25話

 詩織が帰った後も、愛衣はしばらくその席から動けなかった。震える足に鞭を打って立ち、マスターと青年に頭を下げた。代金は詩織がまとめて払ってくれていた。

「またいらしてください」と青年が笑みを浮かべた。それにちゃんと答えられていただろうか。愛衣はふらふらとした足取りで喫茶店を後にした。

 家に帰ると、大樹が「雪彦が来れなくなった」と教えてくれた。正直、ほっとした自分がいる。この状態で、雪彦に合わせる顔がない。愛衣の様子を見ていた結衣が、急いでお風呂をのスイッチを入れた。


 ***


「愛衣」

 呼びかける声。まどろみの中、優しく名前を呼ばれて眠りの底から浮上する。目を開くと恭平がいた。ぼんやりとした目で見返す。まだ朝の五時前だろう。恭平がこうして訪れるということは、当直の日。つまり仕事に戻らなければならない時だ。

「おとうさん……もう行っちゃうの?」

「あぁ」と恭平が声を漏らす。「ごめんな。愛衣が大変なときに傍にいてやることができなくて」

 枕に頭を置いたまま、愛衣はふるふると首を横に振った。

「だいじょうぶ。兄さんがいるわ。嵐志と結衣も」

 恭平の大きな手のひらが頭をやさしくなでる。大丈夫と言ったけれど今回に限って、行かないでほしい、なんて思ってしまった。それを隠すために布団から体を起こして言葉を重ねる。

「桃子もいるわ。吹雪も、桜子も、梅吉さんだって……一人じゃないよ。だから安心して」

 どうして止めないの? 頭の中でもう一人の愛衣が声を上げている。お父さん行っちゃうよ? 行ってほしくないんでしょ?

 そんなことをしても無駄だってわかっている。お父さんはこれから仕事なの。日本の海を守っているの。それがどれだけ大変なことなのか、聞かなくてもわかる。前に恭平はこう言っていた。「父さんの仕事は、小さな戦争だ」って。でも……

 愛衣はベッドにへたりと座り込んだまま恭平に抱きついた。行ってほしくない。

「愛衣は隠すのが下手だなぁ」と恭平も抱きしめ返してくれた。

恭平が着ている青いウィンドブレーカー。当直の日に必ず着ていくものだ。潮の匂いが染みついている。愛衣は海は好きだ。でもこのウィンドブレーカーについている潮の匂いは好きじゃない。愛衣たちから恭平を奪う匂い。

「お父さん。私、学校でやったこと、後悔していない」

「うん」と小さく恭平が言った。

「兄さんが、雪彦さんと付き合って……恋人になってよかったと思っているの。だって、そのおかげで出会えた人もいるし、知らなかったことを知ることができたの」

恭平は適度に相槌をして静かに聞いてくれた。腕を緩めて恭平と顔を見合わせる。

「だから、だからね……今度は私が教えるの。居てもいいんだって。居なきゃダメなんだって」

「うん。そうだね。人は他人に肯定してもらって生きているわけじゃない」

 でも……と恭平は唇を噛んだ。「雪彦くんのことは、力になれなかった。大人として情けないな」

 恭平も雪彦のことをちゃんと考えてくれていたのだ。虐待のことは大樹から聞いたという。けれど「大人として」という言葉に愛衣は引っかかった。大人だからどうにかできるということではない気がする。

「大樹には話したことだけど、もし、彼の身に何かあったら遠慮なくこの家に住んでもらうといい」

 はっと愛衣は顔を上げた。

「何かあることがないように、祈っているけれどな。幸い、嵐志も結衣も、彼を好いているようだし、大樹も同じようなことを言っていた。このまま放っておけないって」

 愛衣は布団を見つめた。そこまでの行動する勇気は愛衣にはなかった。

「愛衣」恭平がゆっくりと髪を撫でる。「人には得意なことと、そうじゃないことがある。愛衣は、愛衣ができるところで伝えていけばいい」

 前に「無理をするな」と恭平は言っていた。愛衣はその言葉の意味をようやく理解した。あれは「なにもするな」という意味じゃない。自分ができることを最大限に使えという意味だったのだ。愛衣は恭平の言葉に強く頷いた。

「わかった。今度こそ、大丈夫」

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