30話
病院を出ると、水色の空に淡い桃色と金色に輝く雲が浮かんでいた。寒い冬の中の、温かく美しい光景。胸に抱いたガラスペンとインク。胸が とくん と高鳴った。
彩夏の話を聞いてから、心の中がざわざわともどかしく、なにかが蠢いている。これまでに聞いた、様々な人たちの言葉が、心の中で蘇ってきた。
―――― アイちゃん先輩は、お兄さんたちのことが大好きなんですね。
ロッキングチェアに座った音莉が本のページをぺらりと捲る。
―――― 逃げなければ、負けることはないですから。
短い髪の先を弄りながら、羨ましげに微笑む文乃。
―――― 私は私。自分を信じられないで、生きてなんかいけないわ。
自分の胸に手を当てて、鮮やかな笑みを浮かべるサキ。
―――― まだ……俺は受け入れられないだけ。
迷いながらも自分なりに答えを見つけようとしていた花鶏。
―――― それだけ、この地球上にたくさん人がいるってことですね。
まるで世間話のように、なんでもない口調で呟く鐘花。
―――― 兄弟だからだろう。内側にいたら、気づかないことだってある。弱くないさ。
金色の夕暮れに背を向けて、落ち着いた声で言う悠馬。
―――― 一之瀬愛衣。お前は何のために書くんだ?
純粋な水で作られた氷のように、どこまでも透きとおった声で告げる詩織。
―――― 人は、人に肯定されて生きているわけじゃない。
愛衣を抱きしめながら、力強く言ってくれた恭平。
―――― 言わないって、すごく苦しいことだと思うんです。
今にも泣きだしそうに眉を寄せて、つっかえながらもやさしく語る夜鷹。
―――― いけないことじゃないことは、わかった。今は、それだけ。
まっすぐな眼差しで愛衣に向き合い、わかろうとしてくれた風夏。
―――― 雪彦くんは、大樹にとって大切な人なのね。
大樹と雪彦の姿を想像するように瞼を閉じて、幸せそうに微笑む彩夏。
―――― いなくなっちゃいやぁ……
縋るように雪彦の膝の上で泣いていた結衣。
―――― ねー! お願い! 帰るなんて言わないで! ここに居ればいいじゃないか!
涙をこぼして、しゃくりあげながら雪彦に訴えていた嵐志。
―――― でも絶対、雪彦がいなくなるのは、いやだ。
真実を知って、静かに怒りながらも呼吸を整えてはっきりと宣言し、前を見据える大樹。
―――― うん。幸せ。
扉越しの雪彦の声。
それぞれの場面が愛衣の頭の中に鮮やかに思い浮かんでは、風にさらわれて薄桃色や金色に染まる空に消えていく。どれも忘れたくない。どの言葉にも、愛衣が関わった人たちの想いが込められている。
「言葉にする必要……」
もどかしく声に出す。いつか詩織に言われた言葉だ。
「私は……忘れたくない」
今、この瞬間も大樹と雪彦は苦しいことで傷ついているのかもしれない。けれどその間には、きっと二人で笑いあえる瞬間があるはずだ。大樹と雪彦だけじゃない。嵐志も、結衣も文芸部のみんなも、生きるのは苦しいって思っているのかもしれない。でも、だからこそ、小さなことが幸せな瞬間になっていく。
「……そっか。単純なことだったんだわ。私が書きたかったことは」
すとん、と愛衣の心に答えが落ちた。黄昏の中を軽やかな足取りで歩き始める。
電車に乗り、窓から見える景色を眺める。夕暮れが地上を金色に染めるのは一瞬で、すぐに淡い菫色に代わり、濃紺に代わっていく。
彩夏は、愛衣が書けなくなったことを知っていたのか。あまりにも、ガラスペンとインクのプレゼントはタイミングが良すぎると思ったのだ。考えすぎ。頭を振るとスカイブルーのスカーフも合わせて揺れた。
自分の抱える問題は結局、他の人が背負うことはできない。不運にも同時に多くの問題が押し寄せて泣いたとしても、こんな孤独をこの世で愛衣一人で抱えているかといえば、そんなわけがない。それぞれ皆なにかしらの不安を抱えている。泣いても変わらない現状を、一つ一つ解決していくしかない。
考え続けなければならない問題は、たくさんある。一つずつ、自分で答えを見つけ出していかなければならない。自分の答えをだ。、前に「数学や理科は答えが一つだから、安心する」と雪彦が言っていた。確かにそうだ。答えが一つなら、そこへ行く道筋だけを考えればいいことだ。けれど、現実はそうはいかない。どれが正解かもわからない中で、自分なりの答えを見つけるのは難しい。だからこそ考え続けなければいけないんだ。
ガラスペンンとインクが入った箱を大事に胸に抱く。電車の中から夕暮れと夜の境界をまっすぐに見つめながら、愛衣も決心した。
家に着いたときにはもうすっかり暗くなっていた。まだ五時半くらいなのに。見上げると夏の大三角が見えた。早く暗くなる冬はこの時間帯だとまだ夏の星座が見えている。
キャンッ!
庭から桜子が走ってくる。
「ただいま、桜子」
頭をなでると、桜子は嬉しそうに尻尾を激しく振った。
リビングに行くと、雪彦と大樹がソファーで眠っていた。正確には雪彦がソファーに横になり、大樹は床に座ってソファーに背を預けていた。頭を寄せ合って眠る二人は、夜に大暴れしたことなんてなかったような穏やかな顔をしていた。
「姉者おかえりー」
嵐志が自分の部屋から顔を覗かせた。目をこすっているところを見ると、嵐志も寝ていたようだ。
恭平の部屋を雪彦が使えるように、総出で片づけていたという。本格的に雪彦は一之瀬家の一員になろうとしていた。
「結衣なんてぐっすりだぞ」
「まってて。すぐごはんにするから」
手袋とコートを脱いで椅子に掛ける。手を洗ってから赤色のエプロンを身に着ける。冷蔵庫の中身を確認する。今夜は寒くなるって天気予報が言っていたのを思い出す。やっぱりお鍋にしたほうがいいかしら。
「俺も手伝うー」
「嵐志、確か今週は洗濯物当番でしょ? 洗濯物が冷たくなっちゃうから、早く取り込んできなさい」
「げぇ、バレた? 寒いのに外出たくないよ~!」
「ちゃんと着込めば大丈夫よ」
「姉者冷徹~」
「はい、さっさと行くっ!」
「うへーい」
「あ、その前に兄さんと雪彦さんに毛布持ってきてあげて」
「はーいっ!」
***
「おはよう」
教室の前で鉢合わせした相手に挨拶すると、土川誠は驚いた顔をしていた。
「お、おはよう……」
教室がざわめく中、愛衣は気にせず自分の席に向かった。後ろの席の優香にも「おはよう」と声をかける。
「おはよ~一之瀬ちゃん」
「あ、今日の宿題?」
「そうなの」と広げた数学のノートと教科書を恥ずかしそうに腕で隠した。
「一緒にやってもいい? 私もまだやってないの」
「嘘っ!」と驚く優香の机に、愛衣も数学のノートを広げた。
「私だって忘れることぐらいあるのよ」
愛衣は困ったように笑って見せた。お互いどう思われようとも明日はちゃんとやってきて、愛衣たちはそれぞれの世界を淡々と生きていくのだ。
一限が終わると愛衣は菜摘のもとへ向かった。
「なっちゃん、ちょっといい? 前言ってたことなんだけど……マイノリティのやつ」
菜摘は次の授業の用意を出して愛衣を見上げた。
「やってくれるの?」
彼女の問いに愛衣は「ううん」ときっぱり首を横に振った。
「やっぱり、今の私たちには活動はできない」
「どうして?」
「差別とか、少数ってね、個人が考えることだからよ。本人が差別だって思ったら差別になる。その種類だってたくさんあるわ。いじめみたいにね。でも、そうやって差別を思わせる言葉をなくしたところで、根本的な行為はなくならないわ」
「だから、私たちが団結すれば……」
「団結したら差別と同じことが起こるわ。差別はダメって声を上げて言うのは別にかまわないけれど、なんでもかんでも差別だ差別だっていうのは、差別する人たちを差別することになる」
菜摘はなにも言わない。愛衣はゆっくりと告げた。
「妥協することも必要なの。だから、なっちゃんはなっちゃんだけで、一回考えてみて」
菜摘は少し考えてから、「力を合わせるだけじゃ、だめなの?」と聞いてきた。
「集団になったら、どんなことでもやれてしまうわ。例えば……いじめとかね」
ぎゅっと菜摘の眉が悲しげに寄せられる。いじめという言葉が、よほど苦痛だったのだろう。「そうね……少し、考えてみる」と言った。
放課後。愛衣は図書室に向かう途中で風夏を待ち「みんなに話すことがある」と告げた。風夏はコクリと頷いて、茶化すようなことはしなかった。
「そう。三月号まで他の作品は書かないのね」
愛衣は十二月号から二月号の『夜明け』への掲載を休むことにした。ひとつの作品に集中したかったのだ。
「急にごめんね、風ちゃん」
「ううん。それが愛衣ちゃんの出した答えなら、私は受け入れるだけよ」
書きたいという衝動は緩やかに、愛衣の心に広がっていった。書き留めたいという震えがあった。けれどそれを衝動のままに描き切ってしまうことが少し怖かった。ただの心の叫びだったり、単なる思い出話になりかねない。だから、愛衣は時間をかけてゆっくりと書きたかった。
大樹と雪彦のことも、まだ聞いていない話がある。あの二人にとってかけがえのない時間が続くのはこれからだ。二人がどんなふうに過ごしたのか、これから過ごしていくのか。私たちはどんなふうに彼らのことを見ていたのか、これから見ていくのか。みんなの想いを書きたかった。
「そのお話を三月号に載せるのね」
風夏の声に頷く。
音莉は「少しばかり、部誌の厚みが少なくなりますね~」とロッキングチェアを揺らした。
「そう。だからちょっと原稿に集中させてくれるかな」
「愛衣ちゃん先輩、もう部活来ないんですか?」
鐘花がこてんと首をかしげる。
「来る回数が減るだけよ。二度と来ないってことじゃないから、安心して」
文乃と鐘花の頭をなでる。文乃の髪は女子にしては硬質で、一方の鐘花はふわふわな髪質をしている。隣に座っていた夜鷹はなにも言わなかった。唇を噛み、哀しそうな表情をしていた。夜鷹の頭もなでると、少しばかり嬉しそうに目を細め、口元を緩ませた。
五十枚綴りの原稿用紙。それと彩夏からもらったガラスペンとインク。これから書くものは、これで書こうと決めていた。インクは淡い水色をしていて、瓶のラベルに『天色』と記されていた。澄んだ空の色。
今までのペースよりも遅くなっている。大切に書いているからだ。今まで書いた作品が大切じゃなかったわけではない。けれど今回は特に慎重になっていた。
***
動物たちは、常に雪彦が家にいることに慣れてきたようだった。最初のころは落ち着かなくてソファーの隅でじっと様子を見ていた梅吉も、今ではすっかり雪彦に懐いている。
「雪彦は動物に好かれるのなぁ」
吹雪を膝の上に乗せて背中を撫でている雪彦を大樹は遠い目で眺めていた。雪彦はすっかり女王さまに気に入られたようで、ちっとも膝から降りてくれなくなった。別の意味で、雪彦は吹雪に尻に敷かれていた。
「ただいま」
「あいお姉ちゃんおかえりー」
「おかえり」
「ただいま……雪彦さん、その指はどうしたんですか?」
雪彦は絆創膏だらけの指に、またさらに結衣に絆創膏を貼ってもらっている。
「指切った」
「ゆきひこお兄ちゃん、包丁うまく使えないの」
私が作りますからと言い終わる前に結衣がキッチンへ戻っていった。「今日もゆいが全部作るのーっ」となんだかうきうきしていた。前に、愛衣の代わりに朝ごはんを作ったことが自信になっているようだった。
「ごめん」
謝りながらも、雪彦は少し微笑んでいた。
「今度、兄さんに教えてもらったらどうですか?」
「そうだね」
「おねえちゃぁん! お魚また焦げちゃったぁ!」
「嘘っ!」
愛衣が制服のままキッチンへ飛んでいく後ろで、雪彦がくすくすと笑っていた。
「ただいまーっ!」
嵐志の元気な声が吹き荒れる。どたどたと廊下を走って、部屋にランドセルを放り込むと、その足でリビングに飛び込んできた。
「雪彦兄者っ! 桜子の散歩一緒に行こうっ!」と叫びながら雪彦の腕を引いて立たせると、勢いそのままに玄関まで引っ張っていく。これじゃまるで竜巻みたいだ。
「あ、え、ちょっと待って待って……」
「雪彦兄者おーそーいーっ!」
「だから待ってって……」
「嵐志っ! 雪彦さんを困らせちゃダメでしょ!」
「げっ、姉者が怒った! 雪彦兄者早く逃げよっ!」
玄関が閉まる音が聞こえる。桜子と嵐志の声がだんだん遠ざかっていく。
「おねえちゃぁん……ごめんなさぁい」
結衣がいつかのように謝る。
「結衣、今日は魚じゃなくて、お肉にしよっか。結衣の好きな煮込みハンバーグをお鍋でやって」
「ハンバーグーっ!」
さっきまで泣いていたカラスがもう笑ってる。
一之瀬家に少しずつ、賑やかさが戻ってきていた。
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