デンハーグのピアノ

Contrail

デンハーグのピアノ

オランダのいくつかの大きな駅には、ピアノが設置されている。その側面に書かれている文字のいうことには、“Bespeel mij”、「私を弾いて」という意味だ。何年か前にとあるアーティストが「駅で即興コンサートができたら、構内の雰囲気も良くなるかもしれない」とオランダの国鉄にストリート・ピアノの企画を持ち込んだのが始まりらしい。


 彼はオランダにいた。ピアニストだった。一年前に止めていた。突発性難聴の発症が原因だった。高音を聴き取れなくなった。家族は彼の演奏の継続を支持したが、彼の師はなにも言わなかった。彼は音楽院を休学し、演奏仲間や知り合いの多くいるパリを離れることにした。一年、ヨーロッパを周った。ウィーンやワルシャワ、サンクトペテルブルグなど、 彼の演奏旅行以外での初めての旅だった。イギリスにも北欧にも行った。そろそろ帰ろうか。どこに。そんなことを考えながらオランダに来た。いくつかの著名な美術館をまわり、景勝地をみて、アムステルダムに戻ってからパリに向かおうとするところだった。


 デンハーグ中央駅の雑踏の中、彼はその公共ピアノを見た。天井と壁の大部分がガラス張りになっているために常に明るく日が差し込むその駅で、青い敷物の上に置かれた黒いグランドピアノは目立っていた。ちょうど、交代で弾いていた若者たちのグループが離れる。それまで続いていた演奏が途切れたところで、聴衆はそれぞれの方向に流れていった。彼はなんとなく、そのピアノの椅子に座った。ヨーロッパの街で公共のピアノを見るのは珍しいことではない。彼もこれまでに何度も見た。しかし、立ち止まることはなかった。ただ、気にならなかったから。気にしないようにしていた。でも、今度はなぜかピアノを触ってみたくなった。きっと、前に弾いていた若者たちがとても楽しそうだったから。ちょうど周りに人が少ないから。次の電車まで時間があるし。


 選んだのは、高校生の時に出たコンクールでパリ行きを決めた曲だった。特に珍しいわけでもないが、アレンジの多さと、その解釈の許す幅の広さでコンクールには選ばれやすい曲だ。全体を低い曲調にするためのアレンジを即興で加え、一定以上の高い音は使わなかった。周りにちらほらと聴衆が集まってくるのを感じた。列車が来たのかもしれない。小さい子を抱いた母親も近くのカフェから出てきた。そんな中、一人がピアノの近くに寄ってきた。その男は襟の伸びかけたシャツに使い込んだリュックを背負っていて、彼のピアノを興味深そうに聴いている。曲が中盤に差し掛かった頃、男が鍵盤に手を伸ばしてきた。彼は演奏を止めなかった。男が彼の右手のすぐ隣で弾いたのは、彼の曲のアレンジだった。彼が低く設定した曲に、軽やかなテンポを付け足したのだ。男は彼の耳が拾えるぎりぎりの高さを行ったり来たりして伴奏を続けた。男がたまに曲調を変え、彼がそれに沿うこともあった。しかし、男の手がある一点より右に上がったとき、彼の音がそれについていくことはなかった。男は二度目でこの変化に気付き、以後その一点を超えることをしなかった。曲が終わりに近づくにつれ、彼と男は目配せを交わしてそのテンポを速くしていき、最後に彼が鍵盤を指の裏で撫でて演奏は終わった。周囲は歓声と拍手に包まれた。彼の横に立っていた男は、そのまま立ち去るかと思われたが少し歩いてから踵を返して握手を求めてきた。


「以前一度コンクールで会ったことを、君は覚えていないと思う。でもあのときから君のピアノが好きだった。耳のことも話には聞いていたが、ここで共演できて良かった。ありがとう」

 少しなまった英語でそういうと、男は握った手をはずして離れていった。


 彼は、黙ってその男の去っていくのを見て、何人か声をかけてきた聴衆の相手をしたあとにアムステルダム行きの電車が来る12番線ホームへと歩いて行った。首都へ向かう大荷物や手土産を持った人たちに囲まれて、彼も自分の小さなスーツケースを足元に寄せた。右手に握っているのは、さきほどの男に手渡された電話番号のメモ。「また、どこかで弾こう」の文字が右肩上がりに走り書きされていた。少しそれを眺めてから、彼はその紙きれをポケットにしまった。


 土曜日の午後、アムステルダム行きの列車はいつものようにたくさんの乗客を載せてデンハーグ中央駅を発っていった。誰かがピアノを弾いている音がきこえた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

デンハーグのピアノ Contrail @Contrail

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ