第27話 幕切れ
「…なんで?なんであなたが…」
いくら隣の家でも、いくら呼びかける声が聞こえたのだとしても、迷いなくこのビルの屋上に来られるものだろうか。
おじさんがこのビルに走ってくるかどうかなんて、誰にも分からないはず。
もしかして、これは。
「やっと気付いたかい?」
父はニヤリと笑う。
「こんなにうまく行くなんてね。佐倉さんが私の思惑通り動いてくれて助かったよ」
その言葉に、目の前が真っ暗になる。
今回のこのおじさんの逃走劇は、全て父が仕組んだことだったのだ。
「京佳、探したよ。せっかくおまえが私のモノだと思い知らせてやったというのに。きっと、あの板倉菜々とかいう女の入れ知恵なんだろうね」
「菜々さんは関係ないっ!菜々さんには、手を出さないで!」
咄嗟に叫ぶ。
「ふふ、お前が大切にしているものはなんでも壊してしまいたくなるね」
どこまで卑しい男なのだろう。
私から全てを奪い、そして私自身も壊そうとして。
しかも、病気のおじさんを利用するなんて。
本当に卑怯としか言い様がない。
そして、その浅はかな計画に引っ掛かってしまった自分にも腹が立つ。
「まあ、あの女の周辺に手を出せばいろいろ面倒なようだからね。それはしないとして」
父の目がまっすぐ私を捉える。
全身が震えてくる。
あの目が、あの体が、私を壊そうとする。
「キョウちゃん!しっかりするんだ」
ダイの声にふと我に返る。
隣にはダイがいる。
おじさんを抱きしめながら、私の方を見つめてくれている。
それだけが、私が今こうして立っていられる理由だ。
崩れそうな膝を必死に立たせて、精一杯姿勢を保つ。
「この前は朝帰り。お仕置きをしたのにまだ足りないとは。ほんとに京佳は悪い子だ」
ニヤついた声が気持ち悪くてたまらない。
「分からないようだから、この際はっきり言っておこう。お前が私から逃げ切るなんてことは有り得ない。お前は私のものなんだからな」
私のもの、という言葉が頭の中でリフレインする。
気持ち悪い。気持ち悪すぎて反吐が出そうだ。
「おまえが私の前からいなくなったとき、考えられるのはやはり、この佐倉くんしかなかった。これは利用しない手はないだろう?」
やはりこの男は、自分の欲しいものはどうやったって手に入れる。
私のためにダイが、おじさんが利用されるなんて。
悔しくて申し訳なくてたまらない。
「まさか佐倉さんがここまで狂っているとは思わなかったけれどね。あんなに愛していた息子を自らの手で殴るとは。まあ、それは私には好都合でしかなかったけれどね」
「…だから、こんなことしたんですか」
「こんなこと、とは?」
「ダイのお父さんを病院から連れ出して、こんなところまでおびき寄せたんですか?そうすれば私たちが追いかけてくるから…」
「ははは。連れ出した、は人聞きが悪いね。私はちょっと、あの病院の警備の人間に小遣い程度の金額を握らせただけだよ」
「じゃあ、どうやって?」
「それは簡単さ。たった一言、佐倉さんの耳に囁いただけさ」
あの家で、奥さんと息子さんが待ってるよ。
何て、汚い。
おばさんを愛し、それゆえ精神を病んだおじさんにそんな嘘をつくなんて。
冷静な判断能力が失われたおじさんにとって、その言葉は疑いようのない真実になってしまったんだ。
「あれだけのヒントを残せば、おまえ達は必ずここへ辿り着く。全て読み通りだ」
この男は、一体何を話しているのだろう。
全く理解できない。したくない。
「…この屋上には?」
「ああ、ここからは私たちの家がよく見えるからね。昔、そんな話を佐倉さんがしていたことがあったんだ」
全ては、父の誘導通りに事が運んだというわけだ。
もう、何と言えばいいのか分からなかった。
無言の屋上に、風が吹きつけてくる。
その冷たさは、私の心のようだ。
これまで、様々な暖かさに守られてきた。
どんなに苦しいことが起こっても、ギリギリのところで引き上げてくれる手があった。
それでも、もうその手を掴んではならない。
もう、戻れない。ダイのもとへ、アンダンテの仲間のもとへ。
そう悟ったとき、心は氷のように冷えていった。
私が逃げ込むぬくもりは、必ず父の魔の手により傷つけられる。
私を助けてくれる人たちがこんなにツラい目に合うなら、私はもう誰とも触れあってはならないんだ。
それに、一生こんな父に縛られて生きるなんて、耐えられそうになかった。
「…分かりました」
絶望とは、こんなに静かなものだったんだな。
どこか冷静な部分がそんなことを考える。
「本当に、心の底から分かりました」
「そうだろう。さあ、お前の居場所はここだよ」
父が両手を広げて近付いてくるのが見える。
なんて滑稽なんだろう。
ついに獲物を捕らえた、なんて勝ち誇って。
でも、もう、疲れた。
闘うのも逃げるのも。
大切な人を大切に出来ない現状も。
もう、たくさんだ。
「私が居るべき場所は、あなたのもとじゃない」
まっすぐに父を見つめて言い放つ。
私の視線に、一瞬父が怯んだのが分かった。
この隙を逃してはならない。
くるりと背中を向け、反対側へと走る。
「キョウちゃんっ!!」
必死なダイの声が聞こえる。
多分、ダイには分かったのだろう。私がしようとしていること。
だって、私たちは二人で一人だから。
ごめん、こんなことになって。
ごめん、最期まで巻き込んで。
それでも、最後の最後に、ダイと暮らせて嬉しかった。
この幸せのためにツラいことを乗り越えて来たんだなー、と本気で思えた日々だった。
そんな時間も、もうおしまいだ。
お礼を言いたかった。
心の底から、愛してたって伝えたかった。
でも、こんな言葉足らずの私のことも、きっとダイなら理解してくれると思うから。
なんとか反対側のフェンスに辿り着き、震える手足で上る。
ここさえ飛び越えてしまえば、そこに待っているのは「自由」だ。
それなのに。
「そうはさせない!」
ギリギリのところで父に追いつかれてしまった。
「離して!」
「逃がすか」
父は私をフェンスから引きずり下ろし、地面に叩きつけた。
見上げる形となった空には、満月に近い月。
静かに私たちを見ている月に、心で叫ぶ。
「あなたのところへ行きたいよ」
と。
コンクリートにぶつけられた右肩が痛い。
死ぬことさえままならない現状に、心が痛い。
それも、もうここまでだ。
これからはもっと、痛みに満ちた時間が始まるから。
「ここで、思い知らせてやる!」
そう言うなり、羽織っていたパーカーと中に着ていたブラウスを引き裂かれた。
骨の浮き出た体。
下着が露わになる。
こんな寒空の下、また私は凌辱されるのか。
しかもダイの目の前で。
「お仕置きだな」
ニヤリと笑う父の顔を見たくなくて目を閉じた。
ブラジャーに手を掛けられるのが分かる。
殺してほしい。
こんなことなら、今すぐその手で首を絞めて。
そう思ったその時。
「うぉっ…」
ドスッと重い音がしたと同時に、父の体が離れて行くのが分かった。
「キョウちゃん!」
耳元でダイの声がする。
どうやら、私は今ダイに抱きしめられているらしい。
「…ダイ」
「もう、あんな奴の好きなようにはさせないから」
酷く、憎しみに満ちた声。
ダイのこんな声、初めて聞いた。
「でも…」
私に関わってしまっては、ダイもおじさんも父にいいように利用されるだけ。
この、今私を包んでくれている暖かい腕は、無理にでも離さなければならないのだ。
そんな私の思いを知ってか知らずか、ダイは抱きしめる腕に力を込める。
「ダメだ。行っちゃダメだ」
そんなこと言われたら、縋ってしまいたくなる。
ダイと共に歩く未来を夢見てしまいそうになる。
「僕が、全部終わらせるから」
そう言うと、ダイは先程地面に叩きつけたのであろう父の体へと近付いていく。
「ダイ、だめっ!」
きっと、ダイは良くないことをする。
それだけは止めなければ。
動かない体を、それでも必死に動かそうともがく。
そうしている間にもダイは、衝撃で気絶している父の胸倉を掴み、殴ろうとしている。
「手を出しちゃダメ!」
これすらも、あいつのシナリオ通りなのかもしれないのだ。
逆上したダイが自分に暴力を振るうことも計算のうちなら、きっとダイの将来はここで潰される。
「ダイ!」
叫んだと同時に、動く影が目の端に飛び込んできた。
おじさんだ。
「大也、下がりなさい」
おじさんは拳を振り上げているダイをそっと抱きしめた。
「父さん、止めないで」
「ダメだ。大也にはやるべきことがあるだろう」
そう言うと、おじさんは自分の着ていた薄手のコートを脱いだ。
「これをキョウちゃんに。さあ」
強く促され、頷いたダイはその場から私の所へと戻ってきた。
ふわりと掛けられたのはそのコートは温かくて、服を引き裂かれコンクリートに冷やされた体がやさしさに包まれて行くのを感じる。
「ダイ…」
「キョウちゃん…」
ダイはコートごと私をそっと抱きしめた。
その温度を感じながら、ダイ越しにおじさんの方を見る。
おじさんは、気が付いたのか起き上がろうとしている父を、背中から羽交い締めにしていた。
「おじさん!」
驚きのあまり叫ぶ。
おじさんは、そんな状況と裏腹に優しい笑顔を浮かべていた。
「キョウちゃん、怖かったね。でももう大丈夫だから」
そう言うおじさんは、まるで昔に戻ったようで。
力強い目、力強い声。
おじさんの顔は、先程までの何も判断できない病人の顔ではなかった。
「…父さん?」
不思議そうなダイの呼びかけにも穏やかに笑う。
「大也。いつでも、愛してたよ」
「…父さん?なんでそんな…」
「今も、一番大切な宝物だ」
「僕も、僕も父さんを愛してる。今までもこれからも、ずっとだよ」
おじさんは、この上なく愛に満ちたほほえみを浮かべダイを見つめていた。
「今まで、本当に迷惑をかけたな」
「迷惑なんて…」
「でも、もう大丈夫だ。父さんは、大丈夫だから」
「父さん?」
「これからは、キョウちゃんを守るんだ」
そう言うと、おじさんは羽交い締めにしている腕に力を込めた。
「佐倉さん、一体何を…」
父の苦しそうに絞り出した声を押し止めるように、おじさんは父の首を締め上げる。
「岩田さん、もう、終わりにしよう」
どこにそんな力があったのか、おじさんはそのまま父を引きずりフェンスへと向かう。
「ま、待って、父さん!」
「おじさん!」
追いかけようとする私たちを視線で制する。
「は、はなせ…」
足掻こうとする父の鳩尾に1発。
再び失神した父を抱きかかえ、おじさんはフェンスによじ登る。
「父さん、ダメだ!」
「おじさん、降りて!」
私たちの叫びも全て受け止め、それでもおじさんは微笑みを絶やさない。
「二人とも、幸せになるんだよ」
そう言うと、おじさんは空を見上げた。
かすかに動いた唇は、「ゆみこ、」とおばさんの名を紡ぐ。
そして。
次の瞬間、父を抱いたまま、おじさんはその身を宙へと翻した。
ドスッ、と鈍い音が響く。
それが合図だったかのように、動かなかった体は金縛りから解けた。
フェンスに駆けよるけれど、もうそこには何もない。
「うそ…嘘だ…」
呆然とするダイの顔は、ひどく強ばっていた。
「きゅ、救急車…救急車呼ばないと…」
震える指で携帯を取り出す。
番号を押そうとする手の上に、風に舞う白い紙が落ちてくる。
「…これ、」
ダイはその紙を丁寧に拾い上げた。
それは、さっきまでおじさんが見つめていたダイとダイのお母さんの写真で。
「…父さん…」
ダイの目から、涙が溢れるのが見えた。
「父さん…、父さーんっ!!」
おじさんは逝ってしまった。
悪魔を道連れに、ひどく優しい顔をして。
もう、何も分からない。
私はどうすれば良かったんだろう。
どうしてこうなってしまったんだろう。
分かるのは、おじさんが私を救ってくれたことと、ダイを何より愛していたこと。
そして今日の月が、哀しいくらいに美しいということ。
ダイの泣き叫ぶ声が遠くなる。
崩れ落ちていく体を抱き止められたのを感じた所で、私の意識は途絶えた。
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