最終話

 書き始めて、三か月が過ぎた。

 天色のインクは、もうそろそろなくなりかけていた。



 ***



 三月一日。

 この日は大樹と雪彦の卒業式だった。

 まだ少し冷たい春の風を感じながら、二人はそれぞれの学校に向かった。

本当ならば愛衣も二人の卒業式に行きたかったけれど、大樹も雪彦も高校が違うし、自分の卒業式の練習もあるのだから仕方がない。それに今日は文芸部にも顔を出すことになっている。ようやく書き上げた。

 全部読み返して、誤字や文法や表現の直しも終えた。こんなに集中して書いたのは愛衣も初めてだった。ブルースカイのインクがマスを埋めた三百五十枚の原稿用紙を封筒に入れて、愛衣も家を出た。ひんやりとした風が頬をなでた。


 放課後に文芸部に向かうと、風夏がいた。窓の前に立って、外を眺めている。

「お、愛衣ちゃん」

 風夏と会うのは二週間ぶりだった。ここ最近、公立高校の一般入試がずいぶんと重なっていて、愛衣が学校に来られない日が続いていたからだ。

「合格した?」

風夏はにぃっと白い歯を見せて頬を桜色に染めた。

「合格したよ」とVサインをしてみせる。風夏は市内の公立高校の推薦入試を受けて、愛衣より先に合格通知が届いていた。風夏とハイタッチを交わす。

「おめでとう」

「ありがとっ、愛衣ちゃんも合格しているといいね」

 愛衣の合格発表は明後日。三月三日。ひなまつりの日だ。「女の子のお祝いの日に合格発表なんてするのね。これでもし落ちていたらどう落とし前つけてくれるのよ」なんて風夏は文句を言っていた。

「合格したら風ちゃんに教えるわね」

「やったね。楽しみにしているよっ」

 愛衣も窓の外を眺めた。まだ桜は咲いていない。蕾は膨らんでいて、ちょっと気の早い花が、少し開きかけているくらいだった。

「風ちゃん、ここから桜の木に飛び移ったことあったわよね」

校舎の三階にある図書室から外を見ると、ちょうど桜の木と同じ目線になる。一度、風夏が窓から抜け出して桜の木に登って大騒ぎになったことを思い出した。

「あー、そうだっけ……?」

「それで先生と詩織先輩に怒られてたじゃない。忘れたの?」

「そんな記憶あったようななかったような……」

「ふふっ、覚えてないなんて風ちゃんらしい」

「だって、そんな昔のこと覚えてないってばー」

 風夏と顔を見合わせて笑いあうと、風夏は愛衣が持っている封筒を見て嬉しそうに微笑んだ。

「小説、完成したんだね」

「うん」

ずっしりと重い封筒を両手で風夏に差し出す。

「お願いします」

「任せて」

 風夏も両手で受け取る。「うわぁ、重いね。パソコンフル稼働しなきゃ。何枚?」

「えっと……ざっと三百枚……」

「うっへぇ! よく書けたねぇ!」と素っ頓狂な悲鳴を上げて驚いたものの、風夏は「でも、なんか愛衣ちゃんらしいや」と声をあげて笑った。

「書きたいことは書けた?」

 愛衣も口元に笑みを浮かべて頷いた。

「全部ぶつけたつもり」

「読むのが楽しみだ」

「うん……今は、ちょっと眠いかな」

 最近は夜遅くまで書いていることもあったおかげで、睡眠時間が減っている。今日も午前中からあくびが止まらなかった。こういうとき、猫になりたいと何度思ったことだろうか。

「音莉もまだ来ていないし、寝ちゃえ寝ちゃえ」

 風夏がロッキングチェアに促す。じゃあ遠慮なく、と愛衣はロッキングチェアに座った。反動でゆらゆらと揺れる。小さいころに母に抱っこされていた記憶がふと浮かんできた。子守唄でも聞こえてきそうだった。

 ふと、夜鷹のことを思い出した。書けなくなったと夜鷹の前で泣いたときも、こうしてロッキングチェアに座らせてもらった。書いている間、夜鷹のことがたまに頭に過ぎった。今は大樹たちのことがあって書いているけれど、私はどうなんだろう、と。

 考えているうちにうとうとと睡魔がやってきた。ロッキングチェアのゆったりした揺れは、眠りを誘う。愛衣はとろりと瞼を閉じた。この椅子には眠りの精霊でも住んでいるんじゃないか。


「あ、愛衣ちゃん先輩、起きました?」

「おはよーございます、愛衣ちゃん先輩」

 文乃と鐘花の顔が見える。

「おはよーございます、愛衣ちゃん先輩っ、これ見えますか~」

 音莉も目の前でふるふると手を振った。

 ふうと息をつくと、あたりが暗くなっているのが分かった。図書室内はすっかりこげ茶色の影の中に沈んでいる。いつの間にか文芸部員全員集合していて、愛衣は赤い毛布を掛けられていた。

「よく寝てたな、もう五時だぞ」

「え、嘘っ」

「嘘じゃない」と花鶏が帰る支度をしている。悠馬も風夏もダッフルコートを着て、文乃と鐘花も鞄に荷物を詰めていた。

「お疲れでしたぁ、愛衣ちゃん先輩っ」

 音莉が手を引っ張って立たせてくれた。

「これで全部の作品がそろいましたね」

文乃がパンと手を叩いた。あとはこれを卒業式までに製本するだけだ。

「製本は私たち後輩がやっておきますので~先輩たちは心置きなく卒業式に行っちゃってくださぁい」

「音莉、その言い方だと早く私たちに出て行けって言っているようなものよ」

「そんなこと言ってませんよ~風ちゃん先輩っ 要は安心してくださいって言ってるんです~」

「卒業するまでは、まーだ私が部長ですーっ!」

「そろそろ引退したらどうですか~?」

「いーやーよーっ」

 音莉が飛び出して、風夏も後を追いかけるようにして図書室を出ていく。

「廊下は走るなー」鞄を背負った悠馬が叱りながら後に続く。その次に花鶏と夜鷹がそれぞれ出て行って、文乃と鐘花も続く。鍵をかけられる前に愛衣もコートと鞄を持って外に出た。

「夜鷹」

 昇降口のところで声をかけると夜鷹は靴を履きかえてから振り向いて、いつもの間抜けそうな笑みを浮かべた。

「なんですか?」

「こないだのことなんだけど……」

 そう告げると夜鷹はびくりと肩を震わせた。それから哀しそうに眉を寄せたあと、やさしい微笑みを浮かべた。

「あの時のことは……忘れてください。ぼくは大丈夫ですから」

 愛衣は夜鷹の表情の移り変わりを見ていた。綺麗だなと感じた。

「書けたんですね」

愛衣は「えぇ」と答えた。

「製本、楽しみにしていてください」

「楽しみにしているわ」

 夜鷹の隣に並んで歩く。桜の木の前まで来て愛衣は足を止めた。

「ねぇ夜鷹。今さらあの時のことを忘れろっていうのは、ちょっと卑怯よ」

 夜鷹も立ち止まって愛衣を振り返る。「ですよね……」と頬を掻いた。それから夜鷹は思っていたことを口にした。少し苦しそうだった。

「本当は、あのまま沈めていてしまおうと思っていたんです。愛衣ちゃん先輩の苦しいときに言ったって、返って苦しませるだけだって」

 思い返せば、夜鷹はあのときぽろりと口を滑らせてしまっただけなのだ。まだちゃんと告白を受けていない。それでも愛衣はあのまま返事をしないで終わらせることはしたくなかった。今回は大樹に相談していなかったけれど、もし言っていたら、大樹もきっとそういうだろう。なんというか、後味が悪いのだ。

「少し、時間をくれる?」

 それが今の愛衣が言える返事だった。夜鷹には精神的にも支えてもらった。けれど今ここで、夜鷹に対する気持ちが恋なのかわからない。今まで考えていた〝好きになること〟は大樹たちが絡んでいたし、愛衣の身で考えたこともなかった。

「少しって、いつまでですか?」

 夜鷹が苦しそうに訊く。

「わからない」

夜鷹の目を見て答える。

「明日かもしれないし、もしかしたら十年先になるかも……」

「そんなに待てません」

少し沈黙が続く。夜鷹は子どもみたいに少し頬を膨らませて「……そんなに待てません」ともう一度言った。確かに十年は言い過ぎた。

「また、会いに来るわ」夜鷹の頬を指先でするりとなでた。「答えが出たとき、会いに来る」

 夜鷹が卒業する一年以内に、と付け足すと「まだ一年も待つんですか?」とまた夜鷹はむくれた。

「夜鷹ってわがままなのね」

 額を人差し指で突っつく。不服そうな夜鷹は「むー」と唸っていたけれど、やがて大きく息をついて、陽だまりみたいな笑みを浮かべた。

「愛衣ちゃん先輩には負けました。待ってます」

 周囲が淡い紫色に沈んでいく。

「桜が綺麗ですね」

 夕暮れと夜のあわいを見つめながら愛衣は夜鷹に言った。

「まだ、桜は咲いてませんよ?」

 桜の木を見上げて不思議そうに夜鷹が言う。

「ふふっ、違うわ。『またここで逢いましょう』って意味。夏目漱石の『月が綺麗ですね』とおんなじように、いろいろ派生した言い回しよ」

 夜鷹はぽかんとしていたけれど「あれって色々種類あるんですか?」と驚いていた。

「まだまだね、夜鷹」


 家に着くと、もう大樹と雪彦は帰っていた。

「おかえり」

 部屋から出てきた雪彦が迎えに出てきてくれた。その足元から桃子と吹雪がとことことすり抜けていく。吹雪はそのままリビングへ直行したが、桃子はまだ雪彦の足もとにいる。

「ずいぶん懐かれましたね」

 桃子が尻尾をピンと立てて、愛衣の足もとまでやってきた。可愛らしくじゃれながら にゃん と甘えた声で鳴く。ごはんの催促だ。

「まぁ、桃子ったら。雪彦さんのほうがいいんじゃないの? この浮気者っ」

 わしゃわしゃと頭をなでると桃子は尻尾を横に振ってリビングに逃げて行った。

「いいの?」

「いいんです」

 靴を脱いで玄関に上がると、雪彦に向き直った。

「雪彦さん。あの、今まで書いていたもの、書きあがりました」

 雪彦は「そう」と簡単に答えた。それから「おつかれさま」と言ってくれた。

原稿は今日文芸部に提出してきてしまったから、手元にはない。

「卒業式の日までには、製本できます。ぜひ読んでください」

「もちろん。楽しみにしているよ」

 雪彦の白い手が愛衣の頭を撫でた。少し冷たい。

「そういうのは兄さんにやってください。嫉妬されますよ?」

「無理だよ。あいつワックスつけているから。形が崩れるから触るなって言われるんだ」

 靴を脱いで揃える。大樹のものとは違う大きな靴が増えている。

「これからも書くの?」と雪彦に訊かれる。

「えぇ。書きます」

 愛衣は微笑んで即答した。声に強さがこもっているのが自分でもわかる。

「兄さんと雪彦さんのことがあってから、書きたいことが見つかりました」

 擦りむいたくらいではもう泣かない。理不尽の一つや二つにはもう怒らない。多少嫌われたくらいでは動じない。力尽きて沈むのは簡単で、酸素を求めて這い上がる闇はいつもひとり。考えることに足を取られないように、その中を泳ぎ続けていく。それはきっと愛衣の書く者の糧になっていく。

「書きたいこと? 何?」

「それはナイショです」

 部屋に戻って制服から私服に着替える。空っぽになったインクの瓶とガラスペンが机の上できらりと光った。今朝、出しっぱなしにしていたのだ。箱に入れて引き出しにしまう。

愛衣は窓の外の夕闇を眺めた。愛衣の書きたいものは、あの先にあるような気がした。


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愛衣の白地図 青居月祈 @BlueMoonlapislazri

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