日曜日(午後)
「ナナカ、仕事いくよ……」
こっちの世界につくと同時に、出待ちしていたアイリ館長がいつも通りの気だるげな声で唐突に告げた。
午後だと一般の利用客がいるため、こちらの世界の召喚場所の起点になっている本は見られないようにアイリ館長のいる個室に置いてある。だから別に移動と同時に話しかけられるのはおかしいことではない、が
「……はい、今からその用意をするつもりですけど」
普段は業務内容だけを伝えられるはずなのに、今日は仕事に行くか行かないかみたいな次元での話をされた気がする。とりあえず仕事着のローブを持ちながらじっと次の言葉を待つ、彼女は背中に背負ったリュックを見せるように一度くるりと回ると淡々と言った。
「今日の仕事は、図書館内じゃない……」
「と、いうと?」
「本のお届け、あなたを選んだ理由は……まあ、わかるよね……?」
のどかな緑色の平原を、三台の馬車がゆっくりと行進する。そのうちの二台、僕らが乗っている馬車とその後ろにある馬車は荷物を運ぶ用、残った一台はその護衛を乗せている。
馬車には低強度だが防壁の魔法が張られており、道にいる芋虫のような魔物の針を弾きながら安全に目的国までの道を進んでいる。
ガタンガタンと馬車が揺れた、アイリ館長は風景には目を向けずただじっと本を読んでいる。
馬車での移動は数えるほどしかしたことはないけど、決して一度も乗ったことがないわけじゃない。それでも、この自然の情景にはいつも目を奪われる。
普段働いている図書館は城のような大きさの建物の内部だから、天井は見えないといってもある程度の閉塞感は感じるけれど、馬車から見える外の風景にはそういう圧迫感のようなものはない。
科学技術の発展していないこの世界だからこそ、空気はとても澄みきったきれいなものだ。あまり大気の汚れについて詳しいことは知らないが、気分も合わさってか空は一切の穢れのない、もともといた世界のものよりも澄んでいるようなものに思える。
そんな移動の途中で、どうしても気分がそこまで上がってくれないのは、間違いなくこれから待っている厄介ごとのせいだろう。
図書館が図書館側の方から人を出して本を貸し出しに行くのは極めて稀なケースだ、連絡自体はある程度魔法を学んだものなら魔力を使ってとることができるらしいが、基本的には利用者の方から図書館に出向いて借りる仕組みになっている。
しかし、特例が二つだけある。一つは体が不自由で図書館に来ることが難しい者、その場合は一定以上の能力評価を受けている図書館員が二人でそのもののところまで行き、期限と同時に回収しに行く旨を伝える、と言う形になっている。
だが、今回はそんな軽い話じゃない、なんと言っても図書館の館長に呼び出しがかかることは特例中の特例だ。
そもそも館長は図書館内での主張のような役割を持っている、そしてもう一つ、館長には警備班でも抑えきれなかった犯罪を圧倒的な力で抑えるという極めて重要な役割を持っている。そのため館長になる条件は厳しくあり、本が好きであること、本についての大量の知識を持っていること、そして単純に、同じ条件の者たちよりどれだけ強大な力――つまり上級クラスの魔法をどれだけ上手に扱えるかという点で厳しく決められている。
そんな館長に呼び出しがかかるのはどういう場面か、それは向こうがそれ以上の地位を持っている。
すなわち、国の王に匹敵するほどの地位を持っているということになる。
ここまでは、別にいい。
問題は、今回はその呼び出しに僕も含まれているという点だ。立場上バイトである僕に呼び出しがかかっているのは、僕の本質的な立場、つまりは異世界からの客人であることを知っている人がそのことについて話そうとしてるからだ。
「……やだなぁ」
ため息と一緒に声が思わず口から洩れる、目の前のアイリ館長はその声に反応して顔を上げると一度本を閉じ、何やらリュックの中をまさぐり始めた。
気になって眺めていると、彼女はリュックの中からぽいっと何かをこちらに投げつけてきた。飴だ、先週お土産として持って行った瓶詰の飴をいくつか残していたらしい。
「ありがとうございます、アイリさん」
再び本を読み始めた彼女は本越しに微笑んだ。
本当なら家に帰るまでは基本食べ物に手を出してはいけないが、元いた世界から持ってきているものなら別だ。もっともこれを見越してとっておいてくれたのかはわからないけど。
ふぅ、と一度息をつく、今からこんなに不安がっていても仕方ない。
飴の袋を開ける、中身を口に含もうとした瞬間
「……ナナカ、止まって」
「周囲に敵あり!馬車を止めろ!」
館長が制する、ほぼ同時のタイミングで後ろの馬車から叫び声が響く。
馬が足を止める。平原は開けた場所だ、あたりには身を隠す岩一つ無く見渡せる範囲の中に動く者の姿はない。
「感知に引っかかった魔物は三体!
護衛として雇われた四人組が馬車から出てきて四方を見張る、動きに無駄がない、常に感知魔法を張っていたこととその後の指示までの速やかさから、多分こういう戦場には慣れているのだろう。
しばらくの膠着の後、平原の一部が急に盛り上がった。現れたのは、全身が緑色のウロコで覆われたトカゲのような生物だ、二匹の前かがみで構えるその生き物の右手には日の光を反射して妖しく光る一本の短刀、その後ろにいる生き物は同じく前かがみで構えながらも手に持っているのは刃物ではない、本だ。
ウロコの色で擬態しながら這って来たらしい三体の
「やぁ、
三体の
一番後ろにいる者が本を持っていることから察しはついていたけど、彼らは全員意思疎通ができる、つまり魔導書を読んだことがあるものであり、それは剣術だけではなく魔法を使ってくる可能性があるということだ。
「……どうも、
護衛の一人、両刃の長剣を引き抜いて構えている男が冷静な口調で尋ねる。
対する相手は体を揺らしながら、いつでも飛び掛かって攻撃に移れる姿勢で答える。
「その馬車の中身をいただこう、安心してくれ、抵抗しなければ貴様らには何もしない」
「断る、と言ったら?」
ほぼ無意味な問いかけだ、現にお互いの勢力は返答よりも先に足を動かして相手との距離を測っている。
緊迫した状況だ、おそらくは次に相手が答えを返すと同時に戦いが始まるだろう。
ごくりと息をのむ、護衛の戦いはそのままこちらの、ひいては本の安否にもかかわってくる。無言でその戦いの火ぶたが切られるのを見ていると、後ろからトントンと肩を叩かれた。
振り向けば、アイリ館長が立ち上がっていた。先ほどまで読んでいた本を無言で突き出しながらこちらをじっと見つめている。
「……でるんですか?アイリさん」
「ええ……今日の本は大切だし……それに、少し私的な用もある……」
汚さないように本を受け取る。馬車の外に向き直れば、
「フ……知れたこと!ここでこのラザードの糧になれることを、迎えの死神に誇るがいい!」
土が爆ぜる、ラザードと名乗った彼が高速で護衛の一人へと接近する。囲うように回り込もうとした二体目の
ラザードの振るった短刀に、目の前の男が振るった長剣を合わせる。その瞬間振るった短刀の勢いのままにラザードが体を捻った。重心をずらして体勢を低くし、そのまま加速的に奥の弓使いへと向かっていく。
狙われた護衛は別の
二回目の攻防が始まる、緊迫した雰囲気の中最初に動いたのは――
とんっ、と軽い音だった。
全員が注意深く構えながらも音の鳴ったほうに目線を向ける、その視線の先にいたのは、今ちょうど馬車から降りたアイリ館長だ。
銀色の髪を風になびかせながら、魔導書も、杖も、ましてや身を守る剣や盾などの装備も一切身に付けずに彼女はあくびをしながら立っていた。
「なっ――」
護衛の人たちが思わず声を失う、冷静なのは
人質としての役割が果たせれば十分、そうじゃなくても殺せる奴から狙っていくといった感じだろうか。一歩出遅れた護衛の人が止めようと弓を構えるのをもう一人の
一見して絶望的な状況だ、武装している人でも苦戦する相手に何一つ抵抗できるものを所持していない女の子が襲われている場面、一番彼女に近い僕が、命がけで止めに行かなきゃいけないような状況だ。
――襲われているのが、アイリ館長でなければ。
「――風は廻らず、廻りは途絶える。ここは芽吹かぬ世界へと『凍て』」
瞬間、風景が一変する。
大地は光を受けて輝く、風もなく何一つとして音もない静まり返った世界へと変わる。視界に収められるここら一帯の平原すべて、植物の死んだ閉じた世界が、一面の氷世界が広がっていた。
数秒、その静謐な世界の中で氷柱が音を立てずに砕ける、突きつけられた氷柱から解放された
本来なら、大勢の魔導師たちがきちんと準備をしてから放つ規模の魔法を一人で、それも杖も持たずに成した彼女は、ただ静かに一つ息を吐くと、ゆっくりと先ほどまで氷柱を突き付けていた相手に向かって告げる。
「……おとなしく引くなら、これ以上は何もしない……」
氷のように冷たく、少し面倒くさそうに短い言葉で。
彼女の前で座り込んでいた
「ああ……降参だ、おとなしく引き下がらせてもらう」
「あなたの言う引き下がるっていうのは……」
目の前の
「この仲間に、介錯でも頼もうとしたのかな……?」
「……っ、ばれていたか」
ラザードはあきらめたように腕をブランと下げる。対してアイリ館長は冷たい目で見降ろしたままだ。
「……どうした、殺さないのか」
その場にいる四匹の
彼女は少し思案した後、ゆったりと、しかし強く主張を打つように言った。
「うん、まだ何かするのでなければ……私は逃げることを許すよ……」
「なっ!なぜだ、なぜ命を取らない、我々は約束を破ったのだぞ!」
本気で狼狽えたような声でラザードが叫ぶ、彼女の返しは一言だった。
「どんな形であれ……貴方が本を手に持ち、それを読んだから……それ以外の理由なんてない……」
護衛も含めた僕と彼女以外の全員が、呆然とした顔で止まった。
少し満足げな顔で馬車に戻ってきた彼女に預かっていた本を返す。大地を覆っていた氷は静かに割れ、その下の草花は再び命を取り戻す。
間違いなく、彼女の考えは普通の人と違うもので、あまり受け入れられるものでもないと思う。ただ、僕は、そんな彼女のことを心より誇らしいと思った。
ふう、と息を吐く。
城の窓から見える外はすでに夕暮れのオレンジだ、眩しさに目を細めていると、近くのドアが音を立てて空いた。
「ナナカ、終わった……?」
眠そうな声で喋りながらも、こちらを見つめるアイリ館長の顔は笑っていた。どうやら向こうの部屋での読書会は相当楽しかったらしい。
「ええ、たった今」
「それじゃあ、帰ろっか……と、ナナカはそのまま元の世界かな……?」
「まあ、時間も時間ですし、そろそろ帰らせてもらいますね」
「そう……なんだっけ、課題?って言うものもあるみたいだしね……」
会話をしながら、彼女が一冊の見慣れた本を取り出す。楽しい会話の時間は、下手をすれば無限につづけかねない。一緒に今週分の本を受け取りながら赤い表紙の本に手をかけ――
「あ、ナナカ、ちょっと……」
「……?はい、なんですか?アイリさん」
「えっと……来週も、また来るよね……?」
「はい、是非来させてもらいます!」
「……そう、楽しみに、してるね」
めったに見れない、彼女の花のように明るい笑顔に見送られながら、僕はページをそっと開いた。
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