第3話

 あれからさらに二か月が経った。両親が返ってくるまであと数日だ。

 アユムは先ほど、高校球児としての生活に終わりを告げたばかりであった。

 俗に、夏の甲子園とか言われている全国高等学校野球選手権大会の、地区予選第二試合に負けたのだ。

 もともと、野球の強豪校でもないし、甲子園の出場なんて無理なんだと、頭ではきちんと理解していた。むしろ、地区予選の第一試合に勝てたこと自体、喜ばしいことであった。去年の夏は第一試合で負けたのだから、一勝できた分、成長したのだと考えたっていい。

 いずれにせよ、部活は今日で実質的に終了し、二年生や一年生へと引き継ぐことになる。後は、残されたわずかな時間を使って、将来の進路を定めるべく、勉強に時間を費やすことになるだろう。

 アユムは母の経営する動物病院を継ぐべく、獣医となる道を選択しなければならないという思いが強い。兄が教師で、姉はまったく別の分野を目指していそうなので、なおさらだ。

 となれば、あとは獣医学部に合格できるように、ひたすら学力を伸ばすだけ。

 そう、理解していたはずなのだが。

 実際に甲子園への道が絶たれたという現実は、事前に想像していたよりも、アユムに重くのしかかっていた。

「ただいまー」

 誰もいない家に帰ったのに、もはや習慣となっている挨拶を述べたアユムは、静まりかえった家の気配に、ちょっとした寂しさを感じていた。

 あのハーピィの娘がいたときは、もう少し、にぎやかだったんだけどな……。

 そんなことを脳裏に浮かべてから、アユムはぶんぶんと首を横に振った。どうも、先の敗戦もあり、少し感傷的になっているらしい。

 玄関先に道具を置いてから、汚れたユニフォームを洗って、汗と一緒に様々な雑念を流そうと考えたアユムは、そのまま風呂場に向かおうとした、その時だった。

 誰かの気配を感じる。

 なんとなくベランダへと視線をめぐらせたアユムは、レースのカーテンの向こうに、人影らしきものを見つけた。

 まさか。

 あわてて駆け寄り、レースのカーテンを開ける。

 そこには、ピピがいた。

 ガラス越しに、彼女と目が合う。

 アユムは、あわてて窓を開けようとした。気が急いてしまっているのか、指がうまく動かない。鍵を開けるのにいつもよりも時間がかかってしまう。

 ようやくベランダへと通じる窓が開くと、彼女はものすごい勢いでアユムへと抱きついてきた。

「アユムー!!!!」

 彼女の身体はちょっと汚れているが、真冬に出会ったあの頃ほどではない。むしろ、試合を終えて帰ってきたアユムのユニフォームの方が、よほど汚れている。アユムに入浴させてもらえない分、日々、水浴びでもしていたのかもしれない。

 飼い主にじゃれつく子犬のようにアユムに飛びついたピピは、アユムにしがみついたまま離れようとしない。

 二か月前のあっさりとした別れが嘘のようだ。

 アユムとしては嬉しい再会であったが、ふと冷静に考えると、彼女がウチを訪ねてきた理由が思い浮かばない。

 きっと、何かを求めての事だろうと思ったアユムは、二か月前に彼女と交わしていたいくつかの単語を述べてみることにした。

「ご飯?」

 アユムにぴったりと寄り添っていたピピは、少しだけ身体を離し、アユムの目をじっと見つめてから。ふるふると首を横に振った。

「お風呂?」

 続けて問いかけたアユムだったが、ピピは同じく否定する。

 さて、他に何があったかと考え込んでいるアユムを見たピピは、彼の頬を右翼の鉤爪でつついて注意を引いた。

 注意を引いたのだが、彼女は言うべき言葉が見つからないのか、それとも、言うのをためらっているのか、伏し目がちになったり、アユムに抱きついている翼に力がこもったりといったことを繰り返してから。ようやく意を決したのか、しっかりとアユムと視線を重ねてから、ささやくように言う。

「アユム……」

 その単語を聞いたとき、アユムはすぐに理解ができなかった。

 ピピの言葉を噛みしめるように脳内で繰り返してから、アユムはようやく、彼女が自分に会うためにやってきたことを悟った。

「……僕?!」

 驚きのあまり、思わず自分の胸に手を当てて声をあげてしまったアユムだったが、そんなアユムを前に、ピピは幾度もうなずいて肯定の意思を伝えてくる。

 正直、アユムは戸惑っていた。

 あれだけあっさりとした別れであったし、ピピが再び飛べるようになって、仲間の元へと帰っていたことを、嬉しく思ったのは事実だ。

 だが、一方で、彼女と過ごした二か月間が、とても楽しかったことも事実で。

 そんなピピが、自分に会いたかったからと来てくれた。

 それは嬉しい。

 嬉しいのだが。

 彼女は、何のために、僕に会いに来たのだろう。

 しばらく考え込んでいたアユムだったが、ふと、そんなことを考える必要などないということに気が付いた。

 実に単純な話だ。

 ピピが僕に会いに来てくれた。

 それを、素直に喜べばいいじゃないか。

 気が付くと、ピピは、アユムを不安そうに見ていた。

 自分が歓迎されていないのではないかと思っているのかもしれない。

 そう考えたアユムは、彼女の頭をわしわしと撫でながら、素直な自分の気持ちを伝えた。

「ピピに会えて、嬉しいよ」

 彼女はヒトの言葉を理解していない。理解できているのは、本当に単純な単語だけだ。だが、アユムのその言葉のイントネーションや表情に、喜びの感情が含まれていることは理解ができた。

 ピピも、嬉しそうな声で鳴く。


 ベランダで再会を喜び合っている二人だったが、アユムは自分の今の姿が気になっていた。何しろ、試合の後でユニフォームは泥だらけだし、汗もかいた。冬に出会った頃とは逆で、今はアユムの方が汚れているといっても過言ではない。

 こんな状態のまま、いつまでもピピを抱きしめているわけにもいかないし、アユムは一度彼女から離れると、申し訳なさそうに告げた。

「ごめん。ちょっとお風呂に入ってきてもいいかな?」

「オフロ?!」

 聞きなれた単語が出てきたことで、ピピの表情はさらに明るくなった。

 どうやら、今のアユムのひと言で、入浴スイッチが入ってしまったらしい。

 今のはピピを入浴させる意味ではなく、自分が入浴したいという意味だということを、どうやって彼女に伝えようかと思うアユムであったが、それも無駄だと悟る。

 何しろ、語彙が少なすぎる。

 それに、彼女を入浴させた後で、自分がゆっくり入ればいいじゃないか。

 そう考えなおしたアユムは、ベランダで出会ったあの時のように、ピピを抱きかかえると、そのまま風呂場へと向かった。


 まず、手早く湯船に湯を張る準備をすると、二か月前の同居生活の頃のように、アユムはピピの服を脱がせてやった。

 そこで気が付いたのだが、彼女が身に着けていたはずの下着はなくなっていた。

 服は生地が多少伸縮するものであったし、ボタンのような鉤爪では扱えないような構造を極力排した物だったから、自分で着直すことができたのかもしれない。一方、ブラジャーはホックを止めたりしなければならないので、鉤爪では自力で着るのは難しかったのだろう。

 生まれたままの姿となったピピは、アユムに脱衣場から風呂へと誘導されたときに、不思議そうな顔をした。

 泥で汚れたアユムのユニフォームを、じっと見つめている。

 彼女の行動が理解できなかったアユムだったが、ピピが右翼の鉤爪でアユムのユニフォームのボタンをカリカリといじり始めた瞬間に、彼女が何を言いたいかを察した。

「ぼ、僕も脱ぐの?!」

 ヒトの言葉を理解できないピピは、アユムの言葉に首をかしげる。

 彼女が言いたいことを把握するためにも、アユムはユニフォームの上着のボタンを外し、とりあえず脱いで見せた。

「こう?」

 上着を脱いでアンダーシャツのみとなったアユムを見て、ピピはこくりとうなずいた。

 だが、それで満足してはいないらしい。

 ピピの鉤爪は、ユニフォームの下にあったアンダーシャツへと伸びたからだ。

 こうなると、彼女が何を求めているかが嫌でも理解できてしまう。

 つまり、アユムにも全裸になれと言っているのだ。

 アユムとしては、ズボンはともかく、ボクサーブリーフだけは何とか死守したいところであったが、ピピの目はそれも脱げと言っている。

 恥ずかしさで耳まで真っ赤になりながらも、アユムは自分の身を覆っている最後の一枚を脱いだ。

 そこには、立派な姿になった男性のそれがあった。

 恥ずかしくて、ピピの顔を見ていられない。

 一方、ピピはと言えば、アユムの服の下から男性ならではのモノが出てきたことで、驚きの表情で固まっている。

 何とかこの場を逃れたいと思うアユムであったが、ここまで見られてしまった以上、覚悟を決めるしかなかった。

 先ほどから固まったままのピピを促して、脱衣場から浴室へと移動する。


 あとは、お決まりのパターンに、多少の手順を足すだけで済むはずだった。

 ピピの身体を洗ってあげて、湯船に放り込む。そして、自分の身体を洗ったら、風呂から上がって身体を拭く。

 それだけのはずだった。

 ピピの身体を洗うとき、いつもなら服の下で元気な姿となっていたアユムのモノは、今は自由奔放にたくましい姿を誇っている。

 恥ずかしくて泣きたいくらいだ。

 スポンジ越しに伝わる彼女の身体のやわらかさが、さらに下腹部に血流を集結させる。

 煩悩まみれでピピの身体を洗った後は、自分の身体を洗う番だ。

 アユムは、三年生になって少しは伸ばすことを許された髪を手早く洗うと、シャワーで洗い流そうと手を伸ばした。

 ない。

 いつもならそこにあるはずのシャワーヘッドがないのだ。

 アユムの手が幾度か空を切ったそのとき、湯船の中にいたピピがアユムを呼んだ。

 シャンプーが目に入らないようにと気を付けながら、アユムが視線をピピへと送ると、彼女が両翼の鉤爪をうまくつかって、シャワーヘッドを持ってくれている姿が見えた。

「ああ、ピピ。ありがとう」

 素直に礼を述べたアユムは、蛇口についたレバーをシャワー側に倒して湯を出した。

 ピピが持ってくれているシャワーヘッドから出た湯が、アユムの頭に付いた泡を洗い流していく。

 身体も同様だった。

 ボディーソープで身体を洗うと、ピピが持ってくれているシャワーヘッドから出るお湯で、泡を汗や汚れと一緒に流し落としてしまう。

 ピピからシャワーヘッドを受け取り、元の場所に戻したアユムは、湯船に入ることなく、浴室から出ようとした。

「アユム!」

 そんなアユムの姿に、突然立ち上がったピピは、バランスを崩して湯船の中で転びそうになる。

「危ない!」

 視界の端でピピが転びそうになった姿を見たアユムは、咄嗟に腕を伸ばして彼女を受け止めた。

「大丈夫?!」

 彼女の体重は軽いし、強くないとはいえ、運動系の部活で日々身体を鍛えているアユムであったから、倒れそうになったピピをきちんと支えることができた。

 できたのだが。

 さすがに、腕一本で受け止めることは無理だったため、身体も使って彼女を抱きとめた結果、ピピは、アユムの腕の中で身体を完全に預ける姿となっていた。

 アユムの鍛えた胸板と、ピピの柔らかな胸とが重なっている。

 彼女を転倒の危機から救ったものの、思わぬ形で密着することになったことに戸惑ったアユムは、ピピをきちんと立たせて、身体を離そうとした。

 だが。

 ピピは、両翼をアユムの背中へと回すと、離れたくないという意思を示すかのように、弱い力ながらも、きゅっと抱きついてくる。

 アユムは、重なりあった胸から、ピピの心臓の鼓動が、いつになく早いものになっていることに気付いた。

 それを言うなら自分もだ。

 ピピに抱きしめられたことで、それまでも多少は早くなっていた鼓動が、ピピのそれと近いくらいに早くなっていく。

 限界だった。

 アユムは、ピピと同様に、彼女の身体をそっと抱きしめると、意味は伝わらないことを承知の上で、彼女の耳元でささやいた。

「ピピ。僕、君のことが好きだよ」

 思いが伝わらないであろうからこそ、大胆な告白が出来たアユムだったが、ピピはさらに大胆だった。

 アユムの言葉のイントネーションと、彼の表情から、自分に向けられた好意を敏感に感じとったピピは、身長差を埋めるために、ちょっとだけ背伸びをすると。

 アユムの唇に、自分の唇を重ねた。

 ハーピィという種族全体が、好感情を持つ相手に対し、キスをするのかは不明であるが、少なくともピピは、自分の好意をキスという形でアユムに示したことになる。

 アユムは、ピピの思いに答えようと、彼女の頭をそっと撫で、微笑みを向けた後で。

 彼女がしてくれたように、自分の唇を、彼女のそれに重ねる。


 風呂場で裸のまま抱き合う二人だったが、このままでいては湯冷めしてしまいそうだった。名残惜しい気持ちはあるものの、まだかろうじて理性が残っていたアユムは、ピピを連れて脱衣所まで移動すると、バスタオルを取り出して彼女の身体を拭いていく。

 濡れた髪は仕方がないし、翼も水分を完全には拭きとれなかったが、身体については完璧に拭った。

 あとは服を着るだけでいいのだが、ピピは自分の着替えよりも、アユムの身体を拭くことを望んでいた。翼についた鉤爪を器用に使い、アユムから受け取ったバスタオルで、彼の身体を拭く。

 もちろん、彼女の手の構造上、アユムのように入念に拭くことなどできはしないのだが、その気持ちが嬉しい。

 しばらく彼女の思うままにさせていたアユムは、最後の仕上げとして自分の身体を拭くと、朝から準備していた室内着を着ようとした。

 だが。

 そんなアユムに、ピピはきゅっと抱きつくと、何かを訴えるような目で見る。

 風呂上りに裸で身を寄せ合う状況になった結果、アユムは、そこで彼女が何を望んでいるのかをようやく理解した。

 大人の男女としての仲だ。

 とはいえ、まだ高校三年生のアユムとしては、彼女の気持ちに対して、素直に応じてしまっていいのかという不安もある。

 責任を取れるか。という問題だ。

 正直な話、ピピとそういった関係になり、彼女が妊娠・出産となった場合、彼女とその子供を養えるかと言われれば、まったくもって自信はない。

 自信はないが。

 彼女と一緒に過ごしたあの日々の事を思えば、よほど酷い事態にならない限り、乗り越えられそうな気がする。さらに言えば、自分がピピに対して抱いている思いについては、偽りはないつもりだ。

 アユムは、覚悟を決めた。

 きゅっと抱きついて離れないピピの身体を、すっと抱え上げてお姫様抱っこの姿勢にすると、ピピの唇を奪う。

 恥ずかしそうに微笑むピピの笑顔を見て、心臓が激しく鼓動をうつ感覚を覚えたアユムは、彼女を抱きかかえたまま、自分の部屋へと移動した。




 たっぷり愛を交わした後。隣で幸せそうな表情を浮かべながら眠っているピピを見て、アユムは心が満たされていくのを感じた。

 そして、それと同時に、自分が漠然と抱いていた獣医という未来について、さらにはっきりとしたイメージが浮かんできた。

 ピピのような亜人を治療できる医師。

 無論、亜人を診療するのであれば、ヒトに対する医療の知識と、動物に対する医療の知識とが必要とされるようになる。そして、それは、簡単な道のりではない。

 だが。だからこそ、目指してみる価値はあるのではないだろうか。

 そんな固い決意を抱いたアユムだったが、彼は、直前に迫ったある問題について、まだきちんと意識できていなかった。

 両親に、ピピのことをどう説明するか。という問題だ。

 両親が帰ってくる当日になってそのことに気付き、どうしたものかと頭を悩ませることになるのだが、それは、もう少し先の話だった。

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鳥娘は舞い降りた。 RomeoAlpha @ryuichi_aisawa

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