23話
ホームルームが始まるまで十分を切っている。始業間際と言っていい時間。扉を開けて教室に入った瞬間、教室の空気が一部明らかに変わった。腫れ物に触るような視線を一部から向けられながら、愛衣は自分の席へ向かった。
これが、愛衣が謹慎処分明け一週間の光景だった。
「……なんであの子来るんだろうね」
「来なきゃいいのに……」
ひそひそと片隅で女子たちが話す言葉が聞こえてくる。机に小さく「キモい」と鉛筆で書かれている。それを指で拭って消し去る。なぜが、安っぽいと感じてしまった。急に笑えてくる。陰口も慣れてしまったら聞こえなくなっていた。そんなにクラスに対して無関心だったのかと、今更のように気づく。
午前中のうちに、愛衣はすっかり以前と同じように過ごしていた。
図書室に向かうと、音莉が寝ていた。テーブル席では花鶏が一人で本を読んでいた。
「ギリシャ神話?」
背表紙のタイトルを読み上げると、花鶏は顔を上げ、すぐまた視線を本に戻した。
「あぁ。次書く話が、オルフェウスの竪琴をモチーフにしているから、その下調べ」
「十二月号の作品は?」
「もう出した」
花鶏は書くペースが速い。毎回一番に提出して、次の作品の下調べを始める。
「そこまで深刻なことなのか」
花鶏が本を読みながら零した。
「深刻なことよ」
「多少LGBTについて知っている程度の俺が言えることではないと思うが……良し悪しは本人が決めることであって、立場の異なる俺たちが口を出すようなことはないんじゃないか。外の人間がかかわることで、例え賛同の意見であっても、混乱の原因になりかねない」
どうも花鶏は今回のことでかなり不機嫌になっているようだった。自分のクラスのことではないにしろ、クラス同士の不和や陰口の増加に腹を立てている。LGBTのことについて知っているのも驚いたが、花鶏は知識程度だと本から目を離さず答えた。
「花鶏は……どう思うの」
ギリシャ神話から目を逸らすことなく花鶏は淡々と答えた。
「俺は少しだけ嫌悪ってのがある。友情が恋情に変わるっていう恐怖があるから。友情と恋情は違うものだろう。男女の友情が途中でなくなるように、男同士、女同士でも、そうなっていくのは、俺からしたら怖い以外にない」
愛衣は自分のお気に入りの席に座って花鶏の続きを聞いた。
「自分には気持ち悪いっていう気持ちもあるし、自分にそういう好意を向けられたらきっと拒絶する。でも、だからと言って自分の都合で排除するわけにもいかないし、その関係を大切にする奴だっていることも知っている。ただ……まだ受け入れられない」
矛盾している、と花鶏は自嘲気味に笑った。それから、まるで偽善者だ、とも。
友情が恋に変わる。その言葉に愛衣の胸は押しつぶされそうになった。恋情というものは不思議なもので、どんなものでも材料に成り得る可能性がある。
「男女の友情って……」
「例えば部活仲間。先輩後輩。幼馴染とか」
幼馴染と聞いて真っ先に悠馬が思い浮かんだ。けれど悠馬は変わり者だし、第一、本にしか興味がない。恋に落ちるのはさておき、彼と付き合うとなると苦労することだろう、なんて考えていた。
「花鶏は、風ちゃんと恋愛関係になることは考えないの?」
花鶏はようやく顔を上げたが、何とも言えないような困惑した目で愛衣を見た。
「一之瀬……お前、正気か?」
「え?」
「あのじゃじゃ馬のどこがいいって言うんだ? 有り得ん。もし貰い手が見つかったら逆立ちして校内三周してやる」
勢いよく花鶏が吐き出す。絶対嫌だと顔に書いてある。
「そんなに嫌い?」
「さっきも言っただろう。風夏は友としてなら良い奴だ。けれど、恋愛対象として考えると虫唾が走る。小さいころから風夏と一緒にいるが、あのお転婆に振り回されてみろ。トラウマになるぞ。幸い、風夏もそう思っているようだし」
ケンカするほど仲がいいというのは、彼らには当てはまらないようだ。
「それに俺、彼女いるし」
「あらそう。初耳」
「初めて言った…………驚かないんだな」
「なんか……うん。あまり驚かないかな」
花鶏がそう言って、愛衣自身も驚いていないことに気付く。これは少し心当たりがある。大樹たちが付き合っているのを報告されたときみたいな感じだ。その時の反応に似ていると、自分で思った。
「お兄さんのことも、今みたいな感じで受け止められたのか?」
「そう」
「じゃあ『あ、そう』って思う程度だったんだろう」
花鶏はノートを出して、原稿のプロットを書き始めた。かりかりとシャープペンシルがノートに走る。
「一之瀬の中で重要なのは、性別でも付き合うってことでもなくて、事実だけなんだな」
***
「愛衣ちゃんせんぱ~い」
図書室から出ると、やんわりしたソプラノに呼び止められる。この声は鐘花。長い三つ編みを猫のしっぽみたいに揺らしながら駆け寄ってくる。
「どうしたの?」
「呼んでみただけです~」
きゅっと腕に抱きつく鐘花は最近、鐘花は音莉に似てきた気がする。愛衣より五センチは背が低い鐘花はえへへと小さな菫みたいに笑う。
「音莉みたいなこと言うようになったわね、この子は」
「かわいい後輩からのあいさつで~すって、音莉ちゃん先輩が言ってました~」
ひそひそ……
くすくす……
心地いいソプラノの中に、嫌な声が聞こえてきた。
「『愛衣ちゃんせんぱ~い』だって……あの子も文芸部だよね?」
「やっぱり上下関係しっかりしてないから、そーゆーいけない方に走っちゃうのかなぁ」
「現実とお話の区別もついてないんでしょ? だからああやって人前で気持ち悪いことするんじゃない?」
「ちょっと、聞こえてるって」
しっかりと聞こえていた。それは鐘花も同じだったようで、通り過ぎて行った三年生を見送りながら「愛衣ちゃん先輩はそんな人じゃありませーんっ」と小さく声を上げて、べーっと舌を出した。
「ごめん、嫌なもの聞かせて」
「なーに言ってるんですかぁ! 愛衣ちゃん先輩が謝る必要ありませんっ」
またぎゅっと抱きついてくる。鐘花は元々こういう子なのだ。それに比べて一緒にいる文乃は背が高い。愛衣と同じくらいの背丈でベリーショート。風夏に雰囲気が似ていて、元気な印象がある。文乃も元からそういう雰囲気だし、本人たちもあんまり気にしていない。それがあんなふうに言われるのは、愛衣もかすかな怒りを覚えた。
「私はまだ十二年しか生きていませんし、恋らしい恋なんてしたことないのでわかりませんが……一番身近で、一番難解な問題かもしれませんね~」
「そうね……結構難しいわね」
「私も、LGBTって言葉も最初はわからなくて、文乃ちゃんと一緒に調べてみたんです。なんだかたくさん名前があって、頭混乱しちゃいましたけど」
えっへん、と胸を張る鐘花。頭をなでると嬉しそうにうふふっと声を漏らした。
「私も最初は覚えられなかった。ちょっとしか違いがないのに、たくさんの区切りがあるなんて思わなかった」
「それだけ、この地球上にたくさん人がいるってことですね」
鐘花の言うことは確かだ。大樹の高校の文化祭で出会ったサキも、同じようなことを言っていた。性別なんて関係ないの。私は私って言うだけなの。
そういえば、と鐘花が首をかしげた。
「さっきの人たちを見て思ったんですけど……創作の中では、同性愛とかは簡単に受け入れられるのに、現実として受け入れられないのは、何でですかね?」
愛衣は鐘花をまじまじと見つめた。それは愛衣も考えたこともない疑問だった。ぼんやりしていて鋭いとことを突いてくる。
「そうね……創作物だと、美化できるわ」
「美化ですか?」
「そう」
私の考えだけどね、と付け足す。
「抑圧されているもので、現実的には少数派だから、情報も少なくて容易く実態を把握できない。だから、自分が知っている情報だけで構築されるから、自分が思い込めるように美しく書き換えられてしまうんだわ」
これは正しい答えじゃないと付け加えると、鐘花は少し納得したのかしていないのか、これまたぼんやりした表情で「なるほど~」と首を縦に振った。
授業開始のチャイムが鳴る。
「それでは~」
鐘花はやわらかな笑みを浮かべたまま愛衣に手を振って、一年の教室に戻っていった。
***
「大丈夫か?」
学校を出てすぐ、愛衣の前を歩いていた悠馬が聞いてきた。
「大丈夫」
「どう見ても大丈夫じゃないんだが」
「だったら聞かないでよ」
「悪い」
悠馬はいつもよりも話しかけてきた。
「テスト範囲、結構広いけど、大丈夫そうか?」
「なんとかなるわ。休んでいる間のプリントとかありがとう」
「委員長からも貰ってたよな、ノート」
「うん……」
大量に積まれたノートを思い出す。親切心なのはわかるけれど、押し付けられるのは気分がいいものじゃない。
「次の作品、書けそう?」
『夜明け』の十二月号の締め切りはあと一週間後に迫っていた。一日五枚のペースで書いてはいるけれど、今回は間に合わないかもしれない。何を書いても納得できない。そのことを悠馬に伝えると「スランプだな」と返してきた。
「間に合わないのならそれでもいい。もしかしたら、部長が締切日を延ばしれくれるかもしれない。無理して納得のいかない作品を出しても、いい気分ではないだろう」
悠馬の言うとおりだ。
「愛衣がスランプなぁ……」
「悪かったわね、こんな弱いとこ見せて」
「いや弱くないよ。椅子投げた時は、見ているこっちもスカッとした」
「……やめて、思い出させないで」
あの時のことは、正直言うとあまり思い出せない。記憶が飛ぶということは本当にあるらしい。
「スランプっていうのは悪いことだけじゃない。休めっていうサインでもある。だからこの際、リフレッシュだと思って書くのをやめるのも有りだ。散歩をしたり、昼寝をしたり、遠出でもいい。とにかく何もしない。そうしていると、急に書きたくなってくるんだ」
「そんなものなの?」
「そんなもんさ」
他愛のない話題。思い返せば、悠馬とここまで話したのは久しぶりかもしれない。
それでも最終的には大樹たちの話に流れ着いた。
「雪彦さんって……あの時にあった人だよな?」
歯切れが悪そうに悠馬が聞く。
「あの時にはもう付き合っていたのか?」
「そうよ」
「付き合って長いの?」
「わからない……」
そういえば、いつから付き合っているのかは聞いたことがなかった。でも夏休みには大樹から知らされたから、半年は経っているはずだ。
「悠馬はどう思った?」
「どうって……まぁ、驚いたけど。愛衣の彼しかと思ったら、まさかの大樹さんだったから」
今度は愛衣が驚く番だった。悠馬も雪彦のことをそんな風に見ていたのか。同時に花鶏が言っていた『男女の友情が成り立ちにくい』という言葉が思い出される。男女一緒にいたらもうそこは付き合っていると見られるのか。
悠馬は、そこまで違和感なかったというより、愛衣の慌てっぷりが気になったから、そう思っていたと言った。
「初めから本当のこと言ってくれればよかったのに」
簡単に言ってくれるけれど、そんなに簡単なことじゃない。
「大樹さんが男の人と付き合うなんて、思ってもみなかった。だって大樹さんかっこいいし」
「そう?」
「勉強もできるし」
「英語だけよ?」
「絶対彼女いるって思ってた」
「随分、兄さんのことリスペクトしてるのね」
「生まれた時からお世話になってるし……尊敬はしているよ」
「へぇ」
「愛衣は兄弟だからだろ。内側にいたら気づかないこともある」
悠馬の言うとおりだ。雪彦の虐待も、大樹が同性と付き合っていることも、それをよしとしている自分がいることも、知らなかった。
「今起こっていることは学校内のことで、俺たちはその中の住人だ。一歩外からの意見がないから、凝り固まっている……」
一之瀬家に着いたとき、悠馬が「ちょっとまて」と愛衣を呼び止めた。唐突に鞄に手を突っ込んで何かを探し始め、二つ折りの携帯電話を取り出した。
「悠馬っ! 携帯っ、バレたらどうするの!」
中学の携帯持込みは固く禁止されていて、どんな理由であれ、親が持たせたとしても、見つかったら没収されて卒業しないと返してくれない。それなのに当の本人は「ばれなきゃいいんだよ」となんともあっさりしていた。
電源を入れる悠馬の口から意外な名前が出てきた。
「愛衣、詩織先輩の連絡先……いるか?」
何を言っているのかわからず、聞き返すと苛立ったのか、「だから、詩織先輩の連絡先!」と声を荒げた。
「嘘っ!? 悠馬、詩織先輩と連絡取ってたの?」
「いるのか? いらないのか?」
「いるっ!」
悠馬が画面を見せてくれた。それを手持ちのメモ帳に書き写す。
「詩織先輩の卒業式の時に、携帯持っていたから、アドレス交換したんだ」
悠馬が得意げに言う。
「ずるい」
「残念でした。おまえ今も携帯持ってないだろう」
そう言われると言い返せなかった。
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