とある主任と謀議(6)

 エレベータが古めかしい音で指示した階に到着したことを教えてくれたので、開いた扉の先にあるせた深紅色のじゅうたんの上を歩いて、五丘労働組合いつおかろうどうくみあいの委員長室を目指した。

 ドアを三回ノックすると即座に怒鳴るような大声が返って来たので、そのままきびすを返して帰りたくなったが、そこは我慢して、きれいな空気を大きく吸い込んで中に入った。

 予想した通り、目と鼻をタバコの刺激が襲ってきたが、構わず挨拶あいさつをして頭を下げた。

 短い銀髪の老人が挨拶を返してくれた後にソファを勧めてくれた。

 ここで遠慮するしぐさを見せるだけで機嫌が一気にわるくなるので、すぐに坐らなければならいのだが、その前に机でキーボードを叩き続けている秘書さんに声をかけたところ、しゃくだけが返って来た。

 なぜなら彼女は両手だけでなく、くわえタバコで口もふさがっていたからだった。

 日本のオフィスではすでに絶滅したはずの光景がそこにはあった。

 このご時世に、そんなにキーボードを叩き続ける仕事もそうそうないと思うのだが、とくに組合の秘書が。

 しかし、彼女には組合の女帝という二つ名とともに、かがいんちょうを裏で操っているといううわさがあるので、だれも聞くことができない。

 まあ、そのうわさを流している下世話な人間のひとりが僕なのだが。

 雑談へ入る前に、話が長くなるのを牽制けんせいするため、架空の用事があることを告げようとしたところ、なぜか委員長が握手を求めて来た。

 意図が分からなかったがとりあえず手を差し出したところ、彼は小柄な老人とは思えぬ力で僕の手を握りながら、「おめでとう」と破顔した。

 話が読めなくて困惑している僕をよそに、老人はソファに深く腰を下ろして、タバコに火をつけはじめた。

 旧本社のビル内は原則禁煙であったが、組合の管轄かんかつにあるこの部屋だけは治外法権で話が別であった。

 老人に勧められて彼のタバコを一本もらった。

 この部屋では、タバコを咥えているほうがフィルターを通す分だけ、肺への被害が少ない気がする。

「本人は、人さまからお祝いされることがあった記憶はないのですが?」

「そりゃそうさ。まだ佳南子かなこにも話は降りていないんじゃないか」

 「何ですか」と言いながらタバコに火をつけ、鼻から空気を吸ったタイミングで「係長に昇格らしいぞ。追加の人事異動で」と老人がささやいたものだから、驚いて盛大にむせてしまった。

 煙草の煙が変なところに入ってしまい苦しかったが、それどころの話ではない。

 この時期に異動なしの昇格などはありえなかった。

 どこに飛ばされ、いや異動になるのだろう。

 涙目になりながら、「どこなんですか?」と実に楽しそうな委員長に尋ねたが教えてくれない。

 最初ははぐらかしているのかと思ったが、どうやら本当に忘れてしまったようであった。

 これだからじいさんは困る。

「思い出した。あそこだ。ほら、新しくできた、新本社の新規事業推進課。あの生意気な龍山たつやまの下とはお前も大変だな。がんばれよ」

 委員長の枯れた声が脳内に届くと同時にさいみ始めた僕は、状況を把握することができず混乱した。

 エリートが集まる部署に入って、僕が何をするのか。

 掃除ぐらいしかできることはないぞ。

 後頭部の両側面が焼けるように熱くなったので抑えていると、秘書がコーヒーを片手に近づいて来た。

 のんきにコーヒーを飲んでいる場合ではないので遠慮しようとした矢先、秘書はカップを自分の口につけた。

「おじいちゃん、そんなわけないじゃない。この子は佳南子さんのかわいいワンコくんなんだから。新規事業推進課になんて、女どもが入れるわけないわよ」

 女帝に訂正されると、老人は高笑いの後、僕に拝むしぐさを見せながら「すまん、すまん」と謝った。

「でも、似たような名前の部署だったぞ。何だか聞いたことのない」

「ワンコくんが行くのは、総務部の新規企画推進室」

 気管支の痛みがようやく収まったところで、今度は頭の中がクエスチョンマークでいっぱいになった。

 老人から奪ったタバコに火をつけている秘書を見上げて僕はたずねた。

「そこは何をするところですか?」

「それは私も知らないわ。本当にあるのかしらね。そんな部署」

 品よく笑う秘書に、フフフじゃないよと心の底から思った。

「だれがこんな迷惑……、いや、ありがたいことに僕を推してくれたんですか。そうちょうではないんですよね?」

「それはないな。佳南子の父親が許さないよ」

 「ずいぶん嫌われているらしいじゃない」と秘書さんが口を挟んで来たが無視をして、疑いの目を委員長に向けた。

 すると彼は首を横に振り自分ではないことを示した後、「会長だよ」とあっさり犯人を教えてくれた。

 その名が耳に響くと、フェニクアで会った華麗な女性の姿が脳内に浮かんだ。

 そういえばあの時、彼女は狐を思わせる仮面をつけていたな……。

 あのきつねめ、余計なことを!

「そうだ。思い出した。博物館の事務局長がコロリと逝った件で人事の玉突きが起きてな。結局、その何とか室の係長の席は埋まらなかったらしい。まあ、いなくても仕事は回るからと役員会に空席で人事案を出したところ……」

「会長が余計……、いや、僕の名前を挙げていただいたと」

「ちょうど良い人材がいると言い出してな。桐尾の当主は承認するだけで人事には関わらない慣例だが、まあ、係長クラスならたまには構わないだろうと役員たちも耳を傾けたらしい。そこで……」

 秘書さんのまねをして、僕も長机の上に置かれていた委員長のタバコを勝手に咥え、火を点けた。

「それでなあ、落ち着いて聞けよ」

「大丈夫ですよ。もう驚き疲れてますから。何ですか?」

「この前の現場巡回の時に会長はお前さんを気に入ったらしいんだが」

「ええ、まあ、そこからの流れでなんしょうね。普通に考えれば」

「それで、どうもお前さんの名前をおぼえていなかったようでな。役員会に参加していた佳南子の父親に向かって」

 ちょっと待って。続きを聞きたくない、この話。

「佳南子の男はどうだと言い放ったらしい。……おい、大丈夫か。顔が能面みたいに真っ白だぞ」

 委員長と秘書さんが心配そうに見つめる中、僕は無感情のまま、ゆっくりとタバコを味わった。

 最悪過ぎる状況に置かれると人は言葉を失くし、ただただ目の前の快楽に逃げ込むしかなくなる。

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紅晶物語 青切 @aogiri

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