灰色の世界
vxs
第1話 灰色の世界
空は、のっぺりとした分厚い雲に覆われていた。
天から僅かに溢れ落ちた光が、地上を灰色に染め上げる。
遠くの森も、がらんどうの街も、崩れかけた城も、全ては薄闇に包まれていた。
二十年ほど前、エトナ山が大噴火を起こしたそうだ。
世界は灰の雲に覆われ、飢餓と混乱によって多くの命が露と消えた。
それ以来、天はずっと雲の彼方に隠れている。
空を見上げる。
今日も曇りだった。
私はあの雲の向こう側を知らない。
物心ついたときにはもう、空は灰で閉ざされていた。
だが、青空の広がる世界の物語は聞いたことがあった。
大地は麦の穂で埋め尽くされ、人々が陽の下で生を謳歌する、そんな世界の物語。
青天というものを見てみたい。
あの空の向こうに広がる世界に行ってみたい。
幼心にそう思った。
二十年、雲は一向に薄れる気配を見せない。
多くが死に、残りは去った。
飢饉と混乱も最近は消えつつある。
もう、人がいないのだ。
子供の頃に抱いた願いは、いつしか諦観へと変わっていた。
一つ、深く息をはいて気持ちを切り替える。
雲行きが怪しい。
雨が降るのかもしれない。
街で一番高い時計塔から駆け降りる。
降ってくる前に、今日の食べ物を見つけなければ。
閑散とした町並みを巡り、罠を確認していく。
鼠や鳥が主な獲物だ。
首を絞めて巾着に入れ、また罠を張り直す。
今日はやけに収穫が少なかった。
いつもは矢鱈と目にする小さな影も見当たらない。
物音一つしない街は、どこか不気味だった。
漠然とした不安を抱えながら石畳の通りを急ぐ。
神経を張り巡らせていたからだろう。
微かな異臭を感じて足を止める。
何かが焼けるような匂い。
周囲を見回し、一筋の煙を見つけた。
焚き火の煙だ。
この街には私一人しか住んでいない。
きっと誰かが外からやってきたのだろう。
寝床を探しに来たのならいいが、略奪でもしに来たのなら戦わなければならない。
煙が近づいてきた。
腰の剣に手をかける。
曲がり角に身を隠して、そっと様子を覗き見る。
広場の中心に一人、擦り切れた服をまとった子供がいた。
焚き火にかけた鍋をかき回している。
隣には小さな荷物が転がっていた。
どうやら同行者はいないらしい。
あまり危険はなさそうだと判断して、物陰から歩み出る。
子供は目を見開くと慌てて立ち上がった。
そのとき、上着の隙間から剣の柄が覗く。
にわかに警戒を強めながら誰何する。
「私はアレス、この地の主だ。
何をしにここに来た」
怖いのか、子供は震えていた。
だが、その目はしっかりと私を見ている。
「ここは、マルクス伯の領地だったはずだ。
僕は彼に会いに来た」
唐突に出てきた名前に、眉をしかめる。
「マルクス伯は死んだ。
用がそれだけなら私は行く」
子供に背を向けてとっとと歩き始める。
ただの子供だ。
ほおっておいても害にはならないだろう。
背中を、小さな手が掴む。
「待て。死んだとはどういうことだ」
振り返ると、子供が驚愕に顔を歪ませていた。
さっきまでの怖がりようはどこへいったのか、上着を離すまいと必死に握っている。
その勢いにたじろぎながら、とりあえず肩に手をのせる。
「少し落ち着け。私は逃げないから」
動転する子供を宥めて、とりあえず焚き火のそばに座らせた。
その向かいに私も腰を下ろす。
鍋の中ではスープがいい具合に出来上がっていた。
「それで、なんでマルクス伯は……いないんだ」
まだ死んだことが受け入れられないのか、子供は言葉を彷徨わせた後そういった。
どうも話を聞くまで動きそうにない。
かといってただで話すのも癪に障る。
ふと、先ほどちらりと見えた剣のことを思い出す。
貧しい装いの中で、明らかにその剣だけが異質だった。
「その腰の剣を見せてみろ。そうしたら話してやる」
唯一だろう武器が、なんの躊躇いもなく差し出される。
あまりの潔さに思わずため息をつくと、私は話し始めた。
「向こうに崩れかけた城が見えるだろう。
エトナ山が噴火したときに大きな岩が天から落ちてきたんだ。
伯とまだ赤子だった伯の息子は、運悪くその下敷きになった。
生き残った家臣も散り散りになって、今はもう誰もいない」
まあ聞いた話だが、と締めくくる。
子供を見ると、少しは現実感が湧いてきたのか、呆然と焚き火を見つめていた。
炎が揺らめく。いつの間にか風が強くなっていた。
上着のえりを寄せあわせると、今度は子供に質問する。
「お前、名前は」
「ユリウス」
「で、なんでマルクス伯を訪ねてきたんだ」
まだ気持ちが整理しきれないのか、ユリウスは黙りこくる。
その答えを気長に待ちながら、私は剣の見分を始めることにした。
どうにも、どこかで似たものを見たことがあるような気がするのだ。
形は一般的な剣だ。
古いが手入れは行き届いている。
鞘は豪華だ。
繊細な彫刻と金の装飾が施されている。
かといって実用を妨げるような要素は見当たらない。
高貴な者が戦場に立つときに身につけるものだ。
一度視線を上げて、ユリウスを観察する。
よく見れば、痩せているが発育はいい。
装いも、薄汚れてはいるが元は上等だ。
もしかしたら、高貴な生まれなのかもしれない。
鞘から剣を抜く。
鋭利な輝きを宿した刃に目を見張る。
相当な業物だろう。
刃こぼれはない。
使われる機会には恵まれていないようだ。
剣身には文字が刻まれていた。
少々古いものだが読めないこともない。
「炎は眠る 地の底に」
裏返すとそこにも文字はあった。
「天は閉ざされ 炎は目覚める」
古くから伝わる詩の一節だ。
そういえば、聞いたことがある。
カエラムの剣。
大噴火の前、この地を治めていた王族に、代々同じ文句が刻まれた剣が伝わっていたはずだ。
おそるおそる顔をあげると、ユリウスと目があった。
まじまじと見つめ合う。
先に目を逸らしたのは私だった。
向こうはなにやら一人で頷いている。
「さっきの質問に答えよう」
突然、雰囲気が変わる。
口を開いたユリウスは、真剣な顔で語り始めた。
「父上が、マルクス伯と知り合いだったそうだ。
育ての親からよく、子守唄代わりに伯の武勇伝を聞かされた。
北の蛮族を打ち破った話。
洞窟に潜って財宝を見つけた話。
蛇の怪物と戦って絞め殺した話」
遠い日々を懐かしむように、目が細められる。
思い出から戻ってくると、訴えかけるような目つきで私を見る。
「僕は、王国を再建したかったのだ。
飢えや病、そんなものに怯えなくてもいい場所を作りたかった。
でも、僕にはその力がなかった。
だんだんと人が消えていった。
最後には、誰一人いなくなった」
絞り出すような声だった。
「僕だけでは、なにもできなかった。
でも、マルクス伯の助けがあれば、なんとかできるのではないか、そう思った」
曇りのない瞳に、思わず目を細める。
「本当に、マルクス伯はいないのだな」
その質問に、私は答えられなかった。
いつの間にか焚き火の火が消えていた。
鍋からは焦げ臭い臭いが漂っている。
視線をそらして空を見上げると、真上に黒い雲が浮かんでいた。
灰色の雲のなかで、そこだけが異様に暗かった。
見ていると、小さかった黒雲はみるみる大きくなり、次第に渦を巻き始める。
隣から息を飲む音が聞こえた。
どうやらユリウスも気がついたらしい。
雷鳴が轟く。
湿った風が肌を撫でる。
私たちは急いで荷物を片付けると、近くの軒先に避難した。
固唾を飲んで注視していると、雲の渦の中心に赤い光が現れる。
はじめは小さかった光は、徐々に大きくなっていく。
得体の知れないなにかに、肌が粟立つ。
それは影だった。
巨大ななにかの影だった。
雲が乱れる。
空が真っ赤に染まる。
そしてついに、それは雲を突き破った。
それは、蜥蜴の化け物に翼をつけたような怪物だった。
背中にはねじくれた棘を背負い、口からは禍々しい牙を突き出している。
怪物が、真っ赤な炎をまといながら落ちてくる。
それをみた瞬間、私は駆け出していた。
唖然としていたユリウスも、はっとして後に続く。
崩れかけた城に向かう。
あそこなら少しは安全だ。
裏道を抜け、狭い路地を駆け抜ける。
ここは私の庭だ。
道は知り尽くしている。
最短のコースをひた走る。
首の後ろをチリチリとした熱が焦がす。
怪物は刻一刻と迫っていた。
冷たいものが、首筋を流れ落ちる。
崩れた城壁の残骸を飛び越え、城の壁のなかに走り込む。
その瞬間、大地が揺れた。
遅れて、拳大の石が天から地上に降り注ぐ。
頭を抱えてうずくまっていると、しばらくして静けさが戻ってきた。
息を整えて、周囲を見回す。
埃の積もった石の床。
壁際に並べられた彫像たち。
静謐な空気に包まれたそこは、昔となにも変わっていなかった。
懐かしさがこみ上げる。
ユリウスはすぐ近くにいた。
どうやら二人とも無事にたどり着けたらしい。
窓から外を覗くと、怪物が翼を広げて空中に浮いていた。
その下にあったはずの広場は、跡形もなく消し飛んでいる。
怪物が口から火を吹く。
辛うじて原型をとどめていた家が、炎に包まれて崩れ落ちる。
火の粉が風にさらわれて、あっという間に街が炎にのまれていく。
呆然とその光景を眺める。
生まれてからずっと、この街で暮らしてきた。
誰もいなくなっても、この地をただ一人守ってきた。
怪物が首を巡らせて、こちらを向く。
その瞳は、まるで血のように赤かった。
とっさに窓際に身を隠す。
気づかれただろうか。
いや、どちらにしても、炎がまわればここにもいられなくなる。
最後に、城の中を眺め回す。
燭台の彫刻、壁のひび割れ、一つ一つを目に収めていく。
深く息を吐いて、腹を据える。
「ユリウス、城の地下に秘密の抜け道がある。
逃げよう」
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