。

 

 「お前には世話を焼かされっぱなしだな」と彼は乾いた笑いを含んで言った。


 この境内に来るのも何度目だろうか、そんなことを考えていると、視界の端で不自然な茂みのゆれを彼は感じた。

 咄嗟に「栞?そこにいるのか?」と声を上げた。

 だが、そこから現れたのは少年の方だった。

 「あぁ、遼くんか」彼は肩を落としてそう言った。


 「お兄さん、しーちゃんなら――」そこまで遼少年が言ったところで彼は食い付いた。

「そうだ、遼くん、さっきまで栞とここに二人でいたよね。それで、栞はどこにいったんだい?」

「はい、しーちゃんなら先に帰っちゃいましたよ。あ、でもその代わり……と言ってはなんですが、白猫なら見つけましたよ。ほら、この子なんですけど」


 そう言って少年が抱き上げた白猫には首輪がなされていた。



「そうか、そうだったんだ。遼くん、ありがとうね」


「いえ、俺は何もしてませんから。ですが、ひとつお願いがあるんですけど、この子猫、俺が飼ってもいいですか?」と遼は皆川に提案してきたので、


「あぁ。もちろんいいさ。その方この子も喜ぶってものさ」


「ありがとうございます!お兄さん、これで引き分けですね?」にやりと遼が笑いかけてきたので、


「そうだね。一対一だ」と言い、皆川も笑みで返した。


 二人の笑顔を最後の一発の特大花火が照らしている。

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少年が愛した子猫 氷坂肇 @maeshun

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