26話

 恭平に大丈夫と言ったものの、愛衣の胸はずたずたに切り裂かれたままだった。

 教室に行く前に図書室へ向かう。このまま今日一日はここにいてもいいだろうかなんて考えてしまう。

 奥の席に誰かいた。黒い詰襟の制服姿は、背中を丸めて原稿用紙に向かってシャープペンシルを走らせている。

「夜鷹」

「あ、愛衣ちゃん先輩」

やっぱり夜鷹だった。

「おはようございます」

「おはよう。こんな朝早くから書いてるのね」

「まぁ、ぼく書くの遅いですから」

 夜鷹はにへっと情けなく笑った。また原稿を進める。書けること。それが羨ましいと思ってしまった。

「夜鷹……私、書けなくなっちゃった……」

 気づいたら零していた。夜鷹の書く手が止まる。「愛衣ちゃん先輩が、ですか?」と振り向いた。

「何を書いていいのか、どれが自分の言葉なのか、わからなくなっちゃった……詩織先輩がね、『お前は何のために書くんだ?』って……それと兄さんと雪彦さんのことは解決できないんだって……」

 零れてくる苦しいものは、どうしても止められなくて、また目頭が熱くなる。顔を両手で覆うけれども視界がぼやけ始める。

「書いたところで、兄さんと雪彦さんのことは救えないって……どうして、言葉にする必要があるのかって……結局私たちが当事者じゃないから、どう言葉にしたって偽善者にしかなれない……」

 夜鷹が椅子から立ち上がると静かに近づく。顔を覆った両手に触れ、解くように手を握る。雫が勢いよく頬を伝って、床に落ちた。

「どうぞ、座ってください」とロッキングチェアに促す。「まだ音莉も来ていませんし、大丈夫です」

 思い返せば三年も文芸部にいるのに一度もロッキングチェアに座ったことがない。恐る恐る腰を下ろすと、大きく後ろに傾いて天井が見えた。思わず夜鷹の手にしがみつく。ゆっくり背もたれに重心を預ける。揺れが次第に鎮まってくると夜鷹も手を離した。

「これ、ぼくの水筒ですけど、まだ口つけてないので。ほうじ茶です。あ、あと……コレはナイショですよ」

 黒色の水筒と、ポケットからはちみつのどあめを愛衣に渡す。お菓子も校則で禁止されている。袋が見つかったなら即学年集会が開かれるほど取り締まりは厳しい。

「ありがとう……ごめんね、夜鷹」

「謝ることなんてありません。ずっと苦しいのを胸の中に閉じ込めておくのは、心に毒です。体にだって毒です。無理しないでください」

 夜鷹の声がやさしく胸に落ちる。凍りついたものを溶かしていくような温もりがあった。温かいほうじ茶を一口含んで飲み込む。冷えていた指先までもがぽかぽかしてきた。

「私はすごくないの」愛衣はぽつりと呟く。本当の私は、もっとちっぽけな存在で、何も考えることなんてできない。書くこともできなくなったら、私は私じゃなくなっちゃうなんて考えて。夜鷹にもこんな情けないとこ見せた。強いけど脆い。

「……ダメね」

 夜鷹の顔も見れない。見ないようにしている。愛衣には書くことしかない。それが強迫観念のように染みついている。

「私はただ、兄さんと雪彦さんに幸せになってもらいたいだけなのに……」

 窓際の席に座っていた夜鷹が恐る恐る口を開いた。

「あの……聞いてもいいですか?」

「なに?」

「どうして、そこまでお兄さんたちのことを気にかけるんですか?」

 家庭環境のことは誰にも話したことがない。知っているとしたら、小さいころからずっと家族ぐるみで付き合ってきた悠馬ぐらいだった。話すのを一瞬躊躇った。

「私の家、お父さんが海上自衛隊の潜水士で、お母さんが入院中なの。二人とも、いつも家にいないから、兄弟で家のことを分担しているの。でも、兄さんにはやっぱり私たちにはできないような難しいことをお願いしてきた。今まで普通の高校生がしない分の苦労をずっと背負ってきたの。だから、せめて兄さんには幸せになってもらいたいの」

 わがままを言っているのは分かっている。その願いが自己満足だということも。ロッキングチェアでゆらゆら揺られると、それに合わせて言葉もゆっくりと出てくる。

「このことがあってから、あんまり他人と深い関わりを持とうとしなかった兄さんだったから……でも、雪彦さんと付き合うことで、何かしら変わろうとしているんじゃないかって……」

 目を閉じると、ある光景が浮かんできた。

 嵐志がまだ二歳のとき、高熱を出して寝込んだことがある。母が疲れて眠ってしまった間、八歳だった大樹が嵐志の具合を見ていた、大樹はうとうとするたびに、はっと目を覚まして「しっかりしなきゃ、ぼくがしっかりしなきゃ」と頬をぱしぱしと叩いていた。それをたまたま目が覚めた愛衣は見ていた。その時の小さな声を、愛衣は今も忘れることができない。

「そうだったんですね。すみません、言いづらいことを聞いてしまって」

「今のは推測でしかないけどね」

「でも、好きになるって、すぐ肯定できないじゃないですか。だから、少しずつ自分の中で理解していくんじゃないかと思うんです。きっと、勇気をもって、伝えたんですね」

「そうね」

 ゆらゆらゆら。ゆらゆらゆら。

くらくらと視界が揺れる中、愛衣はとろりとまぶたを閉じた。夜鷹は少し考えて、つっかえながら少しずつ言葉を吐き出した。子守唄みたいに聞こえる。

「言わないって、すごく苦しいことだと思うんです。好きなのに苦しくて、優しいのに切なくて、良い感情も悪い感情もごちゃまぜになって、でも簡単に吐き出せないから、どんどん苦しくなっていく。きっと、自分の中の全部の感覚や感情がその人に向いているから、好きだって思える……その人のことが特別だって思えるんじゃないですか?」

「夜鷹は、好きになった人いるの?」

 問うと彼は頬を赤くした。そうやって、名前を言わずとも『好き』という言葉で思い浮かぶ人がいることは、ほほえましいことではあるけれど、同時に苦しい。その人のことばかり考えるようになるから、思考も散漫になってしまう。

「ぼくの場合は言えないんです。その人はまるで星みたいに輝いていて、堂々としていて……憧れなんです」

 夜鷹は見えない星を見つめるように、窓の外を眺めた。

「私も……そんな風に詩織先輩のことを考えていたわ」

「え?」と夜鷹は愛衣の顔を見つめた。「好きなんですか? 詩織先輩のこと」

 好きだ、というには未熟だった。憧れの方が強くて、上手く言葉に表すことができない。気づいたら口から零れていた。

「憧れは、恋とは呼べない」

「でも、憧れから恋に変わることは、あるかもしれません。ぼくが、愛衣ちゃん先輩のことを好きになったみたいに……」

「え?」言葉を失う。まばたきを繰り返しながら夜鷹を見つめた。

 夜鷹も数回ぱちぱちとまばたきをした後、はっと我に返って顔を真っ赤にした。ばっと両手で口元を塞いで「え」とか「あぅ」とか言葉にならない声を発している。焦っているようにも見えた。

「今、なんて言ったの?」

夜鷹は口を塞いだまま、「な……」と声を漏らす。少しずつ後ずさりをして、回れ右をすると「なんでもないですっ‼」と、鞄や原稿を残したまま図書室から出て行ってしまった。途中、転ぶ音と「あだっ‼」と悲鳴が聞こえた。

チャイムが鳴っても、愛衣はその場から動けなかった。

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