29話

 日曜日。愛衣は母・彩夏のお見舞いに市内の総合病院に向かった。いつもなら大樹と嵐志と結衣も連れて行くのだが、今日は愛衣一人だけだ。彩夏にどうしても聞きたいことがあった。彩夏は病室で看護師さんと談笑しているところだった。

「彩夏さん。娘さんがいらっしゃいましたよ」

「あら愛衣、いらっしゃい」

 若い看護師の女性は愛衣と彩夏にそれぞれ一礼してから病室を出て行った。

「うふふっ、今の看護師さん、いくつに見えた?」

 急に彩夏が質問してきて「へっ?」と変な声が出た。あまり顔をよく見ていなかったからなんとも言えないけれど、ずいぶん若かったように感じた。

「あのね、看護の学校に通っていて、来年の二月に二十歳になるんですって。今は実習生で来ているって言ってたわ」

 彩夏は嬉しそうに話す。さっきの看護師と話が合うようで、毎日のように話し相手になってもらっているという。

「あら? 今日は大樹たちは一緒じゃないのね」

「うん、一人で来たの」

 コートを脱いで畳んでいると「愛衣、ちょっとおいで」と彩夏に手招きされる。「ずいぶん長くなったわね」感心したように背中にかかったセミロングの髪をひと房つまんだ。

「これくらい長かったらいろんな髪型ができそうね。愛衣はやらないの?」

 髪型なんてそう気にしたことがなかった。学校では結ばないといけないけれど、家では下ろしたままだった。彩夏は「もったいない~」と言いながら愛衣の両サイドの髪を太めの三つ編みにして、ハーフアップにしてくれた。愛衣は黒のヘアゴムしか持っていなかったけれど、彩夏は棚の引き出しからスカイブルーのスカーフで結び目を蝶結びにアレンジしてくれた。

「ほーら、これだけでもずいぶん印象が変わるでしょ?」

「ありがとう、お母さん」

「そのスカーフ、あげるわ。自由に使って」

 彩夏は春の花みたいに微笑んだ。そのあとで思い出したように「あ、でもハンカチ以外には使っちゃだめよ」と付け足した。

「ねぇ、お母さん。聞きたいことがあるの」

「なあに?」

「お母さんとお父さんって、どこで出会ったの?」

「あらやだ! 愛衣ったら恋してるの?」

「ち、違うよっ!」

 慌てて首を横に振ると彩夏はくすくすと面白そうに笑った。「あらあら、そんなに慌てちゃって」なんて言っている。父の恭平とどこか似ている。

「ち、違うの。私のことじゃないの」と愛衣は一生懸命弁解した。

「お母さん、兄さんが男の人と付き合っているの、知ってるよね」

「雪彦くんのことでしょ?」と彩夏はにっこりして答えた。「それと、愛衣が教室で椅子を振り回して大暴れしたこともね」

「あっ、暴れてないっ」

 恭平が話してくれたと彩夏が教えてくれた。けれど恭平は相当な尾ひれをつけて話していったみたいだ。大笑いしていたのを思い出して、愛衣は頬を膨らませた。

「あのね、兄さんと雪彦さんのことを酷く言われてから、ずっと不安があるの。不安で落ち着かないの」

 夜鷹のことは話さなかった。あの件はまだ、愛衣の中では恋だという確信が持てない。

「そうだったの。愛衣は、大樹や雪彦くんを大事に思っているのね。その大事なものを酷く言われたから、ものすごく辛くて、不安なのね」

 彩夏は愛衣が口にした言葉をかみ砕きながら繰り返した。まるで愛衣にもう一度認識させて教え込むように。

「うん……それで、参考までにお母さんたちの話を聞きたくなったの」

 答えを彩夏に聞くことに少しだけ抵抗があった。彩夏の意見に賛同して、そのまま考えることをやめてしまいそうな気がしたからだった。頭を振った。ここで考えることをやめたらダメと、言い聞かせる。

「お父さんとお母さんはね、高校の時の部活の先輩後輩よ。これでもお母さん、陸上部のマラソンランナーだったのよ」

 それは驚きだった。愛衣には彩夏が走っているところなんて想像できなかった。なんでも大学生のときには女子富士駅伝にも出場したという。彩夏はその時のことを思い出そうとするように瞼を閉じた。

「恭平さんは、二つ下の後輩だったわ。それでも先生と間違えちゃうくらい背が高くて、体格も大きくて、とても後輩には見えなかったの」

 身長一八六センチの恭平を先生と間違えてあいさつしたのが、二人の出会いだったと彩夏は語る。その頬は恋する乙女そのものだった。三年生と一年生。彩夏が先輩で恭平が後輩。今の愛衣と夜鷹に似ていると一瞬頭を過った。

「恭平さんの一目惚れでね。それでも付き合うのに一年はかかったの。卒業式のときに告白されて、どうして卒業式に告白するの? って聞いたの。だって、私はもう卒業しちゃって、県外の大学に行くことが決まっていたもの。今までみたいに一緒にいられないのに。そうしたらね。『今日は俺の片思いの卒業式でもあるんですっ』って言ったのよ。顔真っ赤にしてね。うふふっ、今思い出しても笑っちゃうわ。あの人、けっこうロマンチックなところあるでしょ?」

 なんだか意外なことばかりで、愛衣もよくわからなくなっていた。母がマラソン選手で。父がロマンチストで。父の一目惚れで。付き合うまでの期間が一年。

「ついてこれてる?」

「うん……なんとか」

 うふふっ、と彩夏は笑った。

「あのね、愛衣。人を好きになるってそんなに難しいことじゃないの。〝あ、いいな〟って思った瞬間だったり、隣にいるのが心地いいなって思った瞬間だったり、必ずしもあると思うの。あとは、愛衣自身が選ぶことなのよ。特別の中でも、トクベツって思える人をね」

 特別の中のトクベツ。そっと口に出すけれど、まだそこまで至っていない。家族以外で誰が特別かすらもまだ定まっていないのに。

「それが見つかるまでは人それぞれよ」と彩夏は言う。

「すぐに見つかる人だっていれば、何年もかかる人もいる。見つからない人もいれば、見つけようとしない人もいる。だから、今ここで決めなくちゃいけない、なんてことはないからね」

 頷きながら、大樹と雪彦のことを思い出す。

傷つけられても傍にいてほしいと言っていた大樹。

傷つけることが怖いから、傍にいたくないと言った雪彦。

あんなふうに想い合えることが、トクベツということなのか。そういえば、夜鷹も同じようなことを言っていた。

「あとね、もう一つ聞きたいことがあるの」

「あらあら、今日はなんだか深刻なのね」

愛衣は肩をすくめて、ちょっとだけ息を整えた。

「お母さんは、どうして書いているの?」

 彩夏は入院する前は絵本作家をしていた。病気で入院してからは続けることができなくなったけれど、小さなお話をたまに書いては、愛衣や結衣に見せてくれる。色鉛筆を用意すれば、結衣の自由帳は絵本になった。

 愛衣の問いを聞くと、彩夏は「そうね……」と呟きながら窓の外を眺めた。薄い青色の空が見えた。一体なにを考えているんだろう。それから愛衣に視線を戻して桜の花のように柔らかく微笑んだ。

「お母さんはね、伝えたいことがあったからよ」

「伝えたいこと?」

「そう。親から子どもへの愛情。子どもから親への信頼。それを書きたかった。大樹に、嵐志に、結衣に、それから愛衣に、愛してるって伝えたかったの。それが私の書く理由。愛衣たちがいてくれたからこそ、書けたお話だってたくさんあるのよ」

 書くことは自由よ、と彩夏は言った。

「書いていけないお話なんてない。生まれてきてはいけない子が、だれひとりだっていないようにね」

 ふと、雪彦のことが過った。

「兄さんも同じようなこと言っていた。雪彦さんに、ここにいてほしいって……生きていてほしいって……」

「雪彦くんは、大樹にとって大切な人なのね。会ってみたいわ」

 彩夏はまだ会ったこともない雪彦に想いを馳せながら、また窓の外を眺めた。

「雪彦さん、すごく素敵な人よ」

「恭平さんみたい?」

「うーん……お父さんとはまた違うかな」

 彩夏はわくわくしていた。

「いつか連れてきてくれないかしら~」とか「付き合っているんだったら挨拶ぐらいしないとね~」とか、なんだか今から楽しそうにしている。彩夏は同性とか、そういうのは関係ないのだ。

「そうだわ!」彩夏が ぱんっ と手を打った。「愛衣、もうすぐ誕生日だったわよね!」

 今日は十二月十五日。愛衣の誕生日の二十五日まであと十日ほどある。

「恭平さんと一緒に選んだのよ。ネットで注文しておいたものが、昨日届いたの。気に入ってくれるといいんだけれど……」

 枕辺に置いてあった紙袋から、長方形の箱を取り出して、愛衣に差し出した。

「ちょっと早いけれど……お誕生日おめでとう、愛衣!」

 紺色の包装紙に金色のリボン。開けてみてと促されて、丁寧に包みを解く。箱を開けて、愛衣は目を見開いた。

「お母さん……これ……」

 驚く愛衣に彩夏は嬉しそうにふふっとくすぐったそうに笑った。

 愛衣の手のひらほどの大きさのガラスペンだった。凝った装飾が施されていて、淡い空色をしている。インクの瓶も入っていた。

「いつか愛衣にあげたいなって思っていたの。愛衣、こういうガラスペン好きそうだったから。これならお手入れも簡単だし、インクもね、愛衣が好きそうな色を選んでみたのよ」

 彩夏は本当に楽しそうに話す。まるで自分の誕生日みたいに、幸せそうに目を細めながら。どきどきと、うきうきと、わくわくと、いろんなプラスの感情の詰め合わせを目の前にしているみたいだ。

「愛衣、お誕生日おめでとう」

 もう一度、彩夏が祝いの言葉を告げる。愛衣はその胸に飛び込んでいた。

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