第12話

 息切れして少女が立ち止まった。

「もう終わりか?」 

 青年が言う。

「いいえ。終わらない。まだまだ」

「同じことを繰り返しているぞ」

「違うわ。あなたには見えないの?」

「俺には何も見えない。でも……」

「でも……何?」

「君の見ているものの名前は知っている」

「……そう」

 少女はにっこり笑ってまた走りだす。

 少女は知らない。でも、青年は知っている。少女の走る方角の反対、常に少女の背中にある夜の空が、次第に明けてゆく。

 もう駄目だといって線路上に少女が倒れ込んだときには、完全な朝がやって来ている。

 その時には、少女も気付いている。己の頬を照らす朝の光を。

「夜が明けたわ!」

 少女の声にはまだ元気が残っていたが、もう体を起す気力はない。

 青年は身軽にホームから線路上に着地すると、少女のもとに駆け寄った。

「よくやるな……」

 呟いて、青年は軽々と少女を抱き抱え、地をひと蹴りしてホームに戻った。

 ベンチに寝かされた少女は新たな声を聴く。

『間も無く、一番ホームに汽車が参ります!』

 少女の耳には他にも人の声が聞こえる。幾人ものさざめき。忙しない、靴の音。

 青年が少女の顔を覗き込んでいる。

「どうして? 一体どうなってるの?」

「動きだしたのさ」

「動きだした? 汽車はまだ来てないのでしょう?」

「この駅が動きだしたんだ。終着駅という名の駅をようやく過ぎたんだよ。君と俺を乗せて……」

「じゃあ……」

「そう、この駅は終着駅じゃなかった。そう簡単に終着駅になんて行けるものじゃない。君はまだ終着駅に着いた訳じゃない」

 高い碧空が眩しくて、少女は眼を細める。

「さあ、これを飲むんだ」

 青年は少女の体を起すのを手伝って、瓶に入ったジュースを手渡す。

「これは?」

「あそこで配っている」 

 青年が顎をしゃくった方へ目をやると、ホーム内で声を張り上げながらワゴンを押している売り子の若い女性が目に入った。彼女が押すワゴンには、今少女が手にしているのと同じジュースがずらりと並んでいる。

「ようこそようこそ旅のお方! 今日という日にこの駅に、降り立つあなたは幸いです! 満を待してお届けします。みんなが望んだ新商品! 今日は無料でお配りします! さあさあどうです大サービス! 一度飲んだら忘れられない、夢の喉越し夢の味……」

 ホームの端から端まで響き渡るような、女性のよく通る声で語られる小気味の好い口上だった。

「これって……」

 少女は青年の顔を見つめる。

 青年は少女の言わんとすることを了解したように、小さく何度か頷いてみせた。

 少女はパッと明るい笑みを見せ、青年から手渡されたジュースを飲む。不思議な味のするジュースだった。今までに味わったことのない、味。

 少女は急速に疲労感が減退してゆくのを感じた。

 少女は背中を支えてくれる青年の腕に軽く触れてから「大丈夫」と笑って自分の足で立ち上がった。

 そこには、活気に満ち溢れた駅があった。

 全てが巻き戻しされたような駅の風景がある。いろんな人がいる。使い古した大きな旅行鞄がガタゴトと音を立てて引きずられてゆく。少女はその光景を眼で追う。眼で追った先に、男の子がプロペラのついた模型の飛行機を空に掲げて走る姿があり、また少女はその光景を眼で追った。自分の持つ赤いガス風船を満足げに見上げながら、母親に手を引かれて歩く女の子がいる。

 次々に移り変わって行く場面がそこにはある。

 この一瞬に全てを見尽くすことなんてできない!

 と、少女の中でそんな声が弾けた。

「私達、永遠の夜から抜け出せたのね!」

「らしいな」

 少女は青年の手をとって飛び跳ねている。

「最高だわ! 終着駅はまだだったなんて!」 

 青年は苦笑して、されるがままになっている。

 一番ホームに汽車が入って来る。

 少女はまっ先に飛び乗り、窓際の席に腰掛けた。

「あなたも早く乗ったら?」

 少女は車窓から顔を出して、まだぼんやりとホームに立っている青年に呼び掛ける。

 その時の青年は、不思議なくらい自然に笑っていたのだ。

「トラベルバックは持ったかい?」

「え……?」

 少女が坐る椅子の両脇には何の積荷もない。

「私バックをどこかにやってしまったわ!」

 もう一度少女が顔を出したときと、発車のベルが鳴るのとはほぼ同時だった。

「……!」

 ガクンッ! と、全体が大きく動いて少女は危うく窓から落ちそうになった。窓枠を掴んだ両手で踏ん張って、なんとか車内の座席に落ち着く。

 一息ついて顔を上げたとき、過ぎてゆく窓の向こうの景色の中に、青年の笑顔も過ぎてゆくのを少女は眼にする。

 少女は慌てて窓に乗り出した。

「どうしてッ!? どうしてなのッ!」

 青年はもう遠い。まだ間に合う距離なのに、戻れないという予感がこんなにも遠くしている。

 声が届かない。

「あなたが一緒じゃないと意味がないわッ!」 

 少女の精一杯の声だった。その声は走りだした汽車の音に掻き消される。

 少女の中で最後の青年の顔がリフレインされる。鮮やかな色彩で甦るそれとともに、少女のもとに声が届く。 

 俺は何人もの君に出会う……

 またこの駅を訪れる君に出会う……

 何人もの君の為に、俺はこの駅で待つ……

 何人もの君を送り出す……

 二度とは戻らない汽車に乗せる……

 何人もの違う君に出会う、君はその内の一人……

 君は二度とは戻らない……

 君が向かうのは未来……

 君はそれを知った……

「あなたは一体何だったの……?」

 俺は、君の運命であったり、宿命であったりする……

 そして君は、俺の面影を探すために生きる……

「面影を探す?」

 何人もの君は俺の面影を確かめるために汽車に乗ろうとする……

 君もそう……


 既に汽車は駅を遥か後にしている。少女の眼にはもう駅は黒い点にしか見えない。でも声は後を追って来る。


 本当の終着駅はまだだ……

 君の探していたものは君の中には存在しない……

 それを見つけ出したとき、そのときが終着駅が近い兆しが差したときかもしれない……


「じゃあ、サヨナラね……」

 少女の言葉には悲しみの色はない。むしろ希望に溢れていた。


 俺はサヨナラは言わない……

 また出会う何人もの君のために……


 汽車は碧い空をまっすぐに貫き抜けて行く。

 青年の声の余韻を残したまま声は途絶える。しかし、その声の余韻は少女の中で消えることのない炎になる。


 俺は君の運命であったり宿命であったり……

 そして……

 希望であったり、するのさ……



【完】

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瞑想渺茫 〜終着駅〜 十笈ひび @hibi_toi

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