19話
体が重い。寒いからかもしれない。十一月に入って、木枯らしが吹き始めていた。机の上の時計を見るといつもと同じ午前五時。カーテンの向こうが暗かった。
起きようとしても、体を半分起こしたところでだるくなって動けなかった。動くのを拒否しているみたいだった。
「……ごはん……」
無理やり布団から抜け出して、薄桃色の肩掛けを羽織る。冬用に出してきた猫のもこもこのスリッパに足を突っ込む。
階段を下りていくとキッチンから音がしていた。足を止めた横を桃子がすり抜けていく。
「……結衣、」
「あ、あいお姉ちゃん!」
キッチンでは結衣が、オレンジ色のエプロンをつけてせわしなく動き回っていたのだ。結衣は愛衣を見るなり溶き卵の器をテーブルに置いて、愛衣に走り寄ってくる。
「ダメだよ、寝てなくちゃ!」
「え?」
「今日はゆいが朝ごはん作るのっ」
「え、でも……」
「いーからいーからっ! ほら、寝ててーっ!」
結衣に押されてキッチンを追い出される。なにをあんなに張り切っているのだろう。足元に桃子がすり寄ってくる。ご飯の催促だ。
「わかったわかった」
桃子の頭を撫でてから、とりあえず顔を洗いに洗面台に向かった。
鏡に映った自分の顔をあまり見たくなかった。昨日は帰ってからご飯も食べずにずっと布団の中に潜っていて、いつの間にか眠っていたらしい。幸い謹慎処分を受けて時間はたっぷりあるから、あとでゆっくりお風呂に入ろうか。
再びキッチンに向かうと、結衣はちょうど卵焼きを二つ作り終えて、紅鮭をフライパンに並べたところだった。
「あ! お姉ちゃん!」
「桃子と吹雪にご飯やるだけだから。それにね、なんだか目が覚めちゃったの」
それに応じるように吹雪もキッチンにやってくる。
「むー……それならいいけど」
不服そうな結衣の頭を撫でる。
「ありがとう。結衣の朝ごはん楽しみにしてるよ」
「まかせてっ!」
キャットフードとおじやをベースにしたキャベツと鶏肉の煮たものを吹雪と桃子にそれぞれ与える。ちょっとでも体を動かすだけで、先ほどのだるさも薄れてきた。
猫たちのうち、先に平らげるのはたいてい吹雪。ほっそりしたロシアンブルーの体系とは裏腹に、吹雪はよく食べる。そしてまだ余っている桃子の分までも手を出し始める。
「ダメよ。それは桃子の分」
吹雪は動物の中で一番初めに一之瀬家に来たためか、少しだけ態度が大きい。女の子だから気分は女王さまみたいなものだろうか。来たときにはまだ生まれていなかった嵐志や結衣はもちろん、世話をしている大樹はもう主従関係が成り立っている。
吹雪は愛衣に叱られると不機嫌そうに尻尾を振りながらリビングへと入っていった。一方、桃子は食べるのが遅い。その代わり顔を突っ込むようにして綺麗に平らげてくれる。お嬢さんみたいに愛衣は思っている。桃子は今日も綺麗に完食してくれた。
にゃー。
「はい、お粗末さまでした」
桃子を抱き上げてリビングに行くと、吹雪がソファーに寝転がり、くあっと大きなあくびをしていた。
愛衣も吹雪の邪魔にならないようにソファーに座ると、桃子のブラッシングを始める。そろそろ冬毛に生え変わるころだった。こうしているだけでも気分が少しばかり晴れた気がする。キッチンは結衣に任せて、ゆっくりしていよう。
「たっだいまーっ!」
嵐志の大声が響いた。どうしてか、いつもは迷惑極まりないこの大声も、今の愛衣はほっとしていた。
「あれ、姉者が起きてるー?」
廊下を走ってきて、勢い余って嵐志とぶつかりそうになる。冬用のジャージの上に赤いウィンドブレーカーを羽織った嵐志は、少し火照った頬を手のひらで扇ぎながらちょっと驚いた顔をして愛衣を見上げた。
「起きてちゃ悪い?」
嵐志は「そんなことないけどー」と言いながら桜子のごはんを持って、玄関に走って行った。
「お、愛衣、起きてたのか」
「それ、嵐志にも言われたんだけど」
「ゆっくり寝ていればよかったのに」
「目が覚めちゃったの」
桃子を膝の上から降ろす。
「朝ごはん、兄さんが結衣に頼んだの?」
「いや? 結衣な、昨日俺に言ってきたんだよ。『あいお姉ちゃんの代わりに明日の朝ごはん結衣が作る』って。そしたら、俺より早く起きてて、俺もびっくりしたよ」
結衣が朝ごはんを作ってくれたのは初めてだった。今まで結衣は愛衣より早く起きられたことがなかった。
「あいお姉ちゃぁん……」
結衣が泣きそうな顔をして愛衣の前にやってきた。
「焦げちゃったぁ……」と真っ黒になった紅鮭を見せる。なんだかおかしくて、思わず愛衣は笑ってしまった。
「ごめんなさぁい」そうやって謝る結衣が少しだけ頼もしく思えた。
「大丈夫よ。ありがとう。今度、焼き方教えてあげるね」
結衣が作った卵焼きはちょっと冷めていて、紅鮭は焦げていたけれど、美味しかった。
全員を学校へ行くのを見届けてから、愛衣は動きやすい服装に着替えた。吹雪と桃子はリビングでごろごろしている。木箱から出してやった梅吉も、ソファーの隅で丸くなっていた。
洗濯物も、食器洗いも、大樹たちが全部やって行ってしまったおかげで、愛衣のやることがなくなってしまった。
「桜子ー」
庭へ繋がるガラス戸を開けて桜子を呼ぶ。足をタオルで拭いて、家の中に入れてやる。今日も木枯らしが吹いて、小さなつむじ風ができていた。
十一月に入ってから暖房を入れていたリビングは、ちょっと気を抜くとうとうとしてしまう。桜子もお気に入りのクッションに顔を突っ込んでごろごろし始めた。毎朝嵐志たち走りに行っているおかげで、肥満になることがない。
溜めていた本でもと読んでいたが、それも全部読み終わってしまった。何かすることを探した挙句、学校の宿題の片づけくらいしか思いつかなかった。
お昼は残り物で作ったかぼちゃとベーコンのサンドイッチを食べる。一人で食べるごはんは、桃子たちがいたとしてもやっぱり寂しい。こういうときに、嵐志のあの大きい声が欲しくなる。
挽いたコーヒー豆にお湯を注ぐ。コーヒーを淹れていると、雪彦とお茶をしたことが思い出された。あの時は楽しかった。大樹以外で年上の男の人と出かけることなんて、今までなかったし、普段話すよりも親密になれた気がする。もしかしたらあの時、雪彦と出かけなければ、今みたいなことは起こらなかったのかもしれない。あれが、ある意味引き金になってしまった。ふと、そんな風に思ってしまう。
桜子がリビングで吠えた。ソファーに上ろうとしたところで吹雪に怒られたらしい。桜子はしばらくソファーの前をうろうろしていたけれど、しゅんと項垂れてカーペットの上に寝そべった。
「なに? 吹雪と桜子、またやってるの?」
吹雪は桜子に対して厳しい。まさに女王さま。桜子はいつも頭が上がらない。かまってくれる嵐志がいれば、桜子も吹雪と騒ぎにならないで済むのだけれど。この騒ぎがあると桃子はその場から逃げて、甘えた声を出してすり寄ってくる。桃子を抱き上げて仲裁に入る。人間の兄弟が居なくとも、家の中は騒がしい。
いつもはコーヒーもカフェオレかそのまま小豆を入れるかで飲んでいたけれど、気分を変えてホイップクリームを浮かべてみた。
桃子たちのごはんも済ませてから、梅吉を木箱に戻す。
「もうすぐ結衣が帰ってくるからね、梅吉さん」
どうして梅吉さんと呼んでいるのか、結衣にもよくわかっていないらしい。長年呼んでいるせいで、初めは違和感があったものの、愛衣もすっかり慣れてしまった。
一休みでソファーに座ると吹雪が膝の上に登ってきた。気難しい女王さまに、愛衣は気を許されている。吹雪の背中を撫でる。思えば、最近こんなに家でのんびりしたことがなかった。
目を覚ますと温かい毛布が体に掛けられていた。いつの間にかソファーでうとうとしていたらしい。膝に乗っていた吹雪もいない。
「毛布、持ってきたっけ……?」
ぼんやりとした目で体を起こす。時計を見たら三時過ぎたところだった。昼ご飯を食べたのが一時頃だったから、二時間も昼寝していたようだ。
「愛衣」
懐かしい声に名前を呼ばれ、反射的に顔を上げる。キッチンから父の恭平がこちらを見ていた。シャワーを浴びた後なのか、短い髪が濡れている。
「お父さん……!」
毛布を跳ね除けて駆け寄ると、大きな体で抱きしめてくれた。シャンプーの匂いと、懐かしい父の匂いが愛衣を包んだ。
「ぐっすり寝てたから起こさなかったぞ。シュークリーム買ってきたぞ。愛衣も食うか?」
「食べるっ!」
手先が不器用な恭平は紅茶を淹れるのが下手だからいつもティーバッグの紅茶になる。その代わりに、シュークリームの味を凝って買ってきてくれた。チョコにカスタード、クッキーシュー、抹茶にマロン、リンゴとシナモン……愛衣はリンゴとシナモンのシュークリームを選んだ。
「珍しいな、愛衣が学校休んでるなんて」
一口かじったところで、喉に詰まる。言葉も簡単に出てこない。紅茶でシュークリームを流し込んで、口を開いた。
「お父さん……その……雪彦さん、覚えてる?」
「あぁ。大樹と付き合っているって子だろ? 弓道が上手いって子」
恭平は一度雪彦に会っている。偶然食事に招待した日に、突然帰ってきて鉢合わせしたことがあるのだ。そのときに大樹と付き合っていることも告白済みだった。恭平はあっさり受け入れてくれた。
「……兄さんと雪彦さんのことで、ちょっと学校で、いろいろあって……」
「からかわれたのか?」
「からかわれたっていうか……うん、嫌なこと言われて、私……クラスの子に、椅子投げちゃった……」
怒られるか、嘆かれるか、何を言われてもおかしくないと覚悟はしていた。しかし恭平はきょとんと愛衣を見つめた後、盛大に吹き出して大爆笑し始めた。
「あっははははははははははははははははははははっ! なーにやってんだ愛衣! また面白いことやらかしたなぁ! はははっ! 笑い止まらん……ぶはっ!」
「お父さんっ! 笑い事じゃないのっ!」
バンッ、とテーブルを叩く。笑われるなんて思ってもみなかった。愛衣も恭平の爆笑にどう反応していいのかわからず、思わず声を上げてしまった。けれども恭平はまだ腹を抱えて笑っている。
「やー、悪い悪いっ、怒るなって! ごめんごめん……ひひっ、愛衣が椅子投げたって……やるようになったなぁー、女の子って怖い」
「……お父さん」
怒りを通り越して呆れてしまった。娘が学校で大問題を起こしたというのに。
「あー……すまん。しかし、またすごいことやったなぁ」
「大笑いしたお父さんもどうかと思うけど……」
シュークリームにかぶりつく。カスタードが程よい甘さ。シナモンの匂いが口いっぱいに広がって、そのあとにリンゴの爽やかな甘さが続く。幸せな味で胃の中を満たせば、少しは楽になるかともくもくと食べ続ける。
「笑って悪かった。愛衣も大変だったな」
大きな手が愛衣の頭に置かれた。分厚くて大木の皮みたいにごつごつした手のひらだけど、温かくてそれだけで安心する。
「……大変だったのよ」
「うん。ごめん。ちょっと笑いすぎた」
「自覚あったのね」
「まだ腹痛い」
恭平はカスタードと生クリームが入ったシュークリームを二口で平らげた。
「愛衣にも思うところはあるだろうが、今は何もしないでいい。自分の好きなことをしなさい」
「ごめんなさい……」
「愛衣が謝ることじゃない。それに、学校は生命の安全を保障してくれない。余計な善意は心を確実に殺していくぞ。もし愛衣が行きたくないのならば、そんなところ行かなくてもいい」
恭平は逃げ道を必ず用意してくれる。それは有難いけれど、今の愛衣にはいらなかった。
「うん……考えてみる。でも、逃げるのはいや」
「無理するなよ」
もう一度愛衣の頭を撫でて、それからまた抱きしめてくれた。
しばらく愛衣は部屋で原稿を進めていた。ここのところ書くペースが遅くなったような気がする。原稿用紙を前にしても、なかなか進まない。くるくるとシャープペンシルを回すけれど、言葉が出てくるわけでもない。ベッドにダイブする。頭がグルグルして、書けそうにない。苦しい。息ができなくなるみたい。溺れてしまう感覚だった。
玄関のチャイムが鳴って、桜子が吼える声で愛衣は目を覚ました。また眠っていたようだった。窓からは夕陽の茜色が差し込んでいる。肩掛けを羽織って玄関まで急ぐ。
「愛衣ちゃーん!」
玄関を開けた途端、明るい声が風と一緒に飛び込んできた。制服の上にダッフルコートを羽織った風夏と悠馬が立っていた。
「悠馬……風ちゃん……」
「愛衣ちゃん元気そうね!」
風夏が勢いよく抱きついてくる。
「愛衣ちゃんがいなくてさ~、文芸部まるでお通夜みたいな空気だよぉ~」
「そうなの? 一人いないだけで?」
「部員が少ないからこそだね! あ、そうそうこれ差し入れの本。あと、給食のプリン!」
風夏から紙袋を受け取る。プリンは二つ入っていた。風夏が自分の分のプリンもあげると言って入れたそうだ。鞄に入れてきたのだろうか。紙袋は少しぐしゃぐしゃになっていた。
「あ、ありがとう」
「俺からはコレ」
悠馬が差し出したのは授業プリントをまとめたファイルだった。
「ありがとう、悠馬」
悠馬は黒縁の眼鏡を押し上げて「どうってことない」と首を振った。
「あれから、クラスがちょっと騒がしくてな」
悠馬が気まずそうに口を開いた。クラスと聞いて愛衣も緊張する。
「クラス内で、差別反対とか、ジェンダーとかセクシャルとか……そんな類の話題でざわついている。ホモだとか、レズだとか、そんな会話も聞こえてきた。あと、委員長が……」
「なっちゃん?」
「さっき言ってた『差別』に対して過剰反応してさ。なんか、運動起こそうとしている」
菜摘は正義感が強い。きっと何かしらの行動を起こすだろうと、愛衣も予感はしていた。あれも差別、これも差別、と平等になるために過敏になっていると、悠馬はいう。菜摘の周りの女子たちもきっと彼女に影響されるだろう。それは時間の問題だった。
「こんなことで、解決できるわけないのにな」
悠馬の隣で風夏も頷く。
「ジェンダーとかって私も知らなかったことだったから、ちょっと調べてみたんだけど……あまりよくわからなかった。でも……いけないことじゃないことは分かった。でも過敏になりすぎるのも、なんか違う気がする。私だったら、かえって居心地が悪くなっちゃうかも」
そこまで言うと、風夏は頭をぶんぶんと左右に振った。
「あーもう! 難しい話はやめっ! 今度、みんなでお茶しよっ! 音莉や文乃や鐘花も誘って! 私の家は……散らかってて無理だな……どっか出かけるのもいいし。もちろんお小遣いで行ける範囲ね!」
くるくると表情が変わる風夏がいるとその場が明るくなって、ぽかぽかしてくる。すごいなと感心してしまった。
二人が帰ったあと、リビングのテーブルに荷物を置く。自分が起こしたことの飛び火。それはいいことなのか悪いことなのか。考えても仕方ないことなのに、また頭の中を巡る。
「だめだめっ、弱気になっちゃダメ」
頬をぱしぱしと叩いていると桜子と目が合った。何してるの? みたいな顔で愛衣を見ていた。
「なんでもないよ」
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