9
「よっしゃあああああっ」
この日、放課後校内に残っていた生徒たちはもれなく俺の叫び声を聞いただろう。今日はテスト休み前日の最後の授業の日。担任に呼び出されたのは生徒指導室だった。俺は順位も出てないのになにを宣告されるのだろうと、背中にひやりとしたものを感じながら部屋を訪ねた。
そこで告げられたのは、進級可の三文字だった。
「なんでっ、なんでっすか」
興奮気味に担任に詰め寄ると、本当はもともと進級させるつもりだった、ということらしい。しかし、ある程度の成績を持っていてもらえないと担任として進級可とは学校に言えない、だから無理やりテストの成績を上げる為にしかたなく――という。ということはやっぱり今回のテストがあまりに悪かったら留年だったということか。
取り急ぎ俺とほか数人の危ない生徒のテストの結果を出したところ、俺成績急上昇、みたいな? やればできるんだなお前、というコメント付きで生徒指導室を追い出さた。外で待っていたちょっと前までの俺である同級生に笑いかけ、浮足立つ自分を必死に押さえ廊下を歩く。しかし自分の教室の前に差し掛かったところでいろいろ耐えきれず、冒頭に戻るわけである。
「真理に言わなきゃな、あと善明と美映にも……」
まだ校内に残っているだろうか。明日から休みだし、もしかしたらまだ屋上でたまっているかもしれない。そう思い、スキップしたい気持ちを抑え、俺は屋上に向かった。
午後三時。茜色と橙色の間の空の色。屋上の錆びれた扉をあけると、見慣れた三人の顔があった。
逆さまになったゴミ箱に座る善明、その隣に立っている美映。二つあるベンチの左側に、投げやりに座った真理。思った通り、残っていたらしい。
「あ、すえひこ」
「おー、呼び出しくらったんだって?」
善明と美映が順に笑って言った。真理は疲れ切った顔でこちらをみるだけだった。そうだよな、ここ最近図書室につき合わせっぱなしだった。決して楽ではなかっただろう。
「聞いてくれ諸君」
扉の前。美映が登場したのもここ。善明が息が上がって崩れ落ちたのもここ。屋上にはいろいろ思い出がある。進級が決まって俺は、屋上でサボることを止めようと決めていた。
「進級が決まりましたあっ」
「おー」
「ええ、うっそ。後輩になったらいじめ倒そうと思ってたのにい」
「美映、やめなさい」
あ、なんか今心の底から進級できてうれしいとおもったかもしれない。
「よかったね、季彦君」
真理がひゅん、とまた本を放り投げながら言った。みんなして俺に物を投げ過ぎだ。受け取った本の題名は“倫理”で、三年生から使うであろう教科の参考書だった。
「さすが俺の親友、用意がいいね」
「進級が危ういような親友をもった覚えはないよ」
「はっはあ、何とでもいいたまえよ」
「うざ……」
小さい声でもそういうことを言われると傷つくのでやめてほしい。真理は長い溜息を吐いて、俺をしっかりとみすえた。善明と美映は口をはさむ余地を見つけられずに、俺と真理を見比べていた。俺もなにから話していいかわからずに頬を人差し指でひっかいた。
「君」
口を開いたのは真理だった。
「もう屋上ではサボらないつもりだろ」
「えっ、そうなの季彦くん」
真理はどうやらわかっていたらしい。善明が驚いて俺の顔を食い入るように見つめてくる。穴が開きそうだ。
「そうだよ。良い機会だからね、せっかく進級もできることになったし。それに」
もともと俺がここに来るようになった理由なんてくだらない。ひどくくだらなくて陳腐で、それこそ痛々しい青春の過ちで、逃げてただけなのだから。思春期のジレンマによっておこった間違いを正すなら今しかないと思ったのだ。
「そう、そっか」
少しだけ寂しそうなのは、俺の気のせいだろう。
「サボるのを止めるだけだけどな! また勉強教えてくれよ」
「あ、私も教えてよ。善明スパルタで怖いんだもん」
「優しいだけじゃ覚えないでしょみんな」
そういった俺と美映に、しょうがないなって言ってくれた顔がひどく複雑そうで、それに気付いていたのに俺はやっぱり何も言えなかった。
――ああ、俺が親友なんてなれっこないんだ。
そう思ったのは絶対に誰にも言ってやるものか、と。それだけをひそかに決意した。
次の日からのテスト休みはひどく浮かれてて、その反面、すごく憂鬱だったということだけしか、覚えていない。
そして迎えた休み明け。休みの間、珍しく俺は誰にも会わずにひきこもっていた。
ざわざわ。
二年生の廊下はごった返していた。一組から八組までの生徒総勢三百二十九人。テスト順位を見る為の混雑である。百五十位以下は掲示されない。それ以下の生徒は個別に知らされる。しかしその尻尾に俺はいた。驚くべきことに俺の順位は三百二十一位から百五十位への大躍進だった。いままで勉強しなさすぎだろ俺。
知った名前を探してみると、真理のクラスメイトである俺の級友たちは百番台に固まっていた。あいつら以外とやるんだな。善明は四十二位、美映は六十七位、真理はむかつくことに十五位だった。前回二十七位だった真理も成績を上げていたようだ。どこまでも小癪な――。
とひとりごちていると、余鈴がなった。屋上だと遠いチャイムも廊下だと耳障りな騒音だ。生徒たちは波が引くように自分たちの教室に入っていく。その波の中に美映と善明を見つけ、手を振る。しかし二人は俺には眼もくれず、俺のもっと後ろを見ている。俺は二人に向けてあげた虚しい右手を下ろし、一気に閑散とした廊下を振りむいた。
――ああ。
本当に、そう口に出した気がする。溜息のような、感嘆のような、歓喜のようなうめき声。美映と善明の息をのむ気配も背後に感じた。美映が一組、善明が三組、俺が五組。それから、八組が、真理。八組二十七番が、真理。
「なんだか気持ち悪い。でも、一人の屋上も正直、気持ち悪かったんだ」
廊下の掲示板によりかかり、独白のように言う。俺は意味を掴み損ねて、それでも、真理がここにいることは生半可な覚悟ではないのはわかった。
「真理」
俺が呼んだ声は思いのほか響いて、しんとした廊下に微かな残響を残した。
「ここなら戻れるかもしれないって、思ったから、かもしれない。気付いたらここにきてたんだよ」
自分への言い訳のように似たような言葉を繰り返す真理。うまい言葉が見つからなくて、頭が痛い。
「真理くん、おれや美映も、このすっとこどっこいも怖いこととか、苦手なことたくさんあるよ」
善明はここにきて俺をすっとこどっこいと呼んだ。ことごとく感動を返せ、元最後の良心。
「だから、辛くなったら逃げてもいいから、頼ってもいいんだよ」
ね? と笑った善明は悔しいけどやっぱり心が広い善いやつなんだなと思い知らされる。女泣かせ――この際不問にしてやろう。
あ。真理が善明の言葉に口を開いた瞬間、がらりとあいたのは八組の扉。
「おー季彦じゃん。本鈴なるぞーってミッチーめずらし。おはー」
ごく軽い感じで顔をのぞかせたのは俺の空気の読めないおれの旧友だった。
「え」
「ミッチー?」
初耳のあだ名である。偏屈や自由人より、ずっと良いと俺はおもうけどね。でも俺が呼んだら睨み殺されそうだ。止めておこう。
「変なあだ名で呼ばないでよ!」
「おーそいつのこと頼んだ。久しぶりで緊張しちゃってるのよ」
俺がにやついてそう伝えると、思った通りゆるい返事が返ってきた。そして逃げ腰の無理やり肩を抱くように捕まえる。青ざめた顔の真理が小さく見える。
「え、ちょ、まだ入るとは」
「えー、ここまできたなら入る入る」
「真理、頑張れよ!」
ぐっと親指を立ててみせるがきっと睨まれてしまった。美映と善明は顔を出したそれぞれの担任に呼ばれてこちらに背を向けた。
「うるさい馬鹿季彦!」
「もう馬鹿じゃないもーん」
「もんとか言うな気色悪い」
いつも通りの真理は健在である。よかった。ここまで引っ張ってこれたのが誰のお陰かとか誰のせいかなんて、この際全部どうでもいい。最後に真理が自分で選んだことならそれでいいのだ。俺や善明、美映、クラスメイト達ができるのはそれを手助けすることぐらいだろう。
「お前ら本当仲良いのな、キモいぞ!」
うんざりした顔で口喧嘩――にも満たないけれど――を聞いていた旧友が言う。俺がいつものように「親友だからな」と言いかけたのと同時、けたたましいチャイム。本鈴がなったのだ。でも俺はそれにかき消されそうな小さな声を、聞き逃すことはなかった。
背後で善明と美映が俺に何か言っていた。真理は八組の教室に押し込まれていく。俺はいよいよ廊下で一人きりになって、曖昧な言葉の断片を脳内で再生していた。
「おーい、早く教室入れ―。ってお前凄い顔してるけど大丈夫か」
担任の声、俺はうまく動けなくて、八組の方を向いたままかたまってしまっていた。泣きたいような気もするし叫びたいような笑いたいような、やっぱり良くわからない気分だった。
「……大丈夫です」
「ならはやく席に付きなさい」
茫然と自分の席に着く。やっぱりサボり魔という呼称は消えないらしく、先生までけらけら笑っていた。まあそれはそれで俺は楽しいから構わないのだけど。
教室の椅子がなんだか落ち着かない。自分の席なのになんだかしっくりこないのがおかしい。早くあの青い、青いベンチに座りたい、なんて。今日は晴天だから、きっと気持ちがいいだろう。漠然とした期待。それと、もう一度あの一言を。
――親友だからね。
ぼそりといった言葉が、もし最初で最後だったとしても、俺は忘れないだろう。微かな勇気の積み重ねの上にある、その言葉を。
ああ、そういえば。俺も出席番号、二十七番だ。
了
No.27 ㌔ @kiloeye
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