21話
愛衣は小奇麗な格好に着替えて、髪を櫛で梳いてから部屋を出た。雪彦はリビングでお茶を飲んでいて、愛衣が降りてくると「さっきはごめん」と頭を下げた。
「謹慎処分中だって?」
「はい。まぁ、今日で終わるんですけどね」
雪彦は「よかったね」と言った。良いのか悪いのか愛衣にはよくわからない。
ふと、雪彦の額が目に入った。前髪でほとんど隠れているけれど、白いガーゼみたいなものが貼ってあるように見えた。訊いてみると「転んで棚にぶつけた」と何事もないように答えた。
夕方になると雪彦は帰って行った。
吹雪が玄関まで見送りに行ったときは愛衣もちょっと驚いた。
昼間に二度も寝てしまったせいで、日付を越えても愛衣はなかなか寝付けなかった。時計の針は午前一時を指している。
「起きてたのか、愛衣」
喉が渇いて水を飲みに来た愛衣に、部屋から出てきた大樹が声をかけた。
「眠れなくて。兄さんも?」
「来週からテストだから勉強。数学、今度こそやばい」
いつもお風呂に入ったら兄弟の中でも一番早く寝てしまう大樹も、テスト前には勉強で遅くまで起きていたりする。
「雪彦、今日来たんだってな」
コップ一杯の水を一気に飲み干してから大樹が聞いてきた。
「うん……いろいろ話したの。今回の事件のことも。全部」
もう愛衣の中で雪彦の存在は大きくなっていた。もう一人の兄のような感覚だった。彼の弱いところを見たからだろうか。
「雪彦、今日部活に来なかったけど、元気そうだったか?」
「え?」
愛衣ははっとした。そういえば昨日は木曜日だ。謹慎でずっと家にいたせいで、愛の中の曜日感覚が狂っていた。そうだ。今朝、嵐志たちを学校へ送り出したのに忘れていたなんて。
「雪彦さん……学校、休んだの?」
雪彦は平日の昼間なのに、一之瀬家にいたのか?
ふと、昼間に見た雪彦の額のガーゼが思い出される。転んでできたって言っていたが、嫌な予感がしてならなかった。
「兄さん……雪彦さんって、もしかして虐められていたとか」
「虐めか。それならまだ楽だったかもな」
大樹の声が暗く落ちる。
「楽って」
「虐待だ」大樹が苦しそうに顔を歪めた。「……虐待されている」
愛衣の目の前が真っ暗になった。
親が不在がちだったとしても、周りとのライフスタイルが異なっていたとしても、兄弟がいて、尊重しあえて、愛されている。自分がどれだけ恵まれた家庭に生まれたのかを実感してしまった。そして『恵まれた』部分に嫌悪した。これじゃ、何も言えない。ただ憐れんでいるようにしか聞こえない。
虐待の事実を伝えられていない愛衣は、まだ深いところまで信頼されていないのかもしれない。思わず自分の体を抱きしめた。震えているのは寒いからだけではない。「幸せだ」と答えた雪彦の声が愛衣の体を縛り上げていた。
「どうして……」
愛衣の声が零れる。
「愛衣、大丈夫か」
大樹が肩を掴んで揺さぶる。
「どうして……どうして雪彦さんが傷つかなきゃいけないの?」
「愛衣……」
「兄さんと付き合っているから? 同性愛だから? そんなの雪彦さんの自由なのに、なんで、好きになることを他の人に決められなきゃいけないのっ? 雪彦さんはっ、兄さんと幸せになっちゃいけないっていうのっ?」
「愛衣っ」
大樹の声が大きくなって、肩を両手掴まれて強く揺さぶられた。はっと我に返ると、苦しそうな表情の大樹の顔が視界に入る。大樹の指がそっと愛衣の唇に当てられた。
「混乱するのもわかるけど、今は夜だ。もう少し声を静めて」
「……ごめんなさい」
大樹に促されて椅子に座る。大樹も隣に座り愛衣の手を取った。
「愛衣、虐待とかネグレクトとかってのは俺たちが経験したことがないものだ。落ち着いて、聞いて」
大樹がゆっくり諭し始める。
「雪彦が抱えているものは受け入れられる人もいれば、受け入れられない人もいる。未だに病気だって言ったり、偏見されたり……それがたまたま雪彦の親だった」
見たこともない雪彦の親に対して、愛衣の中に得体のしれない感情が噴き出してきた。苦しい。悔しい。悲しい。虚しい。それらの感情がどろどろと体中で渦を巻いているようだった。
次に ざわり と出てきたのは、大樹への怒りだった。
「……兄さんはそれで片づけるの?」
「そういうわけではない」
「そう言っているようなものじゃないっ」
愛衣は大樹に向かって声を荒げた。
「偏見しているのがたまたま雪彦さんの親だっただけだってっ、そんなの言い訳にしかならないわっ、家族なのに、暴力なんて……それなのに、兄さんは他の家のことだからって、何もしないでいるのっ?」
大樹の顔がくしゃりと歪んだ。
「そんなの、俺にできることなんて……」
愛衣は思わず口を閉ざした。こんなにも苦しそうな大樹の顔を、見たことがなかった。大樹の口から苦しそうな声が零れ落ちる。
「俺も、雪彦のことは最善は尽くす。けれどっ、それでもっ、どれが最善の策なのか、わからないんだ……」
大樹の首ががっくりと項垂れた。
「それでも……雪彦さんは何も悪いことしていないのにっ」
「……そうだな」
大樹はそれ以上話さなかった。諭すことに関しては粘る大樹にしては珍しい。大樹も知らなかったのだ。ショックが大きいのは大樹のほうかもしれない。
守りたいだなんて、なんて軽々しく口にしてしまったのだろう。後悔したって遅い。
「もう寝ろ。明日……今日か。学校行くんだろ」
頷いて立ち上がる。リビングで寝ていた桃子を抱き上げて部屋に向かった。桃子は一瞬暴れたが、抱き上げたのが愛衣とわかるとおとなしくなった。
桃子を抱いたままベッドに腰掛ける。桃子は布団の上で毛づくろいをしてから丸くなった。丸くなった背中を撫でて愛衣も布団に入る。目からこぼれた雫はしばらく止まらなかった。
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