第2話 戦い
暗闇に、二つの足音が響く。
子供でも頭をぶつけそうなほど狭い洞窟を、延々と進む。
じめじめとした空気が気持ち悪い。
ユリウスは震えていた。
前を歩かせているせいで、怯えた姿が嫌でも目に入る。
不思議な子供だ、と思う。
怖がっていたかと思えば真っ直ぐ突っ込んできて、かと思えばまた怯えている。
ユリウスを見ていると、どうにも昔の自分を思い出す。
まだ雲の向こうを夢見ていた頃の自分のことを。
心の奥底が疼く。
諦めたはずの願いがぽっこりと顔を出す。
首を振る。
これ以上考えてはいけない。
なんとなくそう感じた。
他のことに思考を向ける。
そういえば、あんな怪物のでてくる詩を聞いたことがある。
羽のある蛇。滅びの炎。
世界を滅ぼそうとした末、どこかの火山に封印された竜の怪物。
一瞬だけ見た、あの竜の瞳を思い出す。
憎悪と憤怒を煮詰めたような色をしていた、あの瞳を。
もしかしたら、その詩にでてくる竜なのかもしれない。
まあ、世界が滅ぼうと、街が壊されようと、私にできることはなにもない。
私では決して、あれには勝てない。
拳を握り締める。
分かっているはずなのに、焦燥が募っていく。
洞窟が途切れて階段が現れる。外に出ると、そこは鬱蒼と茂った森のなかだった。
風が吹きすさぶ。雨が殴りかかってくる。
いつの間にか外は嵐に覆われていた。
東を見ると、街が燃えていた。
家も、通りも、赤黒い炎のなかで焼かれていく。
城は崩れ、その残骸の上で竜が暴れていた。
炎の海から黒い影が舞い上がる。
これだけ離れていても気配をさとったらしい。
逃げようとした足が、動かなかった。
私のなかにあるなにかが、逃げることを許さかった。
竜がみるみると近付いてくる。
速い。
もう、二人ともは逃げきれない。
思わず笑みがこぼれた。
いつの間にか握りしめていた拳から力を抜く。
ユリウスが袖を引っ張る。
振り返ると心配そうな顔があった。
その手を外す。
「行け。森の中なら多少は安全だ」
「アレスはどうするんだ」
意図を見極めようとするかのように細められた目を、真っ向から見つめ返す。
「私には、やることがある。
やらなければいけないことがある」
確固たる覚悟を見てとったのか、ユリウスの顔つきが変わる。子供の顔から、王族の顔へと。
預かっていた剣を懐から取り出す。
「汝の王国に光がささんことを」
ユリウスは、差し出された剣を、少しためらって手に取る。
その手は、しっかりと剣の重さを受け止めていた。
視線が交わる。
沈黙のなかで、別れの言葉が交わされる。
竜の翼の音が聞こえてきた。
もう、時間だ。
「カエラムの加護があらんことを」
最後にそう言って、ユリウスは走り去っていった。
その背は森の暗闇のなかに溶け、やがて余韻も消え失せた。
少し歩いてひらけた場所にでる。
空を見上げると、真っ黒な雲が天を覆い尽くしていた。
その空を、巨大な影が隠す。
その体は鎧のような鱗に覆われ、その爪牙はまるで剣のよう。
炎を吐き、空を飛び、城を壊す。
人では、あんな怪物には勝てない。
一目でそうわかる。
きっと諦めた方が賢明なのだろう。
私は、あの街をずっと守ってきた。
いつか、空が晴れると信じていた。
五年が過ぎ、十年が過ぎた。
人が次々といなくなって、ついには私一人になった。
いつしか私は、空を夢見ることを諦めた。
そして城を出た。あの城には思い出がつまりすぎていた。
だから、滅びゆく街の中で、一人静かに暮らしていくつもりだった。
向かいに、竜が降り立つ。
結局、私はこの願いを諦めきれなかった。
どうしても、この望みを叶えたかった。
だったら挑もう。
この命と誇りをかけて、抱いた夢を叶えよう。
竜の咆哮が、世界を揺らす。
震えが走る。
血が沸き立つ。
静かな興奮が、身体中を駆け巡る。
剣を抜き放ち、雨の中に朗々と名乗りをあげる。
「我が名はアレクシウス・ベオウルフ・エドゥアール・マルクス。
マルクス家が当主にしてこの大地を守る者」
真っ赤な瞳を、今度は睨みつける。
「炎の竜よ、来るがいい」
剣を構える。
神経を研ぎ澄ます。
音が、消えた。
風の唸りも、鳴り止まない雨音も。
音のない世界で、私と竜の吐息だけが、やけに大きく響いていた。
睨み合いながら、じりじりと間合いを詰める。
大気が、痛いほどに緊張していた。
突然、竜が口を開ける。
張り詰めた糸が弾け飛ぶ。
瞬間、私は駆け出した。
眼前に広がる灼熱の炎に、雨に濡れた上着をかざす。
ジュッという音とともに、上着が一瞬で灰になった。
だがその役割は十分に果たした。
逸れた炎の下をかいくぐり、その懐に飛び込む。
開いた口に向かって振りあげた剣が、籠手もまとわぬ腕に弾かれた。
その鱗には、傷一つついていない。
弾いた勢いのまま、腕が払われる。
受け流そうとした瞬間、衝撃が走った。
あまりの力に、体勢が崩れる。
すかさず繰りだされた牙から、咄嗟に急所を庇う。
焼け付くような痛みが、肩口から広がった。
歯を食いしばって、伸びきった首の下に潜り込む。
刹那、稲光が暗闇を照らした。
浮かび上がった鱗、その最も薄い場所に、裂帛の気合とともに剣を突き出す。
竜の首元から、一筋の鮮血が流れ落ちた。
鱗は貫いた。
だが、致命傷には届かなかった。
思わず舌を打ち鳴らす。
傷など負ったことがなかったのだろう。
擦り切れた金属のような悲鳴とともに、竜の巨体が暴れだす。
その体が僅かに浮く。
飛ぼうとしている。
そう気がついた瞬間、私はその足首にしがみついていた。
下に引っ張られるような、不思議な感覚に襲われる。
足元を見ると、地面がどんどんと離れていた。
すぐ近くを稲妻が通り過ぎる。
思わず上を見上げると、その先には荒れ狂う嵐の空が広がっていた。
竜は、渦巻く雲の只中に突っ込んだ。
叩きつけるような風に、一瞬息がつまる。
鱗の凹凸に、必死でしがみつく。
浮いたかと思えば沈み、かと思えば旋回する。
そんななか、剣だけは離すまいときつく握り締める。
足が宙を泳ぐ。
鱗を掴もうとした手が空を切った。
気がつけば猛烈な風に、体が浮いていた。
目の前を、竜の背中が通り過ぎる。
とっさに手を伸ばす。
ねじくれた棘に、指が引っかかった。
そのまま抱きつくようにして、体を引き戻す。
無事だとわかった瞬間、嫌な汗がどっとあふれた。
まだ剣を握っていることを確認して、安堵する。
試しに剣で鱗を突き刺してみるも、こんな体勢では歯が立たない。
首元を見る。
あそこならば刃も刺さるかもしれない。
目の前で迸った雷光が、一瞬で後ろに流れ去る。
そんな光景を目の端で捉えながら、突起を伝って背中を進む。
全身が熱かった。
まるで内側から焼かれているようだった。
かと思えば、次の瞬間には吐き気を催す悪寒に襲われる。
ずきずきと痛む肩の傷に、手を当てる。
あの牙に、毒があったのだ。
風がきつい。
鱗が雨で滑る。
這うようにして進むも、歩は遅々として進まない。
徐々に手足の感覚が消えていく。
命が毒に蝕まれる。
もう、時間がない。
一瞬、手の力が緩んだ。
剣が手のひらからこぼれ落ちる。
剣は、あたりを覆う黒雲にのまれて、消えていった。
剣がなければ、とどめをさせない。
これまでの全てが、無駄になる。
呆然と、暗い空を仰ぎ見る。
天は黒い雲に閉ざされていた。
私は、彼方の光に憧れた。
光差す世界に恋い焦がれた。
届かないと知っていてなお、手を伸ばさずにはいられなかった。
腹の奥底から、熱が湧き上がってくる。
拳を握る。
まだ体は動く。
もう一度歩みだす。
棘が途切れる。
ついに、首にたどり着いた。
鱗をとっかかりにして喉の方に降りる。
本能で危機を察したのか、いよいよもって竜が暴れる。
首を振り、腕を無茶苦茶に回す。
爪が、脇腹を抉った。
傷口から、どくどくと血が流れでる。
やっと喉元にたどり着いた。
もう、視界が霞んでいる。
だが、その場所だけはやけにはっきりと見えた。
私が作った傷口。
そこだけは鱗に覆われていない。
狙いを定めて、拳を振り上げる。
竜が甲高い鳴き声を上げる。
その瞬間、稲妻が全身を貫いた。
手足から力が抜ける。
体が竜から剥がれる。
時間がいやにゆっくりと感じられた。
歯を、くいしばる。
全身を満たす熱が、体を動かした。
鱗を引っ掴み、全霊を込めて拳を振り下ろす。
肉は、柔らかかった。阻む鱗もなく、その拳は喉の奥深くへと潜り込む。
竜の体が痙攣した。
翼が力を失い、巨大な図体が、大地に向かって墜ち始める。
完全に力を失った腕が、竜から離れた。
吹きすさぶ風に、体がさらわれる。
暗闇の彼方に消えていく竜の影を眺めながら、静かに目を閉じる。
もう、体の感覚がない。
ただ、心地よい疲労と満足に満たされていた。
意識が少しづつ薄れていく。
その瞬間、強烈な光が瞼の向こうから差し込んだ。
何事かと目を開けて、その光景に目を見開く。
青かった。透き通るような青が、どこまでも広がっていた。
下を見れば、山吹色に染まった雲が、見渡す限り続いている。
その彼方にぽつんと、黄金色の輝きが浮かんでいた。
温かな日差しが、傷ついた体に染み渡る。
その光は眩しくて、温かで、とても美しかった。
あまりにも綺麗な光景に、息をするのも忘れて眺め入る。
私は、たどり着いたのだ。
実感とともに、くすぐったさが湧き上がってきた。
思わず喉を鳴らす。
いろいろな感情がごちゃ混ぜになって、だけどそれは全く不快ではなくて。
堪えきれずに失笑する。
一度笑いだすと止まらなかった。
体のどこにそんな力が残っていたのか、腹を抱えて笑い転げる。
天空の世界に、子供のような笑い声が、いつまでも響いていた
灰に覆われた大地に、軽い足音が響く。
長い距離を歩いてきたのだろう。
その靴はぼろぼろで、しかしその足取りは、どこか嬉しそうだった。
崩れた石壁の前で、足音は止まる。
腰に下げた剣が、澄んだ音を立てた。
「アレス、久しぶり。
もう、どれくらいになるのかな」
その声は、もう立派に大人になっていて、口調も少し変わっていた。
「あれから、いろんなことがあったんだ。
人を集めて、畑を作って、家を建てて。
最近は遠くからも、食料と寝床を求めて人がやって来るんだ。
僕もいつの間にか、長なんて呼ばれてて。
きっと、ここまでこられたのもアレスのおかげだ。
あの日見た背中が、ずっと僕を支えてくれた。
だから今日は、お礼を言いに来たんだ。
ありがとう」
伏せていた顔をあげると、人影は明るい声で話を続ける。
「そうそう、今日は結婚の報告に来たんだ。
相手は鍛冶屋の娘さんでね、笑顔がとっても可愛いんだ。
空から、見守っててくれると嬉しいな。
話はこれでお終い。
それじゃあ、さようなら」
そう言って、人影は身を翻す。
舞い上がった灰のなかから、緑の新芽が顔を出した。
空は相変わらず灰色の雲に覆われている。
だが地上には、新たな芽が芽吹こうとしていた。
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