そこにある橙
緑茶
そこにある橙
まだ人類が、宇宙を知らない時代。
空はどこまでも、我々の上に続くものだと信じられてきた。
――そんな、昔々の物語。
とある少女が重い病気にかかっていて、その長くない命を間もなく燃やしつくそうとしていた。
ある時彼女は、婚約者の青年を枕元へ呼び寄せた。
「ねぇ貴方……あの空が見える?」
白いカーテンを隔てた、小さな窓の向こう側。
なだらかに傾斜し、そよぐ黄金色の草原の上に、どこまでも橙色の空が塗り込められている。そしてその膨大な広がりへ伸びている、長い長い尖塔。
「眩しい空だね」
青年がそう言うと、少女は顔を窓に向けたまま言葉を返した。その顔は夕陽に照らされて、どこまでも暖かかい。
「私は、あそこに行きたい。夕焼けは永遠だもの。朝と夜に挟まれて、永遠に総てが照らされる。私は、あの橙色に抱かれたい…………あの橙が、ほしい」
彼女はそう言い残して、間もなく死んだ
青年はひどく悲しみ、毎日毎日を泣いて過ごした。
そして精神をひどくすり減らしていった。
やがて彼は、頭の中に途方もない絵空事を思い浮かべるようになった。
――そうだ。自分はあの塔に登り、空にある橙を持って帰ろう。
皆が彼を止めたし、何より塔を管理する人間もそんな行いを許しはしなかった。
そんなことをすれば死んでしまうぞ、と。
しかし青年はとっくに正気を失っていたから、誰の制止も聞かなかった。
少女は死んだが、死後の世界で永遠の幸せが続くことを祈るためにも、墓前に夕焼けを贈るつもりだった。
塔は、人が空の果てを知るために作ったものだった。ゆえに、それは見上げる限りどこまでも続いているようだった。
外観といえば黒い鉄の芯に、幾つもの蔦模様が絡み合った上、間隔の狭いはしごだけが横にへばりついているという仕組みになっていた。作業員以外の人間が通ることを想定していないらしく、塔の内側にある安全な螺旋階段は封鎖されていた。
だが彼は決心して、管理者のスキをついて、外側の階段に一歩ずつ足をかけて登り始めたのである。
――途方もないことだった。
一歩進むたび、頭の中に少女を思い浮かべた。まだ病に伏せる前、ともに出かけていた頃の事。その中で、何度も話し、何度も笑顔を向けてくれた、あの懐かしい日々。すべてを、自分の励みとした。
彼は登っていった。
まだ塔の向こう側には幾つもの建物が見えており、空が視界の全てを覆っているわけではなかった。何より、まだ昼間だった。少女の墓前に橙を届けるには、もっと塔を登った上で、完全な形で空に触れる必要があった。
それでも彼は構わなかった。彼女の永遠のためには、自分の残りの時間をどれだけ消費しようとも意に介さなかった。
◆
とはいえ、長い長い縦の一本道を孤独に登っていくという仕事は、徐々に彼の中へと疲労を蓄積させていき、それは手のしびれや、狂気に水を差すひとしずくの正気なども彼に発生させることとなった。
彼の中に何度も、『果たして、永遠などというものはあるのか』という疑問が閃いた。それは彼の心の芯を冷やして、指先の力を失わせた。
彼は急激に、自分がやっていることが馬鹿らしく思えた。
だが、彼は登り続けた。今更やめるわけにはいかなかった。諦めれば、少女のすべてが自分の中から消えてしまうような気がしたからである。
だからこそ彼は登り続けた、登り続けた。
――そしてようやく、その素晴らしい景色を目撃したのである。
懸命に登っていたことで、気付けば目の前に現れていた、というようだった。
それは一面に広がる橙色の凪と、風のない空間だった。
彼は息を呑む。下を見れば雲だけが広がって何も見えない。白い鳥たちが群れをなして、さざなみのような嘶きを放ちながら通り過ぎて、向こう側へと消えていく。
彼方には雲と、どこまでも広がる大海原があって、それは小さな光の粒で無限にきらめいて見える――彼は目を細めた。太陽がそこにあって、柔らかな光の線を視界の全てに放射していたのだった。
自分の手元にある黒い蔦模様の群れや鉄のサビでさえ、温かい色合いの中に溶け込んでいる。遠くなっていく鳥の声以外は、何もない。ただ、雲が下を流れていくだけで、一切が動かない。
それこそが、求めていたものだと彼は感じた。無音の橙が、全身を包むように広がる。その温度に抱かれてしまえば、やがて眠ってしまいそうな――ああそうだ。これが彼女の求めていた色彩だったのだ。これこそが、永遠の夕焼けだったのだ。
――永遠は、ある。ここにある。今、目の前で。
彼は涙を流したくなったが、それは墓前にとっておくことに決めた。
彼は目の前に橙を感じた。距離や質量、それらすべては意味をなさなかった。今ここにそれがあった。理屈ではない。そこにあるのだから、願いさえすれば、すぐにでも手に入る。自分はそれが可能になる世界までやって来た。
確信に近い思い――だから彼は手を伸ばした。
頭の中に、少女の顔が映った。今、その世界を優しく彩ることができる。そんな歓喜だけがあった。
彼は、手を伸ばした。
……そこで群れを外れた鳥が、視界を少しでも掠めれば、運命は変わっていたかもしれない。
彼は夕焼けに意識を注ぎすぎたあまり、自分の体を支えていたものが、細い両の足と片手であることを忘れていた。
はしごに掛かっているただひとつの手を放してしまったのである。
――声を上げる暇さえないままに、彼は空の下へと消えた。
◆
数日後、少女の墓に幾つかの果物が添えられていた。
その色彩は、夕焼けを閉じ込めた橙色。
求めていたものがそんな近くにあることに、あの青年は、とうとう気付かないままだった。
そこにある橙 緑茶 @wangd1
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