24話

 固定電話の受話器を持って、愛衣は自分の部屋に駆け込んだ。制服のままベッドの上で正座をして、悠馬が教えてくれた番号に電話を掛ける。呼び出し音が鳴っている間、心臓の音がやけにうるさく感じた。

 しばらくして『はい』と短い返事が聞こえた。

「……一之瀬愛衣です」

 電話の向こうは一瞬黙った。

「急にすみません。悠馬からこの番号を教えてもらいました」

 そう告げると『元気か?』と聞いてきた。愛衣は急に体が震え出した。震えが伝わらないように、受話器を持っていないほうの腕で体を抱きしめた。

『一之瀬、元気なのか?』

「あ、はいっ、元気です。あの、詩織先輩……」

『ちょっと待て、まだ学校内だ』

「じゃあ、また掛けなおします」

『いや、いい』そう言って、詩織は次の週の日曜日に駅前のロータリーにある時計台の前に来いと言った。テストが終わった週だった。


 日曜日、愛衣は何を着ていけばいいのか朝から迷っていた。待ち合わせの時間は十三時だったが、久々に外に出かけるのもあって、どんな服を着ていけばいいのかわからなかった。風夏や音莉と出かけるのとは訳が違う。

 結局、白のセーターに紺のロングスカートにして、黒のダッフルコートを羽織った。

「あいお姉ちゃんおでかけー?」

 靴を履いていると結衣が梅吉を抱いて出てきた。

「うん。夕方までには帰るから。今日、雪彦さん来る日だって、兄さん言ってたでしょ? 一緒に晩ごはん作ろっか」

「作るっ!」

吹雪が階段で大きな欠伸をしていた。玄関を出ると木枯らしが吹き荒れていた。


都市部の駅は、日曜日ということもあって混んでいた。駅前のデパートはポスターや垂れ幕がクリスマス仕様になっている。十二月になってから、どこもかしこもクリスマス一色だ。

 指定された時計台で詩織を待つ。十三時少し前。詩織は指定した時間ぴったりに来る。秒針が十三時きっかりに指したとき、駅構内から出てくる詩織を見つけた。

「一之瀬愛衣」

 白シャツに黒のジーンズ、紺のトレンチコートを羽織った詩織が愛衣の前に立った。二年ぶりに会う所為か、心臓がどくどくと脈打つのがわかる。制服姿しか見たことがない愛衣にとって、どれも見覚えのないものだった。その服装は詩織によく似合っていた。

 口調は落ち着いていて、静かで、愛衣が知っている詩織に変わりはなかった。すっと切れ長の二重の目も、その瞳の中の光もそのままだった。うまく表現できない。大人っぽいのだけれど、大樹や雪彦とはまた別の大人な感じがする。大樹は頼りがいがあって、雪彦は弓道のイメージから少し妖艶といった印象がある。詩織は……知的という言葉が浮かんだ。

「そんなにしげしげ見られると、きまりが悪い」

 詩織は困ったように腕を組んだ。

「お久しぶりです、詩織先輩」

「国枝悠馬から、多少の話は聞いている。教室で椅子を振り回したんだって?」

 悠馬は一体どんな言い方をしたのだろう。振り回していないことだけ訂正すると、詩織はわかったわかった、と言って歩き出した。愛衣もその後ろを付いていく。


 詩織が案内してくれたのは、半分地下になっている喫茶店だった。普通に歩いていたら見過ごしてしまいそうな階段を下りて、店内に入る。詩織がマスターと思しき初老の男性に軽く会釈する。

「奥のお席へどうぞ」

 優しく促されて愛衣も詩織に続く。大きなサイフォンが置いてあって、その曲線美に思わず見とれてしまった。ランプの明かりの中テーブル席に座ると、若い青年がおしぼりとお冷を持ってきた。

「宮沢さん、いらっしゃい。今日は可愛らしいお嬢さんをお連れですね」

「中学の後輩だ」

「そうなんですか」

 ずいぶん親しげに青年と話している。常連客なのか。さすが年上は中学生とは違う。

「ご注文は後ほどでよろしいですか?」

「あ、俺はいつもので」

「あのっ、私、ブレンドで……」

「たまにはブレンド以外も注文したらいいんじゃないか?」

 詩織は青年に何かおすすめはあるかと尋ねた。青年は少し悩んだ後、愛衣に「オレンジはお好きですか?」と聞いてきた。ちょうど試作品で考案したドリンクがオレンジを使っていると言う。オレンジは好きだし、飲んでみたいという好奇心には抗えず、それをお願いした。

「こういうお店……初めて来ました」

 以前、雪彦と行ったカフェとはまた違う。ぼんやりとしたランプの明かりがちょうど心地よく、木材を基調とした店内に似合っていた。

「俺も原稿の打ち合わせの時に出版社の人に連れてきてもらった。それ以来来るようになったな」

 さっきの若い青年はマスターのお孫さんだと教えてくれた。

「一之瀬や国枝は好きだろうなとは思っていた」

 確かに、悠馬ならここでずっと本を読んでいそうだ。長居は迷惑だとわかりつつも、愛衣もここで原稿を書きたくなってくる。

「お待たせ致しました」先ほどの青年がオーダーを運んできて、詩織と愛衣の前にカップを置く。「キャラメル・ラテと、こちら、オランジェット・モカになります」

 愛衣の前におかれたのはピンク色の下地にいちご柄のカップ。ホイップの上に、チョコソースとオレンジシュガーがたっぷりかかっていた。

「かわいいですね」

「ありがとうございます。ごゆっくりどうぞ」

 愛衣はオレンジシュガーを浮かべたカップに口をつけ、すぐにカップをソーサーに戻した。自分が猫舌なのをすっかり忘れていた。詩織も一口キャラメル・ラテを含み、カップを置いた。白いカップを指に引っ掛けて飲む姿は、なんだか詩織が本当に遠い存在になってしまったように感じた。

詩織は愛衣の話を一通り聞くと「ジェンダー問題か」と、息を吐いた。

「それは人の意識なしには解決しない。いや、解決といっても双方の当事者の間でしか成立しないだろう。それでいい。元来、こういった問題は解決することがない話だからだ。解答のない問いかけ。けれども解読不能ではない」

 解答のない問いかけ、という言葉が引っ掛かった。愛衣の表情が硬くなる。詩織は少し独特な言い回しをする。それが心地いい時もあれば、よく理解できなくてまどろっこしいと思う時もある。

「差別という言葉を狩り取っても、またすぐ次の言葉が生まれるだけだ。日本人は全く持って言葉狩りが上手い。不快だと思うのはその一瞬だろう。しかしセクハラだのモラハラだの、言葉を作り上げてはそれを狩ることが当たり前になっている。もっと言葉に対して優しく接してもらえないものだろうか」

 言葉に対して優しく。言葉狩りという表現にも胸がズキッと痛んだ。そういえば最近、よくニュースでセクハラやモラハラという言葉を聞くようになった。確かにそう言ってしまえたら楽だろうけど、簡単に決めつけてしまうのはどうかと思った。ホモとか、レズとか。そういうものに似ている。

「一之瀬愛衣。これはお前が対峙している問題にも言えることだ。レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、アセクシャル、パンセクシャル、エックス……様々な呼び名があっただろう。しかしそれは名前を付けて、その枠の中に閉じ込めているのも同然だ。名前は単なる区切りになって、当てはまるものを見つけてはそこへ押し込める。これも一種の差別だな。多彩化したために起きた差別。なにより、差別用語を意識している時点で、それもまた差別になる…………難しいことを言っているとは思うが、これが現実だ。現実に理想はない」

 きっぱりと告げて詩織は再びキャラメル・ラテに口をつけた。

「差別って、怖いです。言葉も、行為も」

愛衣がそう言うと詩織も「そうだな」と息をついた。

愛衣も少し冷めたオランジェット・モカをゆっくりと飲み込む。ほんわりと口の中にオレンジの味が広がった。ほどよい甘さに、ほぅっ、と息をつく。

「美味いか?」

「はい、とってもおいしいです」

「それはよかった」

 詩織は優しく微笑んだ。

「先輩、どうしても、兄さんたちは傷つかなければいけないんですか?」

 愛衣はカップを置いて詩織に訊いた。詩織は形のいい顎に手をやって少し考え込み、とつとつとまた話し出す。

「性的なものへの差別は今に始まったことじゃない。イギリスやアメリカのキリスト教……特にプロテスタントだ……彼らがそう定めている。純愛、プラトニック・ラブは良し、性的淫らなものは悪し。常に道徳的で純潔でなければならない。宣教師たちが布教した影響だ。明治以降には男女の自由恋愛さえも許されなくなっている。その縛りから抜け出せていない、あるいはその思想を受け継いだ者たちが、まだたくさんいる」

 愛衣から問いかけて、そこに返ってきた答えなのに、受け止めきれないもどかしさがあった。ずっと昔から続いてきたことだから。そう言われている気がして、胸の中にもやもやと暗い雲が出てきたようだった。

「一之瀬愛衣」

 澄んだ冷たい声でフルネームを呼ばれる。

「お前はこれを知ってどうしたい?」

 顔を上げると、詩織の目が険しいものになっていた。ぞくりと背筋が凍りつく。愛衣はこの詩織の顔を知っている。どういう場面でこういう険しい目つきになるのか知っている。この顔は――。

「一年間見てきたが、きっとお前は書きたいというだろう。書かなきゃ気がすまないようだしな」

 詩織の視線は愛衣の目を捕えて離さない。

「じゃあ質問を変えよう。お前は何のために書くんだ?

 頬が熱くなる。

何のために。それは考えたことがなかった。すぐには答えられない。

「私は……」

 声が震えそうなのを必死に堪える。あれ、私は何のために書いているんだっけ。答えられない愛衣を見て、詩織は先を続けた。

「書いたところで何もならないのは知っているだろう。たかが中学生が書いた作文だ。そんなもので世間を変えることなんか、できるわけがない。私はたまたま応募した作品が、年齢と世代の感性にぴったり当てはまったからであって、そこに偶然経済効果が乗っかっただけだ。単なる年齢の物珍しさからちやほやされるだけ。大人になっても子どもの頃の値札が剥がれるわけでもない。それに、これで差別問題が解決できたのなら、教育なんていらないだろう」

 なにもならない。

 たかが中学生が書いた作文。

 詩織の言葉が愛衣の心をぐさぐさと突き刺す。こわばったまま、なにも言えなかった。

「一之瀬愛衣。お前が何をしたいのかがさっぱりわからん。ただ、自分勝手に理由をつけて、書く言い訳にしているようにも見える。理解者であるならばそれでいいじゃないか。なぜ言葉にする必要がある? 身勝手だ。変えられない問題を変えようとしている」

 詩織の今の表情。それは詩織が原稿を書いているときの顔だ。作家の顔。書くことに関して妥協しない、一つのミスがあってはならないという鬼神の表情だ。

 詩織の問いはもっともだ。なぜ言葉にするのか。書き残すのか。愛衣は唇を噛んだ。詩織は黙ってうつむく愛衣を見つめ。そして瞼を閉じた。

「どうしても変えたいというのならば、方法はいくつかある」

 詩織は人差し指を立てて愛衣に突き付けた。

「一度、世界がひっくり返って、滅んで、道徳も倫理も消滅させてしまうか」

 指が二本に増える。

「人類全体が一つになって、一つの敵として差別対象を排除するか」

 詩織が提示した方法は、いつのまにか愛衣の腕をすり抜けて深く深く落ちてしまった。ショウメツ。ハイジョ。どっちも愛衣には衝撃が強すぎた。すべてが闇に包まれて、崩れ去る恐怖、痛み、悲しみが一気に愛衣の心に雑然と折り重なっていく。

「とても極端で排他的だが理は叶っている。その者たちを排除して、手っ取り早く言うなら皆殺しにしてしまえばいい。お前は兄と、その恋人を手に掛けることができるか」

 愛衣は力なくふるふると首を横に振った。

 なぜ書くのか。

 変えられない問題を。

 私自身の立ち位置は。

 すべてがわからなくなってしまった。考えなきゃ。考えなきゃ。脳へそう命じるけれど、エラーが出たみたいに正常に動いてくれない。迷子になりそうだ。聞けば聞くほど迷路は複雑になっていく。詩織がとどめを刺すように、訊いた。

「当事者ではないお前は、どの立場からものを言う?」

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