28話

 翌日。大樹が雪彦を連れてきた。雪彦はそこまで膨らんでいないボストンバッグと弓を担いでいた。

 雪彦は愛衣を見るとやわらかく微笑んだ。

「急に押しかけてしまって、ごめん」

「いいえ。兄さんが勝手に連れてきたんですから。文句は全部兄さんに言います」

大樹が「おい」と突っ込むが、愛衣はいつもの顔が保たれているかが心配だった。雪彦が暮らしやすいように。いつもと変わらないように。

嵐志と結衣は大はしゃぎして、雪彦の隣を取り合った。けれど雪彦はどうしてもお風呂だけは一人で入りたがった。あの服の下に、どれだけの傷が隠れているのだろう。つい、じっと眺めてしまってあわてて目を逸らした。


 雪彦が一之瀬家で暮らすようになってから一日が過ぎ、二日が過ぎ、三日が経った。

 雪彦はゆっくりくつろいでいるようにも見えた。けれど、深い部分では、なにか、恐ろしいものが眠っていたようだった。それは日が経つにつれて濃くなっているようだった。夜、夢を見ては震え、腕の古傷を引っ掻き、ご飯もあまり食べないで、金平糖ばかり口にしている。

 そうして一週間が過ぎたころ、雪彦は大変なことをしでかしていた。


 夜。何かの叫び声で愛衣は目を覚ました。直後に ガンッ という鈍い音が続けざまに二回聞こえてきた。

音は一階から聞こえてきた。一階は嵐志と大樹、そして恭平の部屋がある。今、雪彦は大樹の部屋を共同で使っていた。

また ダンッ と音が響いた。壁を蹴ったような、殴ったような音。階段を下りていく途中で「雪彦ッ!」と叫ぶ大樹の声が聞こえた。

「兄さん……? 雪彦さん……?」

 愛衣が降りていくと、廊下で壁に背を預けている大樹と、ぐったりしている雪彦が暗がりの中に見えた。廊下の明かりを点けると、その惨状が一気に視界に入ってきた。

 大樹のパジャマは、片腕の袖が引きちぎられ、頬や腕にめちゃくちゃな引っ掻き傷があった。髪も乱れ、唇も切れて血が出ている。痣もたくさんできていて、顔は血の気が引いていた。

「に、兄さ……ん?」

「あ……あい……」

 吐き出すように名前を呼ばれる。まるで誰かと戦ってきたような有様だ。

「大樹……?」折り重なるように大樹の上に倒れていた雪彦が顔を上げた。「……どうしたの?」

 雪彦の問いに大樹は瞼を閉じて、深く深く息を吐いた。それこそ全身の酸素を吐き出すように。ほっとした表情で雪彦の髪を愛おしげに優しくなでた。

「あぁ、よかった……雪彦。正気に、戻ったんだな」

 正気?

 愛衣は雪彦と顔を見合わせる。何が起こっていたの?

 雪彦はのろのろと体を起こすと、扉が開け放たれた大樹の部屋を見て、恐ろしいものでも見たかのように目を見開いて固まった。愛衣も近づいて中を見て、声を失った。

 そこは愛衣が知っている大樹の部屋じゃなかった。

本棚が倒れ、物が散乱している。窓ガラスにはひびが入っていた。ベッドシーツはずたずたに引き裂かれ、本の一部もべりべりにページが引きちぎられている。そこらじゅうに白いものが舞うように散らばっていた。羽根枕の中身だ。雪彦の髪にも小さな羽根がついていた。壁には二か所へこみがあって、大樹の使っている弓や矢が倒されていた。弓にはひびが入っていて、それらを大切に守っていた布も二つに裂かれている。

「これは……」やっとのことで出てきた声もそれしか言葉を漏らさない。

「大樹……これ、俺がやったのか」

 雪彦が恐る恐る訊くと、大樹が体を起こしながら「あぁ」と答えた。これを、雪彦さんが? 愛衣は雪彦を見つめた。

「雪彦おまえ……夢ん中で暴れていただろ。平気さこれくらい。わざとやったわけじゃないんだから」

 大樹は雪彦の髪についた羽根を取り払うと傷だらけの腕で雪彦を大事そうに抱き寄せた。

「大樹の怪我も……俺が……」

「気にすんな、こんなの」

「でも……」

「おまえもわからん奴だな。大丈夫って言ったなら大丈夫なんだよ」

 その様子をただ茫然と突っ立って見ていた愛衣は、背後の気配に今更気づいた。振り向くと嵐志がそこに立っていた。手には救急箱を抱えている。

「兄者たちっ……ケガしてっ……」

 寒いのか怖いのか、歯が噛み合わずカチカチと鳴らしている。嵐志がここまで震えているのを愛衣は初めて見た。いつもは勝気な目に涙をいっぱい溜めて、今にも零れそうだ。愛衣は自分が羽織っていたフリースの上着を嵐志に着せた。


 リビングはまるでお通夜みたいな空気だった。いつもはうるさい嵐志も、今ばかりは口をすっかり閉ざしてしまっている。大樹が自ら雪彦の手当てをした。雪彦も打ち身や擦り傷ができていた。雪彦はともかく、大樹は病院に行ったほうがよさそうなのに「平気だから」とか「あとで自分でやるから」とか言って笑うばかりだった。

「たいしたことないって。大丈夫」

 医者に見せたら、なぜこんな怪我をしたのか尋ねられるだろう。そうしたら、いくら口先で誤魔化したって、雪彦が傷つけたことがわかってしまう可能性がある。大樹はそれを恐れているのだと、愛衣は悟った。

 雪彦が唐突に口を開いた。

「やっぱり……俺、帰るよ」

 嵐志と愛衣が雪彦を見る。とても悲しそうな顔をしていて、なんだかやつれたようにも見えた。「どうして?」と大樹が手を止めずに訊く。

「だって、俺がここに居たって、さっきみたいに、君たちを傷つける」

「俺たちはそんなにやわじゃない」

「大樹は、だろ⁉」

雪彦が声を荒げた。嵐志がビクッと肩を縮める。

「大樹じゃなくて、結衣くんだったら? 嵐志くんだったら? 愛衣くんだったら? おまえは痣で済む程度かもしれないけそうじゃないだろっ! 骨が折れるかもしれないっ、意識がなくなるかもしれないっ、もしかしらら殺してしまうかもしれないっ!」

 殺してしまうかもしれない。その言葉が愛衣の心をぎゅっと締め付けた。殺すという言葉が、日頃から使われているのだろうか。愛衣はそこまで考えたことがなかった。雪彦はそこまでの暴力を親から受けてきたのだろうか。

 怖いんだ、と雪彦は両手で顔を覆った。

「たくさん〝愛〟をもらったとしても、傷つけてしまうのなら……壊してしまうのなら……いないほうがいいんだ」

 リビングがしんと静まり返る。隅にある木箱の中で梅吉がごそごそと蠢く音だけがかすかに聞こえた。

 きみたちにはなにもわからないだろうね。

 前にそう告げた雪彦の声が蘇る。あのとき、雪彦がどんな顔をしていたのか、愛衣は知らない。今の雪彦は瞼を伏せ、足元をじっと見つめていた。その姿はひどく頼りなさげで、とても弓道で賞を総ざらいする覇者には見えなかった。大樹は慰めの言葉を口にすることはなかった。ただ、哀しそうに雪彦を見つめていた。なにを口にしていいのか、わからなかっただけかもしれない。

「――――やだっ!」

 一瞬誰の声かわからなかった。嵐志が叫んだのだ。

「帰っちゃいやだっ!」

「でも……」

「やだやだやだやだ絶対やだぁっ!」

 嵐志は雪彦の袖を掴んで激しく首を横に振った。

「どうして? 雪彦兄者にヒドイことするのなら、そんなところ帰っちゃダメだっ! 痛いことされるのなら、ずっとここにいればいいじゃないかっ! ねー、お願いだから帰らないでっ! 一緒に暮らせばいいじゃないかっ! 毎日大樹兄者起こしてさ、桜子と一緒に走りに行こうよ。途中にさ、俺の秘密の場所があるんだ、大樹兄者も知らないよ? そこ連れてってあげる! 二人だけの秘密! あと、家の近くにおっきな桜の木があって、そこでお花見しよーよ! 結衣の作った三色団子食べながらっ、大樹兄者も愛衣姉者もいっしょにさぁっ!」

 マシンガンのように言葉を連ねる嵐志に、雪彦はさらに眉を寄せ、どうしていいのかわからないというように片手を宙に浮させている。大樹もなにも言わない。ただ黙って嵐志の声を聞いている。

「俺は、雪彦兄者のこと大好きだから、傷ついてほしくないよ」

「もしかしたら、嵐志くんにもいつか手を上げてしまうかもしれないのに……?」

「それはありません」

 初めは自分の声だと愛衣は気づかなかった。声は震えていなかった。雪彦の隣に腰かけて、絆創膏だらけの手を優しく取った。氷みたいに冷たい手をあたためるように包み込む。

「親がそうだったとしても、子どもがそうなるとは限りません。たまたま、辛くなる要因が重なっただけのことです……小さいころにお母さんがそう言ってました。それに、私は雪彦さんがそんな暴力をするなんて思えません。今回、暴れてしまったのは私たちに気を許してくれたから。私はそう思います」

 雪彦は驚いた表情で愛衣を見ていた。瞳が揺れている。

「雪彦さん、家ではこんなに暴れないでしょ? 家族だから、周囲に見せない部分もある。雪彦さんの心、ちょっと見えた気がしました」

「そうだ」大樹も雪彦の顔を見た。「不毛な親子愛を続ける必要はない。そんなの美徳じゃない。俺だって、おまえにここに居てほしい」

「おにいちゃぁん……おねえちゃぁん……」

 結衣がうさぎのぬいぐるみを引きずりながら、のろのろと起きてきた。

「ゆい……こわいゆめみちゃったぁ」と涙ぐみながらとことこと駆け寄ってくる。

「こわい夢見たの?」

「うん」と結衣はうなずくと「ゆきひこお兄ちゃんがいなくなっちゃうの」と言って雪彦の膝にしがみついた。

「いなくなっちゃいやぁ」

雪彦の目から涙が零れた。大粒の雫はぽろぽろと頬を伝い、ぽたぽたとカーペットに落ちた。カーペットはそれを吸い取った。まるで最初から雪彦の涙なんか存在しないように。

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