20話

 桜子が吠えている。

 勉強中の手を止めて外を覗く。あいにく玄関は見えないが、吠え方からして誰か来たのだろう。幸い、今日は恭平が居てくれるおかげで慌てて愛衣が出ていくことはなかった。この日も冷たい風が吹いていた。

 勉強机に戻る。悠馬や風夏が持ってきてくれたプリントを参考に、自力で勉強を進める。あの慌ただしい日々が嘘のように穏やかだった。

それも今日で終わる。謹慎期間が終わるとなると、寂しいものがある。夏休みもゴールデンウィークもこんなにゆっくりしたことがなかったし、クラスにも行きたくなかった。怖いとか、そういうものはなくて、ただただ行きたくなかった。でも部活には行きたい。悠馬と風夏以外の部員たちに会いたかった。

数学のノートを閉じる。今日の分はおしまい。ノートをしまうと次は原稿用紙を出す。最近は特に調子が悪い。書いても書いても、どれも自分の言葉じゃないような気がしてならない。

私の言葉というのは、一体何なのだろう?

今までの言葉は、本当に私のものだった?

私自身の言葉。言いたいことが、見当たらない。

ベッドに寝転がって目を閉じる。すべての感情を脱ぎ去ってしまったら、私の言葉は見つかるのだろうか。悲しみとか、怒りとか、憎しみとか、愛情とか。うんざりするほど肌に張り付いて、愛衣を象っているんじゃないか。

猫のクッションに顔を埋めていると、桃子がベッドの上に飛び上がってきて にぁ~ と鳴いた。

「なに~桃子。クッションに焼きもち?」

 抱き上げてふかふかのおなかに顔を埋める。ふしゅふしゅとした毛並みがやけに心地よかった。


目を開くと、布団もかけずに眠っていたようだった。桃子はもういない。

咽喉が渇いていた。猫のスリッパに足を突っ込んで、部屋を出る。十一月も後半になってからというものの、廊下も涼しい。リビングから恭平の声が聞こえてくる。やっぱり誰か来ているのか。そこから吹雪が逃げる等に出てきて、愛衣の足に擦り寄ってくる。

「吹雪、誰か来てるの?」

 にゃーぅ。

 頭を撫でてもらって満足したのか、吹雪は階段を上って行った。

「お父さん、誰か来てるの?」

 リビングを覗いた瞬間、愛衣の思考が停止した。客人とばっちり目が合ってしまった。客人も桃子を膝の上に乗せたまま、気まずそうに会釈した。

「なっ……なんで雪彦さんがきてるんですかぁぁっ!」


 思わずその場から逃げてきてしまった。部屋着のままだったのもある。けれどまさか雪彦が来ているなんて思わなかった。顔中がかぁっと熱くなって、愛衣は恥ずかしさに顔を両手で覆った。

「愛衣くん?」

 扉越しに雪彦の声が聞こえた。心臓が跳ねる。

「ええと……大丈夫?」

「大丈夫じゃないです」

「ごめん……」

「雪彦さんのせいじゃありませんよ。私が家だからって油断していたのが悪いんです」

 ずるずるとその場にしゃがみ込む。近くにあった猫のクッションを手に取ってぎゅっと胸に抱く。当たり前だけど、カフェの時みたいに会話が続かない。

「散歩していたら、偶然恭平さんに会って。それでお邪魔した。話も、恭平さんから聞いた…………愛衣くんに辛い思いをさせて、ごめん」

 また心臓が跳ねた。ばくばくと脈打って痛くなって、呼吸が速くなる。何とか言葉を絞り出すけど、小さくて聞こえているかどうかわからなかった。

「兄さんと雪彦さんのせいじゃありません」

「……そうだね。誰のせいでもない」

 誰のせいでもない。そう、誰のせいでもない。たまたま悪かっただけ。それでもまた涙が溢れる。拭っても拭っても止まらない。

「でも嬉しくて仕方ないんだ。俺たちのことで、そんなふうに怒ってくれたり、受け入れてくれたりしてくれて。今までそういうことされたことがなかったから」

 雪彦の声を背中で受け止める。泣いているのが聞こえないように、必死だった。

「大樹にも感謝している。守られたこと、なかったから。愛衣くんにも、見えないところで助けられて……それが心地いいって思っている自分がいる」

「守れてません。私は言われたことにかっとなってクラスメイトを傷つけた……何もできていません」

「深く考えないで。俺がそう思ったんだから、そういうことにしておいて」

「……わかりました」

 カーテンを閉めているせいで部屋が暗く感じた。明るいよりはいい。余計なものが目につかない。雪彦と二人だけなんて、いつぶりだろう。ここのところ学校でいろいろありすぎて、二人で出かけたのが遠い昔のように思えた。

 しばらく沈黙が続いて、雪彦が先に口を開いた。

「愛衣くんはね、理解者なんだよ」

雪彦の言っていることがわからなくて「理解者……」と繰り返す。

「そう。実際にね、そう呼ばれているんだ。当事者じゃないけれど、俺たちのことを理解してくれる人たちのこと。そんな人が一人でもいてくれたら、俺はとても心強い」

 理解者。当事者とはまた別の存在。愛衣はそれを声に出さずに何度も暗示をかけるように繰り返した。

私は、理解者。兄さんや雪彦さんたちの理解者。

でも理解者っていうのは、ただ知っているということとは違うこと?

「私は、雪彦さんと兄さんのことを守りたい。でも結局なにもできていない。暴力はダメだって兄さんに言われてきたのに……」

 ふるふると首を横に振る。大樹にいつも言われている。特に、友達と喧嘩して帰ってきたときの嵐志によく言い聞かせている。いいかい嵐志。いくら自分が正しいと思っていても、相手を傷つけてはダメだ。自分までも傷ついてしまうからね。

「時々、自分が自分でなくなるみたいで怖いんです。感情に任せたら、自分でも何をするのかわからない。そんな自分が怖いんです。でも傷つけてもいいって思っている自分がいる……そうでなきゃ大切なものを守ることができない。そう思っている私もいるんです」

 二重人格みたいな、そんなはっきりしたものではない。けれど、明らかに自分の中の黒い部分が勝手に体を動かしているみたいな感じがするのだ。そしてその黒い部分の自分が何をするかわからない。そんな恐怖がある。耐えるようにクッションに爪を立てた。

「そうやって、全てを断ち切ってまで守るっていう覚悟があるだけでも、すごいと思うけど。何かを投げ打ってまで、そんな覚悟、俺にはない。誰も理解してくれなくて、ずっと諦めていた」

 雪彦の声が胸に落ちる。誰も理解してくれない、という言葉が耳に残った。それはどれほど苦しいものなのだろう。雪彦と同じ気持ちになろうと思っても、簡単にはなれるわけがない。それでも雪彦は優しい声で愛衣に語りかける。

「ありがとう。愛衣くんの行動のおかげで、味方は大樹だけじゃないことがわかったよ」

 クッションに押し当てていた顔を上げ、扉を見つめた。

「今まで……信じてくれてなかったってことですか?」

しばらくしてから「……ごめん」と小さく聞こえた。愛衣の足場ががらがらと崩れ落ちるかと思った。

「俺が抱えていることは簡単に受け入れられないことだって、自分でもわかっていたから。自分自身の存在を、まるでなかったみたいに言われたのなら、なおさら」

 扉の向こうから聞こえてくる声に耳を傾ける。

「だから、最初は愛衣くんたちのことも警戒していた。いくら恋人の兄弟であっても、いつか本音が出てくるんじゃないかって。君たちにはわからないだろうなって」

 アイクンタチノコトモケイカイシテイタ。

 キミタチニハ、ワカラナイダロウナ。

 一息ついてから、また雪彦は続けた。

「君たちの言葉はとても愛に満ち溢れている。それが時々、とても痛い。キラキラした言葉が眩しすぎることもある。それに触れるのが怖かった。今までずっと弓道にしか費やしてこなかったから。自分を肯定してくれる人が、こんなに近くにいるなんてって、恭平さんから話を聞いて、思ったんだ」

 自分以外信じられなかった雪彦にとって、愛衣が起こした行動に意味があった。そのことに愛衣は扉の内側で固まった。背を向けていた扉に向き直っておそるおそる雪彦に尋ねる。

「信じてくれているって、思ってもいいですか?」

 雪彦は「そうだね」と返してくれた。

「雪彦さん、私は、雪彦さんに会えて幸せです。兄さんの大切な人ですけど、私にとっても大切な人です。まだ会って半年もたっていないけれど、私も嵐志も結衣も雪彦さんのこと大好きなんです。なので、雪彦さんのことだって、家族と同じように守りたいんです」

 まるで告白みたいだと言っていて感じたが、後に引けなかった。小説は間違えたら消して書き直しができるけど、今回は書き直しができない。勢いって怖いと後になって顔を赤くした。

「今までごめん」

 愛衣には一つ、聞いておきたかったことがある。

「雪彦さんは今……幸せですか?」

 その問いを聞いた雪彦は答えなかった。愛衣はその答えをじっと待った。

やがて雪彦は小さく「……うん、幸せ」と答えた。

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