第3作「つかれた男」

寒空の下、一人の男が夜道を歩いている。月はそれを、何を思うでもなく、ずっと、みている。

 深く息を吸い、大きく吐き出す。凍えるような空気が、肺のなかに染み入り、うつろな意識を呼び覚ます。

 なぜ、彷徨う。

 こんなところ、歩き回っていても何も見つからない。

 なぜ、戸惑う。

 こんなところ、気にしていたって仕方がない。

 なぜ、贖う。

 こんなところ、そもそも人の一人も存在しない。


 寒空の下、一人の男が夜道を歩いている。月はそれを、何を思うでもなく、ずっと、みている。

 「繰り返す」ということは、それだけ未練があるということだ。その言葉の一字一句には、断ち切れない思いが意地汚く引っかかり、振り落とされないようにしがみついている。

 手が震える。寒さのためか、己のしたことのためか、どちらか分からなかった。


 *


 一瞬だった。使い古したナイフを首に突き刺し、時計回りに捻る。ただそれだけの動作で、10年の憎しみはついに殺人をなし得た。

「はっ……、ははっ……!」

 恐れとも喜びともつかぬ感情に口が歪む。

 歪む? あれ、おかしい。だって、まだ死んでいたはずでは? 

 何を言っているんだ。死んでいるに決まっている。

 というより、


 自分が何を考えているのか分からなくなる。自分の身体に、もう一人別の人間がいるみたいだ。

 思考はつぎはぎで、胸に去来していた憎しみは、どこか他人のもののようにさえ思える。

 気持ちが悪い。とにかく、この場から逃げ出したい。

 男は走り出した。行く当てもないが、とにかくその場から離れたかった。

 夜風が身にしみる。走れば走るほど、身体はエネルギーを消費して温かくなっていくはずなのに、顔をなぜる空気が肌の表面だけでなく、心の温度も冷却していく。

 ぐちゃぐちゃだった思考は、どんどんと明瞭になっていく。

「俺は、何をした……!」

 泣きそうな声を出しながら、走り続ける。

「俺じゃない、俺じゃない……!」

 そう、信じたいがために、何度も繰り返した。


 *


 遠くへ走り去る人影。それを見つめる者がいた。

 形あれど、影はなし。街灯に照らされた長身は、なぜか路面に光を通す。身に纏う薄衣をはためかせながら、それは移動を開始した。

 目指す場所はあの森。

 闇深く、光無き者が集う戒めの森。

 魅入られた者は、誰一人として、その双眸からは逃れ得ない。


「どこ、だ……、ここは」

 気がつくと、男は深い森の中にいた。

 泣きはらした目が、充血している。ほおに流れた涙は乾き、喉からは喘鳴があふれ出している。

 走っているあいだ、ずっと男は考え続けていた。考え続けてもなお、男は自分のやったことを理解できそうにはなかった。

 だって、あの殺意は自分のものではなかったのだから。


 樹冠が月光を遮り、男は闇をさまよい続ける。震えながら歩いていた男だったが、

「誰だ……!?」

かさり、と落ち葉を踏む自分以外の足音を聞き、半ば悲鳴のような声をあげながら来た道を振り返った。

 当然、そこには誰もいない。男のほかに、この森に足を踏み入れた者はいない。

 男は息を殺し、耳を澄ませた。

 遠鳴りのように響く梟の声。

 どこにいるのかとあたりの音に気を回しても、自分の早鐘のような心臓が邪魔をする。

「なんなんだ、なんなんだよ――」

かさり。

 また、音がした。

 かさり、かさかさ。

 男は狂乱し、握りしめた血塗れのナイフを振り回す。何もかもを忘れようとするかのように暴れ回るが――

 かさり。

 落ち葉を踏む音が自分のがなり声に重なって聞こえてくる。

「ふざけっ――」

 落ち葉に足を取られ、地面に倒れ伏す。

 男が震える手で身体を起こすと、自分の足跡が目に入った。

 形は崩れているが、これは確かに自分の足跡だろう。なんとなしに、男は自分の足跡を目で辿る。

 足跡はふらふらと左右に揺れながら、ここまで続いている。自分だけ。この森に入ったのは自分だけのはずだ。だからこそ、

「なんで、足跡が続いているんだ――」

誰かの足跡を見て、動けなくなってしまった。

 かさり、かさり、かさり。

 男は振り返る。これから自分が歩いて行こうとした道を見る。

 のを、男は確かにみた。

 足跡はまるで後ろ歩きをしているかのように、かかとをこちらに向けて近づいていくる。

 もう、動けない。

 手足は石のように硬くなり、思考は恐怖に囚われた。

 かさり。かさり。かさ。

 足跡がぴったりと、自分の一歩前で止まる。

 男が自らの元にやってきた足跡を目で辿ると、そこには、

「は――」

 首から血を吹き出しながら倒れている自分自身の姿と、影そのもののような長身の何かがいた。

 それがゆっくりとこちらに振り返る。

 それの赤い目を見た次の瞬間には、男の首から血があふれ出していた。


 意識が遠くなる。

 かさり。かさり。

 それは歩き出した。

 目の前につけられた足跡を一歩一歩、辿るように歩いている。

 いや、辿るようにというよりは、もともとあの足跡はまるであれがつけたかのように、その歩幅は意識せずとも一致していた。


 男のすべてが流れ出すころには、その背中は見えなくなっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

猿烏帽子的短編集 猿烏帽子 @mrn69

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ