第8話

 青年は鏡川の川っぺりで笛を鳴らした。

 老人のジンベエは手を振りながらやってきた。

 青年は言った。

「師匠、今週末に江戸へ旅立つぜよ! 江戸は千葉道場への留学が決まっちょ

る。北辰一刀流じゃ! あの千葉周作の道場ぜよ! 師匠! 今日はな、しばしの

別れを述べにきたんじゃ」

 ジンベエは嬉しかった。

 江戸へ留学するまでに育ったこと。

 なにより、遥かな昔の長宗我部侍が見事に完成したこと。

 ジンベエは、嬉しかった。

 これで、青年の母親も喜ぶであろう。

 これで、中万三郎左衛門に顔向けができる。

 まるで自分が使命を果たしたかのように、嬉しかった。

 ジンベエは青年に言った。

「今宵は飲みあかすべぇ。御仁、今宵はジンベエにとっても大事な夜だべ……。付き

合うてくれるな!」

「もちろんぜよ! 師匠、朝までといきましょう!」

 宴の用意はできていた。

 どぶろくに山盛りの川魚。見事な山菜に畑で拝借した野菜。

 二人は酒を交わし、語った。

 小さい頃の出会いから今までを存分に語った。

 そしてジンベエが言った。

「さぁて、御仁、そろそろ相撲でも取るべぇか」

「おうさ、師匠!」

 砂浜に土俵をつくり、二人は相撲を取った。

 四つに組み、体と体がぶつかり合う。

 青年はもろ肌脱ぎとなり、全力でジンベエの老体へぶつかってきた。

 ジンベエも負けじとツッパリで返す。

 二人は何度も勝ち、何度も負けた。

 そうしているうちに、声がしてきた。

「なにをしておる、ジンベエ殿!」

「おぉっ、中万殿!」

 ジンベエが中万三郎左衛門の顔を見つけ、歓喜の声をあげた。

「この若侍に負けておるではないか!」

 三左は言った。

 三左の霊魂が実体化し、姿を現したのだ。

「いやはや、もう老体だで仕方あるめぇべ、そろそろ勘弁してくんろ!」

「ワハハハ!」

 三左は大声で笑った。

 そして土俵に上がり、行事を務めた。

「シカラバ、シカラバ、のこったのこった、ワハハハ!!」

 三左は二人を煽るように、声をあげた。

 すると、次から次へと大勢の侍達が現われ始めた。

 そしてそれらは姿を現すと大声で土俵を囲んで騒ぎ、飲み始めた。

 青年は驚いた。

 どこからともなく大勢の侍達がやってきたのだ。

 青年はきっとこれが古の長宗我部侍だ、と直感した。

 そして感激した。

 たとえ霊魂であれ、古の長宗我部侍と一緒に時を過ごせるとは……。

 青年は何ともいえない幸福感に包まれた。

 至福の時であった。

 こんな気持ちの良い連中と、酒を酌み交わし、笑い合えるとは……。

「ジンベエ殿、ワシが代わろうぞ!」

 すくっと大柄な男が立ち上がり、ジンベエに代われと言った。

 ジンベエは嬉しそうにその男と代わった。

「では、ワシは一献いただくべぇか、大貫主計殿に任せるべ……」

 ジンベエはもうクタクタだった。

 そして楽しそうに土俵を見上げた。

 そんなジンベエの隣に三左が座り、ジンベエを労わるように酒を注いだ。

「ジンベエ殿、ご苦労であったなぁ……。実に長い間、ご苦労であった……」

 ジンベエは嬉しそうに酒を注がれ、土俵を見上げた。

 土俵では青年と大貫主計が対峙している。

「よしっ、東の横綱といわれたこの大貫主計が相手をしよう! 若造、名を名乗

れ!」

 大貫の名乗りを受けて、青年は満面の笑顔になった。

 そして、青年は名乗った。

「喜んでお相手願う! 拙者、坂本龍馬と申します!」

「おう、龍馬、腹からこんかい!」

「シカラバ、シカラバ、はっけよい、のこった!」

 宴は続いた。

 龍馬は何度も大貫に投げ飛ばされたが、何度も挑んだ。

 その都度、皆が喝采し、龍馬を励ました。

「負けるな、龍馬! 大貫なんぞ投げ飛ばしてしまえ!」

 ジンベエは人一倍声を張り上げた。

 龍馬は何度も挑んでは、跳ね返された。

 だが、ついに大貫のマワシを掴み、グイと押して、押して、土俵際まで追い詰め

た。

「いけ! 御仁! 負けちゃなんねぇだ! いくだ! 負けんな!」

「若造! いけ、押せ! 押せ!」

 土俵際はもう、龍馬を応援する声で溢れていた。

 龍馬はもう限界に近かったが、あらん限りの力で押した。

 すると、大貫がついに押し出された。

「やったー!」

「やったぁああ! 御仁、御仁! てぇしたもんだ! 御仁! ヒャアアア!」

 長宗我部侍達も、ジンベエももう狂喜乱舞であった。

 ジンベエは龍馬に飛びついて抱きつき喜んだ。

 負けた大貫も立ち上がると龍馬に言った。

「大した男ぜよ。土佐を任せたぞ。龍馬……」

 龍馬はジンベエに押されるように、倒れ込んでしまった。

 大貫はそう言うとスッと消えた。

 龍馬は歓喜の渦の中、自然と眠ってしまった。

 ジンベエも騒ぎ疲れたのか、倒れるように眠ってしまった。

 そんなジンベエを労わりの眼で三左は眺めた。

 体をやさしく撫でながら、三左は言った。

「やはりワシの見込んだ通り、ジンベエ殿は見事、我らの後継者を育ててくれた

わ。心から感謝し、礼を述べる。ジンベエ殿。長い間、本当に長い間、ご苦労だっ

た。我らの霊を労わり、慰め、後継者たる男を待ち続けてくれた事、重ね重ね礼を

述べる。ジンベエ殿。もう楽になりなされ……。そして我らと共に行きましょう。我

らが仲間ジンベエ殿。共に行きましょうぞ……」

 三左はそう言いながら消えていった。

 他の長宗我部侍達もジンベエに礼を述べ、消えていった。

 龍馬は遠くの意識でその光景を見ていた気がする。

 だが、気がつくと眠っていたようだ。

 日差しが眼に焼きつき、龍馬は眼をこすりながらモゾモゾと起きた。

 そして隣で寝ているジンベエを起こした。

「師匠、師匠、そろそろ、お時間ぜよ、師匠、師匠!」

 だが、ジンベエは二度と目覚めなかった。

 ジンベエは三左達と共に逝ったのだ。

 龍馬は師匠の死をいたく悲しみ、丁重に葬って別れを述べた。


 後年の龍馬の活躍は読者のご存知の通りである。

 大政奉還、船中八策、海援隊など史上稀に見るスケールで、歴史に登場する人物

である。

 そんな坂本龍馬は海が好きで、桂浜にも愛着があったという。

 ジンベエ達との夜の事は、生涯口外しなかった。

だが、彼は土佐に帰ると桂浜に出た。

 海を見てジンベエ達を偲んだのであろう。


 さて、冒頭の『上士水死事件』の犯人がジンベエであるかどうか。

 真実は未だ闇の中だが、筆者にはどうしてもジンベエが犯人とは思えないのであ

る。

 ただ、言えることは、三百年間をかけて成熟させた長宗我部侍達の想いは、ジン

ベエという媒体を経て、坂本龍馬という人物を育てあげたのである。

 まさに歴史のロマンと言えるであろう。



 【完】

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

河童 らも @ramo_rock

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る