第四章
第四章
小さなボストンバックに着替えを入れて、秋山清が、製鉄所にやってくる。
懍「お待たせしていました。」
清「本当にいいのでしょうか、私のような年寄りが、こんなところへきて。」
懍「ええ、かまいませんよ。僕もとうに80を超えてますからね。」
清「そ、そうですか。教授はおいくつなんですか?とても80とは見えませんね。」
懍「教えましょうか、83です。できる限りの若作りはしているつもりですが、だんだんそれも行かなくなりましたな。」
といって、懍は髪を少しかいた。黒髪の中に多数の白髪が混じっていた。
懍「いくら染めても、こうなってくるのですから、僕も年ですよ。」
清「そうですか。ずいぶん若く見えますけど、それははつらつとしているからですかね。」
懍「年齢の話は、もう結構です。」
水穂「教授、お掃除が終わりました。」
懍「ありがとう。」
清「水穂さん、お体は、」
水穂「ええ、もう大丈夫です。あんまり布団に寝ていては、体も鈍りますしね。では、楓の間へどうぞ。」
清「お世話になります。よろしくお願いします。」
水穂「こちらこそ、ではどうぞ。」
と、清を製鉄所の中へ招き入れ、居住部分に案内する。
廊下を歩く二人。時々、村下が師事を出している声と、鞴を動かす音が聞こえてくる。
清「皆さん、鉄をつくっていらっしゃるのですか。」
水穂「ええ、すべて手作業でやってます。ちょっとでも順序が狂うと、全く意味がなくなってしまうのが、たたら製鉄です。」
清「そうですか。相当体力もいるのでしょうな。」
水穂「ええ、鉄づくりは、任意で、強制ではありません。でも、一度はまると、やめられなくなるみたいですけどね。はい、楓の間はここです。一応、流しとコンロもありますので、自炊してもいいし、食堂で食べてもかまわないです。」
と、一つの部屋の前で止まり、南京錠を開ける。
清「ああ、ありがとうございます。」
水穂「じゃあ、とりあえずゆっくりくつろいでください。」
清が部屋に入ると、水穂は、静かにドアを閉める。
声「夕焼け小焼けの赤とんぼ、、、。」
清「ああ、また歌をうたっているのかな。」
カバンの中から、バイオリンを取り出す。ずいぶん古ぼけたものだが、30年以上使い続けてきた。
回想
清の家。妻の遺影を前にして、娘とテーブルに座っている清。
娘「お父さん。悪いけど、お父さんには、老人ホームに入ってもらうわ。この家も、すぐに処分するから。よろしくね。」
清「ちょっとまて、まだ何も決めてないじゃないか。」
娘「決めてないって、じゃあ、誰が決めるの?まさかお父さんが決めるとでもいうの?それならお断りね。お父さんは、毎日毎日学校のことと、バイオリンのことで頭がいっぱいで、全然私とお母さんのことは一切かまわなかったでしょ。それなのに、お母さんのことをとやかく言う筋合いはないわよ。悪いけど、私も息子のことで、精いっぱいなの。お父さんは、私が子供のころ、何をしてくれた?年柄年中バイオリンの練習で、私がどこか行きたいとかいっても何もしてくれなかったでしょ。お母さんが、何とかしてくれと言っても、何も言わなかったでしょ。だから私もその通りにさせてもらうわ。お父さんには何もしないから。お父さんが、バイオリンに命を懸けるなら、私は、息子に命を懸ける。息子は、もうすぐ高校受験なの。それでお金かかるんだから、この家は処分させてもらうわね。お父さんは、私の訴えをすべて、聞いてくれなかったから、私も、お父さんの訴えは聞かない!早くサインして!」
清「お前、もう、契約までしたのか。」
娘「当たり前でしょ。それがお父さんが今までやってきたやり方だったのよ。何が教師よ。他人の子供を一生懸命フォローしてるくせに、自分の子にはほとんどかまわないなんて、本当に教師といえるのかしらね。」
清「誰のおかげで、、、。」
娘「出ました出ました、お父さんの決め台詞!でも、私、ちゃんと答えはいえる。私は、お母さんに食べさせてもらってました!お母さんが愛情たっぷりな料理でここまで大きくなったのよ。ほかに何があるのよ!お金をもって来たとしても、食べ物を実際にくれたのはお母さんなんだから、お父さんから食べさせてもらった気なんて、全然しないわね!教師なんて、バイオリニストなんて、全然大したことないの!だって、娘の私を、満足させる演奏だってできないでしょうが!さて、息子を塾へ連れていくから、これで帰るわね。契約書は、そこに住所を書いてあるから、早くサインして郵送してね。」
と、立ち上がり、どんどんかえってしまう。
バイオリンにポツンと涙がにじむ。ドアをノックする音がする。
清「は、はい。」
給仕係「お夕食できましたけど、召し上がります?」
清「わかりました。すぐ行きます。」
給仕係「じゃあ、いらしてください。」
清「はい。」
食堂。
給仕係「適当に座ってください。」
清は、恐る恐る席に着く。隣の席には若い女性の寮生が座っている。
寮生「こんにちは。」
清「こ、こんにちは。」
寮生「新しい方ですか?」
清「まあ、そういうことです。」
寮生「私は、年齢など気にしませんから、気軽に話しかけてください。」
清「わかりました、あの、、、。」
寮生「はい?」
清「赤とんぼの歌をうつくしい声で歌っているのは、どの方ですか?」
寮生「小川聡美さんです。その席に一人で座っている方がそうです。」
清は一番奥の席に座っている、若い女性を見た。長い髪をはやし、化粧もしておらず、真面目そうな女性だった。
清「聡美さんは、いつも一人なのですか?」
寮生「ええ。彼女も、積極的にこっちには来ないし、他の人も、彼女を怖がって寄り付かないんです。」
清「誰も?」
寮生「ええ。」
清「そうか、、、。」
と、調理係が、食事を運んで清の前に置く。
調理係「かわいそうに思わないで聡美ちゃんに話しかけてあげてよ。彼女、同年齢には話しづらいだけなのかもしれないよ。それに、お年を召していれば、聡美ちゃんも心を開いてくれるかもよ。」
清「よし、わかった。やってみよう。」
と、聡美のほうへ、食事をもって移動する。
清「小川聡美さんだね。」
聡美「誰ですか?」
清「なるほど、歌の才能があると思ったが、しゃべっている声も本当に奇麗だね。」
聡美「それがどうしたっていうんです。歌の才能があったって、邪魔者扱いされるだけです。」
清「僕は、清っていうんだ。もしよかったら、歌を聞かせてくれないかな。」
聡美「いいえ、年寄りは全否定するだけだわ!」
清「全否定?それはどういうことかな?」
聡美「歌はいいから、その代りに勉強しろとかしか言わないでしょ。勉強ができないと、何をするにも許してくれないでしょ。歌はうまいが、勉強はできない、そっちをやれ、この言葉だけよ。」
清「誰も君の歌をほめてはくれなかったのかい?」
聡美「そうよ!そんな余分なことやってって、怒鳴られるのがおちよ!」
清「そんなことはない。誰だって、自分の才能は、発揮できる場所はある。」
聡美「失礼ですけど、あなた、外の世界で何をしていたんですか?」
清「教師だった。」
聡美「は!一番私が嫌な人だわ。試験の点数だけで人を見て、歌なんかやめちまえと怒鳴りつけて、ニタニタ笑って、私をこんな風に、陥れた人だわ!」
清「いけないよ。そんな風に、被害者意識を持っては。」
聡美「私は立派な被害者よ。謝ってもらうまでは、絶対に負けないから!」
清「もう、過去は忘れて、未来へ向かっていかなければ、」
聡美「未来なんていらないわ。私は、自殺がほしいだけなの。生きていないほうがかえって救われる存在だっているでしょうよ。何かの拍子で、私、生きてる時代を間違えたんだわ。だから私は、被害者よ。それが、なんだっていうの?ふざけないで!」
清「じゃあ、少しずつ、話していってくれないか?」
聡美「もう結構!善人ぶった、偉い人なんて、私はいらないの。早くらくにさせて!」
清「そうか。隣で、ご飯を食べていいかな?」
聡美「まあ、勝手にすればいいわ。」
清は、箸をもって、そばを食べ始めた。
翌日の午後。ひどく曇っている。
玄関。水穂が、外出用の着物に着替えて、草履をはこうとしている。
給仕係「水穂さん、どこへ行くんですか?まだ、安静にしていたほうが、」
水穂「ああ、たまの散歩の時間になりましたから。」
給仕係「散歩ぐらい、私が行きますよ。水穂さんは、もうしばらく安静にしていてください。」
水穂「でも、30分歩いて帰ってくるだけですし、コースも決まってますし。」
給仕係「だったら、教授が学会から戻ってきてからにしてくださいよ。」
水穂「6時くらいにならないと、帰ってこないと思いますけどね。そうしたら、もう、暗くなってしまいますよ。」
給仕係「でも、心配だなあ。じゃあ、せめて、一人ではいかないで、誰かと一緒に行ってもらえますか?私、不安でしょうがないので。」
水穂「ほかにだれがいるのです?みんな鉄づくりで忙しいのに。」
給仕係「いるじゃないですか、聡美さんです。わたし、呼んできますから、ここで待っててください。勝手にいかないでくださいよ。」
水穂「わかりました。」
給仕係は、桜の間に行き、ドアをノックする。
給仕係「聡美さん。」
聡美「何?」
給仕係「水穂さんと、たまの散歩に行ってきてください。」
聡美「たま?ここに猫はいないはずじゃ?」
給仕係「違います。教授と水穂さんが飼っている、グレイハウンドです。」
聡美「グレイハウンド?」
給仕係「そうですよ。犬の品種であるんです。水穂さん一人では危ないから、あなたも一緒に行ってあげてください。」
聡美「なんで私が?」
給仕係「聡美さん、歌ばっかり歌ってないで、体でも動かしたらどうですか。そうすれば、怒りの気持ちも収まりますよ、少しは。」
聡美「そんなこと、、、。」
声「時間なくなるから、やっぱり僕が行ってきます。」
給仕係「ほら、行ってきてください。水穂さんは、病み上がりの体なんですから、誰かについていってもらわないと。」
と、彼女の手を引っ張って玄関に連れていく。
聡美「わかったわ。今日だけよ。仕方ないわね!」
と、下駄箱から靴を取り出し、たまを連れた水穂と外へ出る。
道路を歩いていく、水穂と聡美。
聡美「これ、雄犬ですよね。なんでたまなんですか。猫じゃあるまいし。」
水穂「なんででしょうね。思いついた名前だったのでしょうか。」
聡美「あなたって、端麗ね。」
水穂「まあ、そういわれますけど、何も大したことはありません。」
聡美「変な人!」
水穂「事実、そうですから。」
聡美「どこか中国の武将みたいな顔してる。」
水穂「そういわれたのは、初めてですね。あ、降ってきた。」
聡美も、雨が降ってきたことに気が付く。
聡美「引き返しましょう。」
水穂「いえ、僕、雨の中歩くことはできないのです。公園の東屋で待ちましょう。たぶん、通り雨ですから、すぐにやむと思いますよ。」
聡美「は?歩けないわけじゃないでしょ。すぐに戻ったほうが。」
水穂「そうなんですけど、湿気が。」
聡美「湿気?湿気なんて何も悪いことはしないわ。本当に、この地域では、変な人ばかりなのね!全く、相手になんかしてられないわ!」
突然、聡美の後方で咳の音。それも、通常の風邪などではなく、何か詰まったものを無理やり出しているような、咽るような咳である。聡美が振り向くと、水穂が座りこんでいる。口を押えた手は、みるみる赤く染まっていく。
聡美「は、何をやっているの?きれいなひとは、心が綺麗とでも言いたいの?あいにくね、私、綺麗さに乗じて、弱い人を演じている人なんて、相手にしている暇はないのよ!」
と、踵を返して、製鉄所に向かって歩き出してしまう。すると、いきなり唸る声が聞こえてきて、聡美に何かがとびかかり、その足にかみつく。
聡美「ちょっと、何をするの!」
かみついたのはたまである。
聡美「放せ、この犬!」
水穂は、座り込んだまま、なおもせき込み続ける。聡美も、雨に濡れたまま、そこからうごけない。
製鉄所。
車いすの音がして、懍が戻ってくる。雨は、もう止んでいる。
懍「ただいま戻りました。」
そこへ血相を変えて、給仕係がやってくる。
給仕係「教授、私、とんでもないことをしてしまったのかもしれません!水穂さんと、聡美さんをたまの散歩に出したのですが、まだ帰ってこないのです!」
懍「ああ、公園の東屋で休んでいるのではないですか?それに、彼も鎮血の薬を持ってますから。」
給仕係「そうなんですけど、水穂さん、先日のことからまだ回復してないし、何よりも、ニ時間以上たっているのにかえって来ないので、、、。教授が東京に行ってる間、こっちはもう止んでいるけど、すごい雨だったんですよ!幸い30分くらいでやみましたが、もし、休んできたのなら、もう帰ってきているはずなんですが、、、。」
清が部屋から出てくる。
清「聡美さんではなくて、私が行けばよかったのですかね。」
懍「わかりました。幸い、彼の散歩コースはおおむね決まっていますから、追跡するのはそう難しいことではありません。探してみましょう。」
清「私も一緒に探します。」
懍「そうしてください。」
三人、製鉄所から出る。
道路。
聡美「もう、この犬!どうして放さないのよ!」
と、改めてたまの頭をたたくが、それでもたまはかみついたままである。
聡美「狂犬病にでもなったの!この犬?」
声「いえ、毎年ワクチンをしっかり打っていますから、その心配はありません。」
聡美「それならよかったって、あ、あ、、、。」
聡美の後ろの道路は、水穂が吐いたおびただしい血で、真っ赤に染まっていた。
給仕係「水穂さん大丈夫!?」
と、彼の下へ駆け寄る。
給仕係「鎮血の薬、なかったの?」
と、たまが初めて聡美から離れて、近くの側溝に向かって吠える。
給仕係「側溝に落ちたのね!」
水穂「はい、、、。申し訳ありません、、、。」
給仕係「あんまりしゃべらないほうがいいわよ!ほら、背中に乗って!」
と、彼を背負って、製鉄所に向かって歩いていく。
たまが、何か言いたそうに、聡美のほうを向いて吠える。
懍「たま、何かあったのですか?」
さらに、吠え続ける。
懍「そうですか。わかりました。どうもありがとう。」
と、頭をなでてやると、たまは吠えるのをやめる。
懍「たまの言葉で、何があったのかわかりました。あなたは、水穂さんの薬を、側溝にすてましたね。」
聡美「犬に何がわかるんです?」
懍「その、咬創が何よりの証拠です!」
たまが、再び、何か言いたそうに吠える。それを見て、清は、途方もない怒りが生じる。
清「君は、何かしなかったのか!いや、何かしようと思わなかったのか!彼が、ああして倒れているのを見て、そんな涼しい顔をしているなんて、君は人の命をどう思っているのか!
何かあったなら、すぐに助けを呼ぶとか、しなかったのか!それなのに、こんなところに放置して、君は、何も感じなかったのか!」
聡美「感じなかったわ。その通りに答えさせてもらえばそういうことになるわよ、おじいさん。」
清「そうじゃなくて、水穂さんが、どんなに苦しんだか考えなかったのか!」
聡美「考えるなんて、考えてどうするの?単に端麗で哀れなだけで、役になんか立ちはしないわよ!そんな人をどうして助けるの?どうして尊敬しなきゃいけないの?そしてどうして、私にだけそんなお叱りや、全否定ばかりついて回るのよ!」
清「君はもっと、他人に感謝したほうがいい。誰のおかげで、というのを単に食べ物を得るだけはなく、もっと深いところまで考えなさい!」
懍「秋山さん、もう結構ですよ。」
清「だって、注意することをしっかり伝えなければ。彼女は人間として基本的なことが、まるでできてないじゃありませんか!」
懷「いえ、製鉄所に帰れば、そのうちわかります。とにかく帰りましょう。ここで大声を出したら、近隣の人に迷惑です。」
清「しかし、、、。」
懍「いえ、僕も、このような身ですから。現実は決して、テレビのようにはまいりません。聡美さん、帰りましょう。」
と、車いすを方向転換させて移動してしまう。
一方、製鉄所では、給仕係が、水穂を背負って帰ってきた。
寮生A「わあ、水穂さん大丈夫かな。」
寮生B「あそこまで弱ったら、もう戻ってこないかもしれないぞ。」
寮生A「ええーっ、そんな事したら、俺たちはどうなるんだあ!」
村下「こら、手を休めちゃいかん!早く火をつけろ!」
寮生A「ああ、すみませーん!」
寮生B「すぐやります!」
給仕係は、水穂を布団に寝かせ、彼の部屋のふすまをぱたんと閉めてしまう。
懍「ただいま戻りました。」
給仕係は急いで玄関に行く。
清「水穂さんは?」
給仕係「今、薬飲んで寝てます。」
清「よかった。大喀血は血を詰まらせて死ぬこともありますからな。」
給仕係「幸い、それはないようです。」
懍「今日は一日、休ませてあげたほうがいいですね。」
給仕係「わかりました。調理さんに言って、おかゆ作ってもらいます。」
懍「聡美さん、入りなさい。」
聡美「はい。」
彼女が、製鉄所に入ると、製鉄所は異様な雰囲気になる。廊下を歩いていくと、食堂にいた女性の寮生たちが彼女の下へやってくる。
女性寮生A「ちょっとあんた、あまりにも態度が冷たすぎるじゃない?」
女性寮生B「水穂さんにあんなひどいことして、一言も謝罪しないの?」
聡美「ひどいこと?あの男は端麗で、哀れで、みんなから同情をもらって、それで生きているだけじゃないの。何も、役に立ちはしないから、助けなんかしないわ。」
女性寮生A「よくぞ言ってくれたわね!あなた、たまの気持ちもわからないのね。たまが、なんであなたの足にかみついたか、わからない?」
聡美「犬に、人間のことがわかるもんじゃないわ。」
女性寮生B「そんなことないわ。たまを拾ってきたのは水穂さんだったのよ。自分を助けてくれた人だって、犬でもわかるわよ。犬は、何よりも、人間に尽くす動物だから!」
聡美「ふん!どうせ、猫と勘違いして、馬鹿な名前を付けただけよ!」
女性寮生A「何を言ったって無駄だわ。」
女性寮生B「そうね。」
と、二人は、彼女の前から離れて行ってしまった。
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