第2話

 それから、アユムとハーピィの娘との奇妙な同居生活が始まった。

 鳥娘との共同生活を始める上で、まず最初に行ったことがある。

 彼女の名前を聞いたのだ。

 叔父が一通り説明してくれたおかげで、ヒトとして生活するための最低限のマナーや所作については、彼女はある程度は認識し、可能な限り対応してくれた。中身がアレな叔父にしては、実にナイスなサポートだった。

 だが、生活の基本的なマナーを教えるという配慮を見せた叔父だったが、一番大切なことを聞いていなかったし、教えてもくれなかった。

 それが、彼女の名前だった。

 一緒に生活するのだから、せめて、お互いのことは名前で呼び合いたい。

 そうなれば、自分で努力して聞き出すしかないではないか。

 アユムは、自分の胸に手を当ててから、彼女を目をじっと見ながら言った。

「僕は、アユム」

 次に、その手を彼女に向けて聞く。

「君は?」

 とはいえ、ヒトの言葉を理解しない彼女にとって、それはなかなか難しい質問だ。だが、アユムが幾度もその動作と質問を繰り返すうちに、彼女にもそれがどういう意図で行われているかが理解できたようだった。急に何かに気付いたような表情を浮かべると、実に元気な声で答えた。

「ピピ!」

 ようやく彼女とのコミュニケーションを成立させることができたアユムは、確認するためにも、再び彼女に手を向けて聞いた。

「君は、ピピ?」

 アユムの問いかけに、ピピは右の翼を自分の胸に当てて答える。

「ピピ」

「そうか。君の名前は、ピピって言うんだね」

 納得してうなずくアユムに対し、今度はピピが問いかける番だった。

 アユムの胸に右の翼にある鉤爪をあてると、彼の名前を紡ぐ。

「アユ、ム?」

 まさか自分の名前を呼ばれるとは思っていなかったアユムは、驚いた表情を浮かべながらも、笑顔で幾度もうなずきながら答えた。

「そう。アユム」

「アユム……」

 噛みしめるようにつぶやくピピの姿を見て、アユムは、お互いに名前で呼び合うことができそうだと、胸を撫でおろした。


 これで、お互いを名前で呼び合えるようにはなった。君としか呼べないよりは、はるかにマシだ。

 だが、ピピとの共同生活を送るうえでは、どうしようもないこともある。

 まず、手というか、翼の構造上、細かい作業は彼女にとっては難しい。着替えに食事、入浴といった、日々の生活の日常的な事ですら、一人では満足に行えないのだ。

 その結果、毎日の着替えは、アユムがすべてを着せてあげることになる。無論、下着もだ。

 ピピが身に着ける女性用の下着については、すべて叔父が買ってきてくれた。パステルカラーにフリルがついた、妙に可愛らしいものから、驚くほどシンプルなデザインでシックなカラーのものまで、様々なものが用意されている。

 ちなみに、ちょっと大胆なデザインのものがいくつか含まれていたが、アユムはそれを見なかったことにして、梱包をそっと閉じたまま、開けてもいない。

 当然だが、彼女が着る服の方も、叔父が手配をしてくれていた。

 着るのは夏場が相応しいのではないかと思えるような、脇が大きく開いた袖なしの服ばかりだ。だが、ピピの腕ないし翼の形状を考えると、これが正解のようにも思える。少なくとも、怪我をしている左翼については、ギプスで固定したこともあり、すんなりと通すことができる。彼女の負担もないし、楽でいい。

 ワンピースが多いが、シャツとスカートの組み合わせも混ざっていた。短パンの方が楽でいいのでは? と思うアユムであったが、叔父から「トイレとか、自分で脱ぎたいときに楽な方がいいでしょ。まったく、デリカシーないわね」と言われたときは、なるほどと納得しつつも、赤面せざるを得なかった。

 たしかに、トイレまでついて行って、彼女の服を脱がせてあげるなんて、自分も彼女も、恥ずかしすぎて出来そうにない。


 食事だって大変だ。

 毎回そうなのだが、ピピがあーんと口を開けたところに、アユムが箸やスプーンで食べさせてあげるような状態だ。そうしないと、皿に顔を突っ込んでかぶりつくような事態となってしまう。

 一方で、アユムにとっては、より好ましい環境になったともいえる。

 何しろ、一人でいるときは、面倒だからとコンビニやスーパーで弁当やら惣菜やらを買ってきて、それで済ませてしまっていた。

 アユム自身は、料理は嫌いではない。

 中学生になったあたりから「将来の一人暮らしに備えるため」と称して、両親から求められるがままに、調理の手伝いから始まって、自分で料理を作るところまで、一通りの経験をしたこともあり、自分の食事くらいなら、何とか作ることができるくらいの技術は身に着けている。

 もっとも、レパートリーは少ないし、料理本で手順を確認しながらじゃないと、作業がおぼつかない。その作業自体もちょっと雑で、切った具材の大きさがそろっておらず、見た目が悪かったりする。

 だが、そんなアユムの不器用な料理も、レシピから外れるようなことはしないので、味だけはそれなりのレベルで完成する。

 そして、ピピは、それを実に美味しそうに食べるのだ。

 まあ、普段が野性味あふれるワイルド・ライフであろうから、手の込んだ料理なんて食べたことがないのだろう。どれも新鮮で、どれも初めて経験するものだから、それが自然と表情になって現れてくる。

 自分の作った料理を、そんな風に嬉しそうに食べてくれる人がいるだけで、また料理をしてみようと思うのだから、アユムも単純だ。

 料理と言えば、ひとつ気になったことがある。

 彼女が鳥に近いということもあり、鶏肉は食べられるのかという問題だった。

 数少ないレパートリーの中から、絞り出すようにして選択したザンギこと、鳥のから揚げを作り終えてから、ふと気づいてしまったのだ。

 これは、共食いに等しいことになるのではないかと。

 アユムは身振り手振りでこれが鶏の肉であることを説明した。はたから見ていたら、鶏の真似をしてからザンギを指さすアユムの姿は実に滑稽であったろうが、アユム自身は真剣そのものだった。

 もっとも、ちゃんとその意図が伝わったのかは、いまひとつわかっていない。

 一応、アユムの説明に納得したような表情を見せた鳥娘だったが、気にすることなく口をあーんと広げて、アユムがザンギを食べさせてくれるのを待っていたからだ。

 だが、まあ、本人が気にしていないのだから、きっと大丈夫なのだろう。

 ということで、食材には鶏肉と卵が遠慮なく使われるようになった。

 最近では、フォークで突き刺して食べるくらいは、かろうじて自分で出来るようになってきたので、作った料理によっては、アユムの手をあまり煩わせずに、ピピ一人で食べることができる。


 入浴については、先に語った内容が繰り返されていると思ってもらえばよい。

 ピピの方に羞恥心はないのか、アユムに裸を見られても、特に恥ずかしがるような表情は見せない。

 まあ、普段から裸で生活しているのだから、そもそも裸を見られて恥ずかしいという概念が無いと言われれば、それもそうかと納得する面はある。

 むしろ、毎回、恥ずかしい思いをしているのはアユムの方だ。

 はっきり言うが、彼女の身体は、女性としては文句のつけようがない姿をしている。肌は白くてなめらかだし、胸や腰のくびれにヒップの丸みといった、彼女の体形が描く曲線はとても魅力的だ。

 そして、そんな彼女の裸体を見るだけではなく、実際に触れることになるのだから、男の子としては、下腹部にいる自分の分身が元気な姿を誇ってしまうのは、仕方がないことだ。

 仕方がないことなのだが。

 だからといって、彼女を性的な対象としてイタズラするようなことは、アユムにはできなかった。

 彼女の怪我を治してやりたいという、親切心もそうだったが。

 何よりも、今ではアユムのことを全面的に信頼してくれている、このハーピィの娘のことを、そんな形で裏切りたくはなかったからだ。


 ピピとの同居生活において、言語の習得という意味でいうと、アユムの完敗だった。もともと、叔父が言っていたように、ハーピィたちの言語では、発音以外にもイントネーションと表情が重要らしく、アユムが彼女の言葉を真似ても、なかなかうまく伝わらないのだ。

 彼女の理解が足りていないわけではないし、彼女が鳥頭で覚えられないということもない。むしろ、アユムが教えた言葉は完璧にマスターし、自分で使いこなせるようになってきている。

 挨拶や、日常生活に必要な何気ない単語を使い、アユムとの簡単な意思疎通くらいはできるのだ。

 それは、ゴハンとか、オフロとか、その程度のものだったが、彼女が何を欲しているのかがわかるし、アユムもそのおかげで、かなり救われている部分はある。

 やはり、互いの意思が通じないというのは、相当なストレスになるのだ。


 そんな生活も、二か月が過ぎた。

 外の雪はほとんど溶けて、日陰にわずかな残雪が見える程度でしかない。

 それだけの時間をかけたこともあり、ピピの翼の傷もようやく治ったところだ。患部を固定していたギプスを外すことが許された彼女は、叔父の手際の良さも手伝って、あっという間に元の姿を取り戻していた。

 最初は疑うように左の翼を動かしたピピも、痛みもなく、普通に動かせるという事実に驚いたようだった。そのまま外へと飛び出した彼女は、室内で動かしたよりもさらに翼に力を入れると、ゆっくりと羽ばたき始めた。

 ふわりと宙に浮いたのは、その直後だった。

 実に力強く、そして、美しい。

 飛べるという喜びに満ちあふれ、ぐるぐると旋回するように飛び回っていたピピは、そのまま、こちらを振り返るようなこともせず、実にあっさりと飛び去ってしまった。

 後には、アユムと叔父だけが残された。

「あっという間に、飛んで行っちゃったわね……」

 叔父のつぶやきに、アユムは小さくうなずいた。

 ピピと出会ってから今日まで、こうなることを望んでいたはずなのに。

 なぜか、寂しい。

 そんな気持ちを押し隠すように、アユムは叔父に向かってつぶやいた。

「よかったよ。彼女の怪我が治って。無事、ウチに帰れればいいけど……」

 アユムは、彼女が飛び去っていた空をじっと見つめると、ふるふると首を横に振って雑念を追い出してから、何とか胸を張って、家路についた。


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