橙色
学校から一人で帰っている時に、あの人を見かけた。俺があの人を見間違えるはずなんかない。後ろ姿見ただけでわかるくらい、ずっとあの人とことを見てきた。もちろん、ちゃんとまともな方法で、だ。
目の前に居るあの人はぼーっと歩いていて、電柱にぶつかりそうになっていた。あぁ、もう見てられない。しっかり歩いてくれよ。怪我したらどうすんだよ!
「なんかあったんスか?」
気が付けばそう、尋ねていた。あの人はびっくりしながらも俺に気付くと苦笑いを浮かべる。あぁ、この人は自分に余裕がない時でも無理して笑うんだ。そう思ったらぎゅっと胸がしめつけられるような気がした。
この人は強くて弱い。そう気付いたのは最近のことだ。大人びて見えたのは周りに頼ろうとしないからで、クールに見えるのは話し方がどこか素っ気ないから。そしてそうなった理由の一つは人見知りで恥ずかしがり屋だから。
「なんだ、
この人が俺と
全く会わないわけじゃない。彰の家に遊びに行くとかなりの確率で話すし、学校帰りに遭遇して一緒に帰ることもある。この人といると話が尽きないんだけど、どう呼んだらいいのかわからない。で、悩んだ末に選んだのが「あんた」呼びだった。
「俺で悪かったっスね。あんた、ぼーっと歩いてて不安なんスよ。危うくぶつかるとこだったし」
俺はこの人の近くにある電柱を指で示す。俺が話しかけて歩みを止めなかったら、この人は電柱にぶつかっていたに違いない。この人がこんなにぼーっと歩いてるのも珍しいけど。
俺がこの人のことを「あんた」って呼ぶのには理由がある。「ゆかり」って名前を呼ぶのがなんとなく恥ずかしい。ただ、それだけだ。恥ずかしいから、名前を呼ばなくて済む読み方にしてる。
別にあの人の名前が嫌いなわけじゃない。むしろ本当は名前で呼びたい。でもあの人の名前を呼ぶのは照れくさくて、恥ずかしくて、できないんだ。昔、って言っても三年くらい前に出会ったんだけど。その時はこんなふうに困ったりしなかったのに。
「こんなところに電柱があったんだね。お前に言われるまで気付かなかったよ」
俺の言葉に返事するまでの間、数秒。いつもはすぐに言葉を返してくるこの人が間を空けるなんて珍しい。しかも冷静にしてればわかるはずの電柱の存在にすら気付かない。やっぱり今日のこの人は変だ。
心ここに有らず。そんな言葉がぴったりな感じ。今だってほら、もう別のことを考えている。この人の黒い瞳は俺を映してはいるけど見てはいない。何がこの人をそんなに困らせてる。何が、こんなになるまでこの人の心を支配してるんだ。
「で、お前は何の用?」
「あんたに怪我されるとめんどくせー。だから、家まで送るっスよ」
「別に一人で平気だけど?」
「平気じゃねーから言ってるんスよ」
目の前の電柱に気付かずにふらふら歩いてたくせに。そんなにぼーっとしてて平気なわけないだろ。しかも俺のかけた言葉すら耳に入ってない。一体何をそんなに考えているんだ。聞いたら、答えてくれんのかな。
「にしても、そんなになるほど考え込むなんて珍しいっスね。俺で良かったら話聞きますよ?」
「別に大したことはないんだよ。ただ、よく知らないクラスメートに付きまとわれてるってだけ」
この人はさらっとすごい事を言ってのけた。それでこの人にしては珍しくぼーっとしてるのか。とりあえずこの調子でぼーっとして怪我されたら困るから、そっとその手を掴んだ。
この人はなんでこんなに落ち着いているんだろう。いや、動揺が顔に出てないだけ、なのか。パッと見はいつもと同じ無愛想で、特に困っているようには見えない。
「それ、誰かに相談した方がいいんじゃないっスか?」
「いいよ。別に危害を加えられたわけじゃないし、元はと言えば私のせいでもあるから」
「あんたのせい?」
「急に『あなたが好きです』とか言われてね。断ったら付きまとうようになったんだよ。本人はバレてないつもりみたいだけど」
いや、それはかなり危ないと思う。まず付きまとわれてる時点で相談すべきだし、もう少し警戒すべきだ。そもそもこの人、自分でなんとかできるとか思ってる。なんとなくだけど多分当たってる。
あまり人を頼らない人だから。大抵のことは一人で何とかしようとする強い人だから。そんなこの人のことを、俺はずっと見てきたから。それにしても、危害を与えられていたらどうするつもりだったんだ。
「自宅とかは?」
「別に家までは来ないよ。そもそも方向も違うし。でも、さすがに気味悪いから遠回りして帰るようにしてる」
そういや彰が「最近姉貴の帰りが遅い」って言ってたな。友達と遊んでるからじゃなくて人を避けてるからか。というかそれ、ストーカーって奴じゃないか。かなりやばいやつだろ。
「もう少し人、頼って下さいよ」
気が付けばこの人に聞こえるか聞こえないかというくらい小さな声でそう呟いていた。でも、聞こえなかったんだろう。「何?」なんて澄ました顔で俺に尋ねてくる。
「もっと人を頼れって言ってるんスよ」
少し怒鳴るような言い方になった。でもこの人はそんなことを気にしていない。俺の言った言葉の意味を真剣に考え、そして苦笑いを浮かべた。
「頼るってどうやって?」
「先生に相談するとか、色々あんだろ。そいつ、絶対にストーカーとか呼ばれる奴っスよ。あんた、怖くないんスか?」
「珍しく熱心だね」
「めんどくせーけどあんたに何かあったら困るんスよ。あんた、女だし……」
俺がめんどくさがり屋なのを知ってるから、俺の言動に違和感を感じているらしい。別にめんどくさがり屋ってわけでもない。でもめんどくさがっていた方が厄介な事に巻き込まれない。それだけだ。
この人に関することなら、めんどくさがらない。本当に自分が限界な時はめんどくさがるけど。でも、この人のためならどんなことでもめんどくさくはない。むしろ俺に出来ることならこの人を、ゆかりさんを助けたいんだよ。ずっとそばにいられたらいいのに。
「確かに、何かあってからじゃ遅いかもね。ちょっと考えてみるよ。それに……お前がこうやって送ってくれるなら心強いし」
そう言ってクスッと笑う。そんな可愛い笑顔を誰にでも見せるから変な奴に付きまとわれるんだ。本当はそう言いたかったけど言えなくて、手を引っ張るようにして家の方に連れていく。
よく考えたら今も付きまとわれてる可能性がある。そう思ったから直接彰の家に送るのはやめて、巻けるだけ巻いてから送ることにしよう。そう思ってゆかりさんの顔を見れば、同じ事を考えていたのか小さく頷く。
久々にゆかりさんと一緒に見た空は小二の時に貰った写真と同じくらい綺麗な橙色で。あの写真と違って虹が無いことだけが少し悔しい。同じことを思っていたんだろう。ゆかりさんが「虹があったらもっとよかったのにね」と空を見ながら呟く。
「せっかくなんで喫茶店でお茶でもしねーっスか? この綺麗な空、あんたと一緒にもう少し見てたいっス」
「いいよ。じゃ、翔の家にしようかな。窓から空、見れるでしょう? カフェとかより、翔の家の方がいい。おばさんなら許してくれそうだし」
何故かその場の成り行きで俺の家でお茶をすることに。ま、俺の家ならバレても困んないな。というか俺といるのを見て誤解して諦めてくれたらいいのに。
俺はくだらない感情を無かったことにしてゆかりさんの手を引く。もう片方の手で携帯を操作。彰にゆかりさんを借りることを連絡し、母さんにゆかりさんがお邪魔することを伝えた。
「あら、ゆかりちゃん、久しぶりねー。いつ以来かしら、ゆかりちゃんが家に来るなんて。今学年は?」
「中学一年になりました」
「そうなの。あ、翔、早くお茶出してちょうだい」
なんでこうなってんだろう。ゆかりさんを家に連れて来ると母さんがやけにご機嫌で。そのまま母さんはゆかりさんと話し込み、何故か俺が三人分の飲み物を用意することに。
ゆかりさんが最後に俺の家に来たのは去年だったかな。卒業式の後、俺と彰と晴人と一緒に俺の家に来た。娘を欲しがっていた母さんはやけにゆかりさんを気に入ってずっと話していたっけ。
冷蔵庫を開けると中には麦茶と紅茶とジャスミン茶が入ってる。母さんと俺は麦茶でいいや。ゆかりさんが前に来た時は確か――。
「これは何だ?」
「これ? これはジャスミン茶。ゆかり姉、飲んだことねーの?」
「ジャスミン茶なんて初めて見たよ。名前も聞いたことない。美味しいの?」
「飲んでみりゃわかるって。ほら」
ゆかりさんは初めて見たジャスミン茶に興味津々で、俺はそれをコップに入れてあげた。まず色をじーっと確かめるとジャスミン茶の匂いを嗅ぐ。そして驚いたように目を見開いた。
そのあと目を閉じて一口飲む。そのままコップ一杯をあっという間に飲み切ると、空になったコップを俺に渡して笑顔で言ったっけ。
「これ、美味しい。香りもいい。もう一杯貰ってもいい?」
あまり感情を出さないゆかりさんのその時の表情は今でも覚えてる。驚いた時の表情も素敵な笑顔も。忘れるものか。
ゆかりさんとの思い出を思い出して、ゆかりさんのコップだけにジャスミン茶を入れる。俺の家で飲んだジャスミン茶がたいそう気に入ったらしくて、スーパーに行くたびにジャスミン茶を買おうとするって彰が愚痴ってたし。
三つのコップをリビングのテーブルに運ぶと母さんとゆかりさんの前にコップを置く。そしてゆかりさんの隣に自分のコップを置いて、座った。ゆかりさんはコップの中身に気付いたのか嬉しそうに俺の方を見る。
「覚えててくれたの?」
「たまたまっスよ。めんどくせー」
「相変わらず素直じゃないね、お前は」
ゆかりさんの手が俺の顔に向かってくる。かと思えば次の瞬間、俺の両頬はゆかりさんに
「めんどくせーってわりには頬が赤いよ? ふふ。覚えててくれてありがとう」
俺がゆかりさんの好みを覚えているのはバレバレだったらしい。挙句やりとりを見ていた母さんには笑われるし、最悪過ぎる。でもゆかりさんの笑顔を見れたのは嬉しい。
そうこうするうちにあっという間に時間は過ぎて。気がつけば午後六時。いくら家が近いとはいえもうゆかりさんは帰らなきゃいけない。俺はゆかりさんを家まで送ることにした。
夏が近付いてるからか午後六時なのに空はまだ明るい。空は濃い青色になり始めたけと下の方にはまだ橙色が微かに残ってる。でもって頭上には一つ二つ、星が見え始めてる。
その時だった。突然横からシャッター音が聞こえる。カメラのシャッター音じゃなくて携帯のシャッター音。横を見ればゆかりさんが携帯で空を撮っていた。
何回か撮って気に入ったのが撮れたのだろう。撮ったばかりの写真を開いて俺に見せてくれる。写っているのは青から橙色の綺麗なグラデーションを作っている空。それは初めて貰った写真の橙色の空より綺麗で。
ゆかりさんに携帯を返すと俺も携帯を取り出して写真を撮る。上手く撮れなかったらゆかりさんに送ってもらおうと思って。俺がシャッターボタンを押すと、何故か俺の隣からもシャッター音が聞こえる。
「どう? 撮れた?」
そう俺に尋ねるゆかりさんの携帯のカメラは何故か俺に向けられている。けど変なことを考えてる時間はない。慌てて自分の携帯を見ると、そこにはブレた画像が一枚。
もう一枚写真を撮ろうと携帯のカメラを空に向けるけど、いつの間にか空から橙色が消えていた。もう日が沈んだんだ。仕方なしにゆかりさんの方を向くとゆかりさんは何故か面白そうに笑っている。
「何撮ってたんスか」
「見る?」
ゆかりさんは悪びれる様子もなく面白そうに携帯を差し出してくる。そこに写っていたのは――。
「俺?」
ゆかりさんの携帯画面には写真を撮ろうとする俺の姿が写っている。さらに、そんな俺の奥には近所の家があって、その後ろには綺麗なグラデーションの空が。一発だ手ブレなしで撮れるあたりが流石だと思う。
「空の色も変わっちゃったし、家まで送って」
「もちろんっスよ。後でさっきの空の写真送ってくれねーっスか?」
「いいよ」
なんで俺の写真なんかを撮ったのかはわからない。きっとゆかりさんのことだし深い意味はないのかな。ただ絵として綺麗だったから撮った、とかそんなもんだろ。
俺達はさっきまで見えていた橙色の空を名残惜しみながら道を歩いていく。顔を上げればそこには星の輝く綺麗な夜空が広がっていて。半月さえもが綺麗に見えた。
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