第五章
イズムは二日目にして困惑していた。たぶん、昨日ここを飛び回っていた虹翡翠は一羽。相手は、自分の存在を知っている。知っていて、逃げようともせず、自分の存在を誇示して見せるような行動を取る。そんな相手をどうやって捕まえる? 完全に身を隠して、何とか相手を油断させ、隙を狙う…万に一つどころの可能性ではない。まるで人間同士の腹の探り合いだ。
食料になりそうな鳥も何回も空を過ぎった。猟に慣れたイズムにとってはスローモーションの動きに感じるが、それには一切目を向けない。そういうイズムの行動を見守るように、七色の光を持つ小鳥は、その日も数回姿を見せた。
頭脳戦になる猟も何度か経験したが、こんな相手は初めてだ。今までは常に標的に対して、自分は優位に立っていられたから、余裕を持って考え、行動して切り抜けた。しかし、今回はまるで人間相手の心理作戦だ。そして、それは家族や仕事の上で出会う少人数の人間関係の中で生きてきたイズムには弱点の一つだ。
困り果てながら三日四日が過ぎていった。人間を警戒して、すっかり近くから動物たちも姿を消してしまった。
携帯食糧と川の水で飢えを満たしながら、(俺は、子どもだ)と強く感じた。俺は小さい。この空の下で、俺は小さくて、何と頼りない存在だろう?
そんなイズムの頭上を鳥たちは何度も通り過ぎたが、鳥だけは食料として撃つことは出来ない。
虹翡翠の姿を見る度に銃を構えてみるが、無駄な抵抗だと、わかり始めていた。
(俺は何をしているんだろう?)
一週間目、イズムは仰向けになって空を見上げていた。夕べは予測し得ない激しい雨にやられ、木の下に避難しても、足元を浸し続ける水が体力を奪い、食料も、もう尽きかけていてる。今まで、依頼された獲物を諦めたことは無かった。しかし、これは無理だ。今の自分はどう考えても負けている。勝算は無い。しかも引き返す機会を見逃し、もう帰る体力さえも残っていない。鳥撃ちを職業として父親から正式に受け継いで以来初めて、イズムは子どものように泣きたくなった。
『あなたが鳥を食べられないのは、あなたが翼を持たぬ者だからよ』
声が、する。美しい鈴のような声。胸の奥に直接響く声。横たわったまま、まぶたを開くと、目の前に小さな鳥がいて自分の顔をじっと見つめていた。
(虹翡翠?)
形は、ごくありきたりの愛らしい小鳥だったが、その全身を覆う羽根の色の美しさ。白、というか真珠色というか、そんな色がベースなのだろうが、それを認識する前に七色と言うだけでは表現できない様々な色のきらめきが目に飛び込んでくる。
「お前が、虹翡翠か。言葉を話すのか?」
『私はあなたの心に直接心を伝えているだけ』
「へえ、便利だな」
イズムは口元だけで力なく笑った。虹翡翠は笑いもせず(鳥に笑顔があるかどうかは知らないが)こちらを見ている。その目は、底のない、漆黒だ。
『私には、あなたの過去が見えるのよ。今まで生きてきた生き様まで。最初の日に、あなたの近くを飛んだでしょう? あの時、あなたの記憶を全部見たのよ』
「それで、最初の日から俺をからかい続けたわけか」
『まさか、作戦の見込みも立たないまま、ここまで粘るおバカさんだとは思わなかったのよ。どうして途中で諦めて帰らなかったのよ。どうして、私たちの仲間を獲らなかったの? きっかけはいく度でもあったのに。あなたは生きる為に狩りをしているんじゃないの?』
「あいにくと、俺はそうじゃない。鳥の肉は苦手だしね」
『あなたたち人間は、食べるためにだけ獣を撃つのではないの?』
呆れ果てた様子で、虹翡翠が小首を傾げた。
『それなら、猫にでも捕まって食べられる方がまだ納得がいくわ』
「お前は、食べられる為に殺されるのが怖くないのか?」
『怖いに決まってるでしょ? 猫なんて、ハンターとしては人間のあなたなんかよりどれだけ小賢しいか。それでも、他の命の糧として血肉を奪われる方が、人間の屋敷に飾られる為に死ぬよりずっと、まし。あなた達の言葉で、食物連鎖って言うんでしょ? こういう決まりごと。私たち獣はそんな言葉無くても、生まれたときから、そういう決まりごとはちゃんと知っているのよ』
虹翡翠は小さな翼をはためかせながら青白いくちばしをパクパクさせた。薄紅色の光の粒子がパッと散る。ああ、怒ってるんだなあ、こいつ、ということはイズムにも漠然とわかった。
『私にはわからないのよ。あなたの記憶の中にあった、剥製っていうもの? はらわたと肉を捨てて、死骸を空っぽにして、つめものなんかして、わざわざ生きている姿に似せて再現して飾って…』
「それは、人間が寂しがりだからだ。美しいものをいとおしんで、絶対に逃げない状態で、周りに置いておきたい、そうでないと安心できない」
『変なの。死体をいっぱい飾ってるより、生きてさえずって、はばたく鳥と仲良く共存した方が幸せに決まってるじゃない』
「いつまでも、友達でいられるわけじゃないじゃないか。鳥は翼を持って、いつでも気まぐれに逃げ去ってしまう…人同士だってそうだ。いつまでも一緒にいられる保障は無い。ケンカ別れならともかく、それこそ、死が突然かけがえのない存在に翼を付けて天へ連れ去ってしまうこともある。それなら、偽せ物であっても、生前の美しい姿を残したまま、死体でもそばに置いておける方が幸せな人間だっているんだ」
イズムは、さして体力が残っていないはずの体で自分がどうしてここまで饒舌(じょうぜつ)になっているのかわからなくなっていた。あるいはもう、自分も心の声で話しているのを、虹翡翠が読み取ってくれているのかもしれない。
「俺だって、美しいものは好きだ。美しいものを手元に置きたい人の気持ちもわかるし、
その為に高い金を払ってもいいという金持ちの気持ちもわかる。そういう生活をするために、奴らは努力して金持ちになったんだろうから。人間の中には、死に至る病にかかったかけがえのない存在を、その病気を治せる技術が生まれる未来まで、冷凍して保存する者もいるという位だ。そこまでは俺にも理解は出来ないが、まあ、死んだ父さんの写真を片時も手放さない母さんも、あまり変わらないかもな」
『あなたは、私を、美しいと思うの? だから、私を撃ち獲りたいの?』
「ああ。こんなキレイなもの、見たことがない。いつまでも見ていたいよ…けど」
けど、意識が薄くなってきた。俺も、ここで死ぬんだろうか。そうしたら、この身体は野獣たちに食いちぎられて大地の中に溶け去り、魂は…父さんのところへ行けるのだろうか?
『あなたはなぜ鳥を撃つの? 他に生きる手段なんていくらでもあるし、第一、あなたまだ子どもじゃないの』
虹翡翠の質問は弱った意識にも容赦は無い。
「父さんから託された唯一の形見だから。この銃と、鳥撃ちの技術は。…父さんの気配や名残を俺の中に残すには、鳥撃ちの血筋を絶やさないようにすることしかなかったんだ。俺には他の道を選ぶ余裕なんてなかった」
『イズム…教えてあげるわ。あなたが鳥を食べられないのは、翼を持つ物があなたの最後の希望だから。あなたは飛びたいのよ。目指す場所がどこなのかは、私にもわからないけれど』
虹翡翠の真っ黒いつぶらな瞳がイズムをじっと見つめる。イズムには、この鳥のキラキラと絶え間なく変化し続ける翼の色よりも、この揺るがない瞳の漆黒の方がいとおしく感じられるのが不思議だった。
「そうか…自由への憧れの反動が、俺に鳥の肉を受け付けさせなかった、と」
イズムは横を向いていた顔を、やっとの力で仰向かせた。雨上がりの空に長く大きな虹が消えかかる瞬間であった。
その時、虹翡翠の凛とした声が、心に、いや、イズムの体中に響いた。
『私の肉を食べなさい。あなたの血肉として私は生きることに、たった今、決めた』
「何を言い出すんだ?」
『気に病むことはないわ。同種間の動物も飢えれば共食いをするし、人間だって色々事情が有って、生きる為に、やむを得ず殺し合うこともあるでしょう? 私も食物連鎖の中で死んでゆくのでなくては、納得が出来ない』
イズムの心が、震え出す。
「こんな風に言葉を交わしてしまった相手を撃って食えというのか?」
『ええ、私を撃ちなさい。あなたのような存在を生かす為になら、この命を捧げてもいいと思う』
「…こんなに近くで撃っては、その皮膚に大きな傷がついて売り物にならないんだ」
イズムの心が、空笑いをするように言った。すると、虹翡翠は
『そうだったわね。わかった。じゃあ』
とだけ言い残して、すっくりと天を仰ぎ、翼を広げ、すうっと地を離れた。
次の瞬間、ぱーん。晩秋の空に、透き通った破裂音が響いた。
動く体力など残ってなかったはずの体が反射的に銃を取り、空を舞う小鳥目掛けて引き金を引いていたのだ。
(虹翡翠!)
銃を投げ捨て、よろける身体を引きずりながら、光る点が弧を描いて落ちた地点を目指して歩み寄った。
草むらの中にまだ光を放ちながら、その小さななきがらはビクリとも動かなかった。針のような銃弾が心臓を一突きしている。イズムはそのなきがらを両手でそっと抱き上げ、無表情でつぶやいた。
「今まで、何も考えず、依頼された鳥をただ撃ち続けてきた。…殺したくないと思ったのはお前が初めてだよ。虹翡翠」
そのまま、地面に膝をつき、イズムは気を失った。
銃弾の音をたまたま聞きつけて、興味本位で近づいてきた、その山村の住人にイズムは救出された。
驚いて集まってきた村人たちに近くの療養所に担ぎ込まれたが、幸い風邪をこじらせかけていたのと、栄養失調だけという診断であった。
ただ、イズムは気を失っている間も、固く握り締めた両手を決して開こうとせず、村人や医者を困らせたという。イズムは誰もいない病室のベッドで目覚めてすぐ、その光り輝く小さな塊を、届けられていた荷物の中の、保冷用の袋の中に収めた。絶命してどれほどの時間が過ぎたかはわからないが、その輝きは、薄れる意識の中で語り合った、あの毅然とした姿と何の変わりもなかった。
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