27話

 朝のことがあってから、愛衣はどこか上の空になっていた。授業中も伏せていることが多く、優香が時々「大丈夫?」と声をかけてくれた。合唱コンクールの生理の時以来、優香はよく愛衣に話しかけていた。

「やっほー愛衣ちゃーんっ! 体育行こーっ!」

 三限が終わるとD組の扉が勢いよく開き、淀んだ空気が一掃されるほど威勢のいい風夏の声が吹き荒れる。たまらず悠馬が怒鳴る。

「部長うるせーっ!」

「うるさいぐらいがこの季節にはちょうどいいのだっ!」

 体操着の袋をを持って風夏を廊下に押し出す。

「風ちゃんどうしようっ‼」

「お? どうしたどうした?」

「よ、夜鷹が……夜鷹が私のこと好きだって……」

「あっ! とうとう口滑らせたなアイツ!」

「知ってたの⁈」

 風夏は、「あ、ヤバっ」さっきの夜鷹みたいに口を手で塞いだ。


体育はD組とE組の合同で行われる。この日の女子は外で持久走だった。風はないものの、あいにくの曇り空でひんやりしていた。気温十二度と天気予報が言っていたけれど、体感温度は十度以下だ。

「ごめんって……愛衣ちゃーん、ねー、機嫌直してー そうだ! 今日の給食のシュークリームだよねっ! 愛衣ちゃん好きだよねシュークリーム! 私の分あげるからっ!」

 持久走の順番を待っている最中、愛衣はずっと膨れっ面だった。

「他人事だと思って……」

 赤いジャージの袖に手を隠して、息を吐いて温める。冬に外で体育するのに長袖のジャージは必須だ。けれども風夏は半袖ハーフパンツ姿。何とも寒そうな格好だ。一年の時にジャージを無くしてから、今までずっとこのスタイルだ。その間に寒さに慣れたという。

「だからごめんって! それに夜鷹から口止めされていたし、ね?」

「口止め料は?」

「取ってない取ってないっ‼」

「怪しい……」

「ほんとだって!」

 風夏が顔の前で両手をぶんぶんと振る。

「だって夜鷹の態度見ていれば明らかにわかりやすかったし……それに、あの子、こんなこと言ってたのよ。『どうせ叶わないですから』って」

 図書室で夜鷹が言っていたことを思い出した。憧れだって。でもその憧れが恋に変わったとしても、自分は臆病だから伝えられないと。

「伝える気持ちがあの子になかったんだもの。黙っているしかないのは、愛衣ちゃんだってわかるでしょ?」

 それでも風夏は、いつか夜鷹が口を滑らせるとは思っていたという。

 タイマーが大きな音を立てる。前半の持久走の測定が終わった。後半の愛衣たちの番だ。「愛衣ちゃんのお兄さんたち、どっちから告白したの?」

 靴紐を固く結びなおしていると風夏が隣にしゃがみ込んで聞いてきた。その問いは愛衣の胸を突いた。あまりの衝撃で少しだけよろめいた。

「それは……」

 答えられなかった。そこまで深いところは聞いていない。口を閉ざしていると風夏は

「どっちから言ったとしても、言おうか言わないか、相当迷ったんじゃないかって思うんだ。きっと、夜鷹よりもずっと悩んだんじゃないかな」

 風夏が言わんとしていることはすぐに理解した。

異性に場合は付き合うか振られるかのどちらかしかない。例えいい返事が貰えなかったとしても、例外は置いておいて、嫌われることはそうそうない。けれど同性に告白する場合は相手に嫌われるというリスクが大きすぎる。そして同性を好きになった自分がおかしいという決定打になりかねない。

 風夏が愛衣の両手を握って立ち上がらせた。

「愛衣ちゃんを責めているわけじゃないよ。ただ私がそう感じただけ。だから夜鷹のことは嫌いにならないであげて。部長からのお願い」

 持久走スタートの合図が鳴る。後半組が一斉に走り出す。風夏は足が速い。愛衣よりも先を進んでいた。追いつこうと必死になって酸素が足りなくなる。今の愛衣の状態と同じだ。


 ***


 夜。眠れなくてリビングに行くと大樹がソファーで寝転がっていた。この日は弓道部もなく、早く家に帰ってきていた。家に上げた桜子が、かまってくれとせがんでいるが、それも適当にあしらっている。キッチンで水を飲んでいると「愛衣」と、目元を隠していた腕を上げて、愛衣に声をかけた。

「なに?」

「明日、雪彦を連れてくる」

 愛衣はぐっと唇を噛んだ。

「夕食だけじゃない。明後日も、明々後日も、その次の日も……住んでもらうことにした」

 大樹の言葉が頭の中をめぐる。

明日、雪彦さんが家に来る。明後日も、明々後日も、その次の日も、この家にいる。住んでもらう。

「雪彦さんに、なにかあったの?」

「わからない。でも、これ以上は見ていられない」

 珍しく大樹が本気で怒っている。愛衣も桜子の隣に座って、亜麻色の体を撫でた。

「同性を好きになることは、道を外れてなんかいない。正しくさせなきゃいけないなんて言うのは、親のエゴだ。大事なのは親との絆なんかじゃない」

 愛衣は大きく息を吐いた。

 くぅーん。

 桜子がくりっとした大きな黒い目で愛衣を見た。何を話しているの? そう聞いているみたいだった。鼻先で愛衣の手を軽く突っつく。

「もっと……もっと早く気付けたんだ」悔しそうな声が漏れる。「雪彦の着替えるところを誰も見たことがないんだ。あいつはいつも誰より早く弓道場に来て、誰よりも遅く練習してから帰っていくから、誰も気付けなかった」

 淡々と話してから「こんなの、ただの言い訳だ」と付け足した。

 ずっと弓道に時間を費やしてきたと雪彦は言っていたのを思い出す。

「ねぇ、兄さん」愛衣は小さく聞いた。「兄さんは、雪彦さんが弓道をする理由って知っているの?」

 大樹は呼吸を整えるように荒く息をついた。

「あぁ。〝神に捧げる弓〟だ」

「〝神に捧げる弓〟……?」

「もともと弓道は神事だったんだ」

「破魔矢とかのこと……?」

「そう……うーん……破魔矢はちょっよ違うか。巫女が躍る舞みたいなものだ。一つの演武みたいなもの……」

 ふと思い出したように大樹が問いを投げてきた。

「愛衣は、空手とか柔道とか、合気道に剣道。これらと弓道に違いってわかるか?」

 そんなの急に質問されても困る。愛衣は武道の経験もなければ、大樹の試合を遠目で見たくらいしか接点がないのだ。空手、柔道は道具を持っていない……でも剣道は竹刀がある……違いは道具の有無ではなさそうだ。袴もそうだ。合気道も袴を履く。愛衣にはお手上げだ。

「無理です。お手上げ」

大樹はソファーに寝転がったまま愛衣を見下ろして「白い足袋を履いているかいないか、だ」と答えた。

「足袋?」

「そう。あとの武道はみんな裸足だ」

 よくよく考えてみるとそうかもしれない。組手をする柔道や合気道は裸足だ。剣道も。けれど、弓道以外の武道で白い足袋を履いていないことが〝神に捧げる弓〟とどう関係しているのか。

「足袋を履くことで戦闘意識がないことを示すんだ。他の武道では一対一にお互いが向き合って戦う。剣道もそうだろう? つまり、弓道は戦に使わない。演武するためにあるものだという証が、白い足袋に表れている」

「でも、弓は狩猟民族の時からのものでしょ? 昔の武士とかも弓を使っていたわ」

 愛衣は歴史の教科書で弓を使って戦をしている絵を何度も見てきた。

「戦で使う弓と、弓道で使う弓を一緒にしたらいけない。とても神聖なものだから、血で穢してはいけない。雪彦は、そのあたりをものすごく意識していた」

 大樹は高校一年の頃、雪彦に勝負を持ちかけたらあっさり断られたという。そのときに「君は何のために弓を引くの?」と雪彦に言われたそうだ。

「その時に、足袋の話を雪彦から聞いた。あいつの受け売りだ」

 大樹も雪彦も、簡単に神に捧げるなんて言うけれど、それがどんなに努力を重ねなければいけないことか、愛衣は容易に想像できた。そもそも神様に捧げるまでの素晴らしい弓を引くことなんて、出来ないんじゃないかとさえ思ってしまった。

 違う。出来ないんじゃない。自分の目指す〝神に捧げる弓〟に、まだ雪彦も手が届いていないのだ。雪彦はそれに到達するために弓を引き続けているのだ。その〝神に捧げる弓〟を目標にして今まで辛いことも苦しいことも、全部を糧にして、雪彦は今の弓を築き上げたのだ。

「あぁ。もし、雪彦が俺に弓道を止めてくれというのならば、俺は弓道を止める」

「どうして?」

 一緒に弓道を続けていけばいいじゃない。愛衣の質問を先読みしたように大樹は言った。

「神への道は、二人で並んで歩くことはできない」

 とても狭い道なんだ、と天井を見つめる。

「きっと雪彦もそれを知っている……」

 雪彦は、知っていてずっと一人を貫いていたのかもしれない。

雪彦はなぜ、そこまで神への道を望んでいたのだろう。そんなのわかっていることじゃない。愛衣は自分の胸に言い聞かせた。存在を確かめるためだ。精神が壊れないよう、自分で自分を見失わないための道しるべ。

 大樹はそっと瞼を閉じた。

「でも、でも絶対……雪彦がいなくなるのは嫌だ」

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