街灯

瑠璃・深月

街灯

街灯



 二つの小さな丘の間に、ひとつ、街灯があった。

 それは道端に一つだけ、草の生えた丘のふもとの道を照らしていた。ここには他に街灯はない。たったひとつだけの街灯、それは静かにそこに佇んでいた。

 雨の日には、振ってくる滴を照らした。雪の日にはその上に雪を積もらせた。夏の盛りにはその周りに虫が集った。

 街灯は、光を求める人間に暖かい安堵を与えて行った。この土地に引っ越してきたばかりで暗く寂しい道を歩いていた家族連れが、夕闇の中でこの街灯を見た。何もない、草とわずかな低木があるだけの道端。両方を小高い丘に囲まれているため街の光は届かない。そんな寂しい道端で出会った文明の光に、ああ、ここは街の一部なのだと胸をなでおろした。

 旅人がいた。観光で片方の街に来ていて、丘の向こうにも有名な観光地があると聞いて多くの人がそこを通った。街灯は彼らの目印になった。西と東の丘、そう呼ばれていた小高い二つの丘は、同じく西と東に分かれている街を引き離し、また、繋いでもいた。片方は高原に沸いた温泉地、もう片方の街は高原にある絶景地に通じていた。温泉は湯治客が多かった。その分旅館やホテルが多く、ありのままの自然は少なくなっていた。しかし、二つの丘を挟んだ隣の町には、きれいな自然が残っていた。鏡のように澄んだ池は紅葉の時期になると美しい景色を反転させて映し出す。赤く染まった木々も秋の澄んだ空も池の中にあった。高原であるから、当然、水もきれいだ。湧水も多い。

 その二つの観光地を行き来する旅人が、街灯を目印に、待ち合わせをしたり、休憩をとったりしていた。街灯は彼らの喜ばしい顔を見た。自分の存在で笑顔になっている旅人達。街灯は静かに彼らを迎え、そして送り出していった。

 子供たちがいた。この二つの街には学校が一つしかない。片方の街から、もう片方の街に行く子供が、登下校するときにここを通る。温泉地には学校は置けない。だから、湖のある街に小さな学校が作られた。そこに通う子供たちは、街灯で温泉地の子供たちと待ち合わせをして、双方の観光地の土産品や工芸品を見せ合っては遊んでいた。街灯の周りには子供たちの笑い声が絶えなかった。

 そして、ここの街灯にとってもっとも重要な人間がいた。

 燃料を入れに来る、老人だ。ここは電気が通っていない。だから、この街灯はガス灯だった。二つの街に、二人の老人がいた。彼らは週替わりで毎日街灯の手入れに来た。様々な人間を見てきた街灯を磨き、落書きをそぎ、燃料を入れる。そんな老人を街灯は見ていた。もちろん、感情などありはしない。しかし、ずっと見ていた。

 年月がたち、街灯は古くなってきた。老人は世代を交代させて、新しい老人が街灯の手入れに来るようになった。この役割が老人のものであることに変わりはないのだろう。

 ある日、手入れを終えた老人は、ガス灯の横に座り、丘の上に上った残り月を見ていた。朝は陽が昇った直後だった。

 老人は、仕事がひどく丁寧で、時間がかかった。しかし彼が手入れをすると、街灯はまるで息を吹き返したように輝きを取り戻していった。まるで新品だ。

 老人は、そこでこうつぶやいた。

「お前さんよう」

 街灯は、何も答えなかった。ひゅうひゅうと吹く夏の早朝の風だけが、老人に応えるように街灯に当たって音を立てた。

「寂しいねえ」

 老人は、そう言って丘の稜線から現れたばかりの新しい太陽を見つめた。あまり見ていると目がおかしくなるので、太陽そのものではなく、その周りの光を見ていた。さわやかな風が丘から下ってくる。

「孫が嫁に行っちまった。俺は寂しいよ。おまえさんはどうだい」

 街灯は、何も答えない。再び、風が吹いて丘の上にある木の枝を揺らし、そのまま降りてきて草の間をかすめて行った。

 老人は寂しそうに笑った。

 そして、問いかけをそのままに、老人は道具を背負って、帰って行った。風が老人の作業道具を揺らし、乾いた音を立てさせた。

 何年か経って、街灯のもとには何人かの子供たちが集まってきた。小学校の帰り道に一緒に帰っている集団だ。彼らは、街灯のもとに集っては授業に使う絵具やクレヨンで落書きをしていった。次の日には必ずそれが消えているから、面白がって繰り返し落書きを繰り返していった。すぐに、その行動は問題視されるようになった。街と街を繋ぐ街灯、それは子供たちのためだけにあるものではなかったからだ。しかし、大人たちは子供を叱らなかった。ただ、黙って自分たちのやった落書きをきちんと消しに行かせていた。

 それ以来、落書きを消すのがどれだけ大変なのかわかったのか、子供たちの問題行動はなくなった。しかし、きれいすぎる街灯は少し、寂しげにそこに立っていた。いつものように太陽を浴び、雨を受け、雪を積もらせている。風にさらされ、人々の声を聞いていた。その街灯は錆びることもなければ朽ち果てることもなかった。

 さらに何年かたって、あの日の老人は来なくなった。温泉町にいたその老人は、亡くなっていた。落書きを消すものはもう、だれもいなくなってしまった。もう一つの街は、管理できるものがいないという理由でずいぶん前から手入れをしていなかった。しかし、街灯がそのあと錆びることも朽ち果てることもなかった。

 子供がいた。

 母親に手を引かれた子供、男の子だ。

 その子供は、街灯をはるか上に見上げて、指差した。そして、母親にこう言った。

「これがおじいちゃんの街灯?」

 そうよ、と母親は答えた。おじいちゃんが、頑張って、二つの街の誇りであるこの街灯を守ってきたの。でも、もう誰もこの街灯を手入れできる人はいないのよ。そう言った。

 すると、子どもは答えた。

「じゃあ、ぼくがやるよ」

 そう言って、男の子は学校の通学鞄の中に入っていたクレヨンを取り出した。周囲に生える草と同じ色、丘の上に立つ木と同じ色、緑のクレヨンだった。

 男の子は、そのクレヨンを使って、きれいに磨かれた街灯の足に、こう書いた。

「てつや」

 それは、男の子の名前だった。

 その字は、消えなかった。誰も消すものがいなかったからだ。

 てつや、と、街灯に記したその男の子は、祖父が死んで、葬式が終わった次の日から、通学前に仕事を始めた。街灯の手入れをする道具を持って登校し、そして、朝早くから作業をした。だれも手入れの仕方など知らなかったから、どの道具をどこでどのようにつかうのかを考えながら、ひとつひとつ、謎を解くように覚えて行った。やがて、少年は二つの街で唯一、街灯を手入れできる人間になって行った。

 少年からは、温泉の匂いがした。毎日入っているのだろう、その温泉の湯で磨くと街灯はいつもよりもきれいになった。だから、重い水を街からここまで運んできては、雑巾につけて街灯の足を磨いていた。

 そうして、いつしか少年は老人になった。

 老人は、街灯の下に腰かけ、朝日に当たりながら吹き抜けるさわやかな風に心を晒していた。何も考えずにただ、自分の体に当たる風だけに感覚を向けていた。

 老人は、ふと、街灯に触れた。

 そして、こう言った。

「寂しいねえ」

 愛おしいものを撫でるようにして、老人は街灯をさすった。何も答えは返ってこない。しかし、構わずに続けた。

「孫娘が嫁に行っちまった。でも、お前さんは寂しくはないんだね」

 老人は、そう言って笑った。

 優しい笑みだった。その笑顔を、街灯は知っていた。この老人の祖父が、街灯の手入れを終えた時に見せる笑顔だった。

 世代は変わり、心は受け継がれるものだ。それがどんな形であれ、人々がそれを大切に思う限りは、おそらく永劫に続くものなのだろう。

 最後に、老人はこう言った。

「いっしょに、いてくれるかね、そりゃあ、ありがたい」

 老人は、そこで、動かなくなった。

 寂しくない、満足そうな笑顔を残して。

 その老人を、街灯は見ていた。

 長らく刻まれていたクレヨンの文字は、消えていた。つい先ほどまでくっきりとのこっていたその文字が、きれいに消えていた。

 街灯は、一つの命に寄り添った。

 そして、風の力を借りて、歌を歌った。それは優しく空気を揺らし、その振動は命の躍動を伝えるゆりかごとなって二つの丘を吹き抜けて行った。

 街灯は、見ていた。二つの丘を越え、二つの街をはるかに見下ろす天蓋に、命が息づくのを見た。そして、再び何かとつながってゆくのを見た。

 雲は流れ、風はゆく。火はのぼり、また沈みゆく。光の中で光を灯し、残り月の現れる時間をゆったりと照らしている。陽のなくなってきた早朝に、ガス灯は最後の瞬きを見せていた。わずかに残った影を、太陽が昇るまで消す役割を担っていた。

 何度目の最後だろう。

 ガス灯は毎日最後を迎え、そして何度も人の世代の交代を見守ってきた。

 街灯は、火を灯し、その足ですくりと立って、全てを見守ってきた。

 今夜もまた、何かの始まりと終わりを、その街灯は見るだろう。

 何も答えずに、見るだろう。

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