第28話 未来へ
桜の淡いピンクが町を彩り始めた。
鼻を掠める風はほんのり甘く、目に映る景色はあたたかな春の日差しに満ちている。
いつもの道を、ゆっくりゆっくり歩く。
私を取り囲む全てのものがあまりにも優しくて、なぜだか不意に泣きたくなる。
こんなに満ち足りた気持ちで、大好きな道をあたたかな気持ちで歩ける日が来るなんて、一年前には思いもしなかった。
「岩田さーん!」
優衣ちゃんの声にはっと顔を上げる。
待ち合わせ場所にはすでに優衣ちゃんと菜々さんが揃っていた。
今日はアンダンテの定休日。
久しぶりに3人でカフェにでも、と前から約束をしていたのだ。
「お待たせしました」
「大丈夫よ、私もさっき来たとこだから」
菜々さんが優しく微笑む。
「それと優衣。岩田さん、じゃないでしょ」
「あ、ほんとだ。佐倉さん、ですね」
「いいよ、岩田で」
いまだにその名前で呼ばれると照れてしまう。
そう、私たちは結婚した。
あの事件から半年後、名実ともに私たち二人は家族となったのだ。
「佐倉くん、元気?」
「はい。おかげで元気にやってます」
「来週ですよね、ウチに来てくれるの」
ダイはあのあとバイト先の正社員となった。
多少のドジはやらかしながらも、先輩方に可愛がってもらっているらしい。
「またちょっとミスするかもしれませんけど、よろしくお願いします」
「おけ。何か失敗したらすぐキョウちゃんにラインするよ」
いたずらっぽく菜々さんが笑う。
「さ、積もる話はお店の中で」
今回の幹事である優衣ちゃんに背中を押され、木の温もりに包まれた店内へ。
心地良い時間を、気心知れた仲間と過ごす。こんな贅沢はないなぁ、と改めて思う。
「キョウちゃん何にやけてんの?」
「こんな昼間に何やらしいこと考えてたんですか?」
いじってくる二人にすぐさま反論。
「そんなわけないでしょ!」
ああ、これが私たちのリズムだ。
早番隊として働いていた日々を、ひどく懐かしく感じる。
私は今アンダンテの一員ではない。
と言っても辞めたわけではない。
ただ、今年一杯という期間、お休みをいただいているのだ。
「アヤちゃんはどうしてるの?」
「今はダイが。ゆっくりしておいでって言ってくれて」
「優しい旦那様じゃない」
「…はい」
目をそらしつつ頷く。
恥ずかしいけれど、本当にその通りだから。
この1年の間に、私は子どもを生み、母となった。
まさか自分が母になるなんて思ってもみなかった。自分が「家族」というものには縁がないのだと思っていたから。
現に、妊娠が分かったとき、1度は中絶を考えたのだ。
「望まれない子ども」は、私だけで十分だから。
それなのに。
「こんな僕でも、父親になれるんだね」
なんて、ダイが泣いて喜ぶから。
私も、このおなかの中の命を守りたいと思ってしまって。
生む決意をしたのだ。
ダイとはいまだキスしかしていないというのに。
「いくら僕がのんびりしてるからって、キスくらいで子どもが出来るわけないって知ってるよ」
笑いながらダイは言った。
「でもね、誰がなんと言おうと、父親は僕だよ。だって、キョウちゃんは僕でしょ」
あまりにも当然のように言うのだ。
「キョウちゃんは、そこにある命を殺せる?」
殺せるわけ、なかった。
おなかの子どもの父親について、誰にも言うつもりはなかった。
ただ、菜々さんには一言、
「いいのね?」
と言われたけれど。
「はい」
しっかり頷いて、私はアンダンテを後にしたのだ。
「でも、岩田さんが産休取るって聞いたときはびっくりしたなー」
優衣ちゃんが思い出したように言う。
「ごめんね、迷惑かけて。でも自分でもびっくりした」
事件の直後、屋上で倒れた私は二日間眠り続けた。
その原因である酷い貧血はこれまでの疲れと精神的ショック。そして、妊娠が引き起こしたものだった。
目覚めてそれを知らされた時は、絶望的な気持ちになったものだ。
なのにそれを打ち破ったのはやっぱりダイで。
「男の子なら、二人の名前から取って京也。女の子なら、二人の名前と安らぎの意味を込めて安也佳にしようと思う」
真面目な顔で告げられて、もう一度倒れそうになったのだった。
「安也佳ちゃん、良い名前だね」
「ありがとうございます」
全てを知る菜々さんは、これを言うといつも怒られるのだけれど、まるでおばあちゃんのように安也佳を可愛がってくれる。
「私も早く会いたいですぅ」
機会がなくてまだ会えていない優衣ちゃんは、少し拗ねたように言う。
「今度、もう少しあったかくなったら連れてくるよ」
「やった!妹みたいに可愛がるって決めてるんですよ!」
張り切ってくれていて、私も本当に嬉しい。
「でも岩田さん、保育士さんの夢はもういいんですか?」
「うん。…本当は、恵まれない子ども達を私の手で温めてあげたいって思ってたんだけど」
私の過去を丸ごと知っている菜々さんも、父のことを断片的に聞いている優衣ちゃんも、少し切なそうな顔をする。
でも別に、そんな話をしたかったわけではなくて。
「でも、おなかの中に安也佳がいるって分かって。どんどん育っていくのを体で感じて、命があるんだって実感したら、私が温めて守らなければならないのはこの子なんだなって」
これは本心だった。
何よりもこの、私の中に芽生えた命を守りたい。日に日にその思いが強くなっていったのだ。
私が温めてあげたかったのは、幼い日の自分だったのかもしれない。
恵まれない子ども達に何かをしてあげたい、なんて大義名分を掲げてみても、結局は自分自身のツラかった思い出を慰めたかった、それだけだったのかもしれない。
「そっか。キョウちゃんは、ちゃんと自分自身の生き方を見つけられたのかもしれないね」
菜々さんが言ってくれたように、今私は、初めて本当の意味で自分自身の命を生き始めたのだと思う。
「岩田さん、幸せそう」
優衣ちゃんがうれしそうにそんなことを言ってくれるから、私もすごくうれしくて、どうしてか泣きたくなった。
楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
「また連絡するね」
「次は絶対、安也佳ちゃんに会わせてくださいね」
口々にそんなことを言いながら、解散となった。
おいしいごはん、大好きな人たち。
柔らかな時は、私を満たしてくれる。
来た道を、またゆっくりゆっくり帰る。
早く帰って、ダイと安也佳に会いたいけれど、それよりも今は一人で歩いていたかった。
今という時が、私に対して優しければ優しいほど、考えてしまうのだ。
あの日、私たちは何を得て何を失ったのだろうか、と。
それは、あの二人の父親が命を落とした瞬間から、答えの出ないまま考え続けている難問だ。
あの日のことは、思い出したくないけれど、決して忘れてはならないことだ。
だからこそ、私は考え続けることを選んだ。
あの瞬間、私とダイは解放された。
これまでの自分達を縛り付けてきた見えない鎖から。
そして、常に自分自身ではない何かに定められていた運命から。
だがそれは、完全なる自由ではなかった。
私たちは見てしまったから。
最後の最後まで悪魔的に私を弄ぼうとした父の姿と、最後の最後に自分自身を取り戻し、ダイへの愛を貫いたおじさんの姿を。
親とは何か、子どもとは何か。
ごく普通の家族を与えられなかった私たちは、今自らが親となり、この問いに縛られながら生きていくのだ。
「キョウちゃん!」
頭の上から声がする。
いつの間にかマンションの下まで来ていたようだ。
ベランダには、安也佳を抱っこしたダイの姿。
「…ただいま」
見上げて笑う。
「おかえり」
柔らかいダイの声。
そう。私には今はちゃんと、帰る場所がある。
おかえりと言ってくれる人がいる。
守りたい、と思える家族がいる。
だから、私は今を生きる。
ダイと共に、安也佳と共に。
不確実な未来だけれど、運命を分け合った、あなたと。
「さ、早く入っておいで。安也佳がお待ちかねだよ」
「うん」
私の半身は、今日も変わらず穏やかだ。
そして、その穏やかさに支えられながら進もう。
未来へ。
今泣きたいくらいあの日を思い出しながらキミを見ている マフユフミ @winterday
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