22話
クラスの様子が変わったのは明らかだった。愛衣が椅子を投げたあの事件からクラスの、いや学年全体の空気ががらりと変わったと思う。教室の引き戸を開け、入った瞬間に声がやみ視線が一斉に愛衣に向けられた。
ひそひそ…………くすくす…………
聞こえるか聞こえないかで交わされる会話の中で、時々聞こえる愛衣の名前。
麻美と目が合った。あれだけ親友を自称していた彼女はもう近づいてこなかった。軽蔑した目で愛衣を睨みつけていた。
「気持ち悪っ、来なきゃいいのにね」
たまにそう聞こえてくるが、愛衣の心は思った以上に冷めていた。思えば椅子を投げつける前から、大樹と雪彦が付き合っていると知られた時からこんな感じだった。
席に座って、原稿用紙の束を出す。ちらりと周囲を見渡すと偶然悠馬と目が合った。すぐに目をそらし読んでいた文庫本に視線を戻した。愛衣も原稿用紙を広げた。結局書ききれなかった。マスを文字で埋めていくと、多少は現実とおさらばできた。
雪彦の虐待の話が衝撃的すぎて、そっちのショックのほうが大きかった。クラスの雰囲気なんて五分もすれば愛衣の周りから消え去った。所詮、こんなクラスなんてどうなったっていいと心の奥底で思っているのかもしれない。クラスのことにかまっている暇なんてなかった。
「愛衣ちゃん……その、大丈夫?」
こんな中でも愛衣に声をかけてきた人物がいた。委員長の菜摘だ。胸の前で手をきゅっと組んで、愛衣の席の前に立つ。心配しているような表情。
「どうかしら」
「あの……これ……」
差し出されたのは全教科の授業ノートだった。
「いらない」
「でも、休んでいたでしょ?」
菜摘はノートを全部愛衣の席に「遠慮しないで」と置いていってしまった。開いてみる。カラフルな色ペンとマーカーを使っていて見やすかったけれど、悠馬のと比べると色が目立って目がちかちかしてすぐに閉じた。
ホームルームもいつも通りの進行だったが、担任は疲れた顔をしていた。時折愛衣のほうを横目でちらっと見ていたが、それ以外は何もなかった。
休んでいる間も、悠馬が持ってきてくれたプリントだったりノートのまとめだったりを参考にして予習していたおかげで、授業に遅れを取ることはなかった。騒動のときに二番目に騒いでいた熱血学級主任の授業では、授業を中止にしてまで虐めだの、クラス不和だのについての説教を食らわされたのは想定外だった。英語の単語テストも範囲を教えてもらっていたから余裕で全問正解を取った。
「一之瀬ちゃん、すごいね」
答え合わせのとき、後ろの席の優香が小さく声を添えた。帰ってきた答案にも赤ペンで「満点!すごいっ!」と書かれてあった。
「愛衣ちゃんっ」
休み時間になると菜摘が愛衣の席を訪れた。
「あのね、今回のことでいろいろ聞きたいことがあって……」
「聞きたいこと?」
前に悠馬が言っていたことか。委員長が何かしらの行動を起こそうとしているという、アレ。
「そう。LGBTとか、セクシャルマイノリティとか、いろいろ知りたいの。ほら、今、そういう人って、差別の対象になっているんでしょ?」
また差別か、と心の中でため息をついた。すべての人が差別を受けているわけでもないのに。愛衣の気持ちも置いてけぼりに、菜摘は意気揚々と続ける。
「ほ、ほらっ、やっぱり差別はダメでしょ? そういうのを知ることで、差別ってなくなると思うの」
それでね、と彼女は愛衣の机に両手を置いて顔を近づける。
「今ね、有志で学校内のそういったジャンルの研究会みたいなのを立ち上げないかって、友達と話しているところなの。もしよかったら、愛衣ちゃんも一緒にやらない?」
頬を紅潮させて話す菜摘は、これこそ最善の方法だと信じ込んでいるようだった。まるで宗教の信者みたい。正しいと信じたことを一切疑わない。
「だって愛衣ちゃん経験者でしょ?」
菜摘の無邪気さが怖くなった。経験者という意味がよく分からなかったし、研究会と言っても中学生だし有志だから、結局のところお友達ごっこで「差別はいけません」というくらいだろう。
「……遠慮しておくわ」
「どうして?」
「入る気もないし、そんなことしたって完全に差別なんかなくならないんじゃない?」
「うん、今はね……でも、諦めなければいつか必ず……」
「無理よ」
菜摘の声を遮る。思ったより大きな声が出たようで、クラス中がしんと静まった。
「……差別はなくならない」
菜摘が目を見開いて愛衣を見つめ、愛衣も自分で発した言葉に驚いていた。
放課後。憔悴しきった愛衣はふらつく足で図書室へ向かった。
「愛衣ちゃん先輩ッ!」
「よくぞご無事でッ!」
「きゃっ!」
戸を開いた途端、中から勢いよく文乃と鐘花が飛びついてきた。勢い余ってしりもちをついてしまった。それでも一年生二人は放してくれなかった。鐘花の長い三つ編みが首筋に触れてくすぐったい。
「文乃ちゃん……鐘花ちゃん……」
「一週間さみしかったですぅ!」
中から続いて音莉もぱたぱたと走って出てきて、ぎゅっと抱きしめられる。息苦しいけど、ぬくもりが懐かしい。
「あー! ちょっと音莉! 文乃ちゃんに鐘花ちゃんずるいっ! 部長の私を差し置いてっ!」
「早いもん勝ちでーすっ」
「だって風夏先輩、愛衣ちゃん先輩の家にお見舞い行ったんですよねー?」
「私たち行ってないですもん」
ねーっ と後輩たちは声をそろえて同意を求めた。
「あー、お前ら邪魔っ! はよ中に入れっ!」
悠馬に叱られてようやく解放される。
「変わってないだろ?」
「うん……全然変わってない」
悠馬の手を借りて立ち上がる。一週間しか離れていなかったのに、こんなに懐かしく思えるなんて。教室との温度差に愛衣も驚いていた。
「愛衣ちゃん先輩っ!」
荷物をテーブルに置くと今度は夜鷹が抱きついてきた。
「コラ夜鷹っ! 次私の番っ!」
「早い者勝ちでーすっ」
似たようなやり取りがまた始まる。ようやく風夏が抱きつく。まったくわがままで騒がしい部長だ。
「愛衣ちゃん復帰できてよかったよ~ このままどっか転校してっちゃうのかもってはらはらしてたんだよ~」
「そんな大げさな……」
「想像は大げさくらいがちょうどいいのっ」
別のテーブルで原稿用紙を広げていた花鶏も「一之瀬の事情は知らないけれど、一之瀬が嫌だと感じたのなら、それだけ怒って当然だ」と擁護してくれた。
クラスが居づらかったら図書室にいるといいと風夏が提案してくれた。
「なんだかね、隣のクラスなのにひどく壁ができちゃったみたいでさ、様子もうかがえないの。クラスの戸を開けるのも躊躇ったわ」
「そうね……でもやっぱり、クラスにも行くわ。兄さんもそれで安心すると思うから」
それから愛衣は悠馬から現在の先生たちの様子を聞いた。愛衣が驚いたのは、先生たちは今回の事件をいじめ問題として処理しようとしているらしいということだった。
「え、いじめ?」
「そう。愛衣はいじめられた側だ」
「ちょっと待って、何で私が?」
「そうしたほうが学校側も処理しやすいからだろう。いじめられていた者が我慢に我慢を重ねた結果、爆発して、いじめていた者たちを攻撃する……よくあるストーリーだ。親にも伝えやすい」
愛衣が学校に来ていない間に、いじめについてのアンケート調査が全学年であったという。今日の学級主任の授業での説教みたいなのはこれが原因か。
「確かに、愛衣のお兄さんのことが発覚してから、愛衣の周りでは些細だが嫌がらせはあっただろう」
悠馬に言われて思い出す。愛衣は全く気にしなかったが、確かに机に小さく「キモい」とか「死ね」とか書いてあった。けどあんな安っぽい悪戯をいじめだと騒ぎ立てるのは、見当違いな気がした。
「でも、そんなの学校側の言い訳にしか聞こえないよ。実際には愛衣ちゃんはいじめられてないし、愛衣ちゃんが抱えているのは、もっと大切なことなのに……」
お気に入りの席で原稿用紙を広げていた愛衣は、風夏を見上げた。
「風ちゃん……兄さんたちが異常じゃないって思う?」
以前風夏は、愛衣が恋愛について調べていたときには「一般的には差別だったり、気持ち悪いだったり、異常だとかって思う人は多少なりともいると思う」と言っていた。今の風夏はテーブルにもたれかかって「んー」と考えている。
「んー、そうね。目の当たりにして、こんなもんかってわかったら、そんなに異常とも思えなかったかな。普通の恋愛よ」
なんともあっけらかんとした答えが返ってきた。
「兄さんたちは悪くないわ」
「そうだ、一之瀬。お前だって悪くない」
愛衣の隣で夜鷹がポツリと零した。
「誰も悪くない……それ故に誰もが悪い……」
誰も何も言えなかった。
「ジェンダーなんて特にややこしいジャンルなんだから、何が起こったって文句は言えないわ。学ぶ機会を失ったって気分ね。そうした恋愛ごとなんて、私たち中学生からしたら一番身近な問題ごとなのに。あー、やだやだ。まいっちゃうわ。まだ私たち花の中学生だっていうのにっ」
「自分のこと花の中学生なんて言うやつはたいてい精神年齢はおばさんだからな」
「うるさい花鶏っ! だまってらっしゃいっ!」
「声がうるさいんだよ」
風夏と花鶏のやり取りで、しんみりした空気が一掃される。するとロッキングチェアに座っていた音莉がじろりと風夏たちを睨んだ。
「ちょーっと先輩方ぁ? 静かにしてくれませんかぁ? 眠れないんですけどぉ~」
「音莉ちゃん先輩、また寝ちゃってたんですか? これ、絵本ですよね?」
「本に眠りはつきものなのよ、文乃ちゃんっ」
「あ、ぼく資料探さないと……あだっ!」
「もーう、またぶつけたんですか夜鷹先輩? 不注意もいいとこですよ」
「だってぇ~」
「お前ら、いい加減にしろよー 今月の原稿締め切りいつだったっけー?」
「え? あ! 今週っ!」
各々作品に取り掛かるが賑やかさはなくならない。騒がしいけど、教室とは違う。居心地がいい騒がしさ。思わず泣きそうになるのを堪えた。最近泣いてばっかりの気がする。
「あ、愛衣ちゃん先輩が笑った~」
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