第26話 逃走の先

たとえばの話。

ダイと私がただの幸せな新婚夫婦だったら、新しい部屋から見る空は、澄み切って見えたのだろうか。


たとえばの話。

ダイと私がごく一般的な家庭の住人であったなら、夜の町を彩る灯りが温かいもののように感じられたのだろうか。


得られた幸せに感謝し、ぬくもりに涙し、それでも拭い切れなかった不安は、今明確な形をとって目の前に現れた。

何もかもが分からない。

私たちは何かを間違ったのだろうか。

何か多大なる罪を犯してきたのだろうか。

そうでないのなら、なぜほんの少し穏やかな日々を送ることさえ許されないのだろう。


ただ一つ分かっていることは、今現在が非常に危険な状態にある、ということのみ。

あの日、激しくダイを傷つけたおじさんが、たった半月ほどで行方不明になったということは、ダイの身にもおじさんの身にも、得体の知れない危険が迫っているということだ。


「ダイ!」

家に入るなり叫ぶように駆けよる。

ダイはダイニングの白いテーブルで俯いていた。

「なんで?おじさん病院にいたのに…」

私自身も混乱していてうまく話せなかったけれど、聞きたいことは伝わったらしい。

揺れる瞳をこちらに向けたダイは、かすかに震える声で話し出した。

「今日のお昼の3時ごろにはデイルームで目撃されていたらしい。でも、5時の巡回の時には部屋にもどこにもいなかったらしくて」

不安なのだろう、ダイはぎゅっと手を握りしめている。

爪が食い込みそうなほど握られている手に、そっと自分の手を重ねる。

不安も恐怖も哀しみも、全部二人で分け合えればいい。


「デイルームには出られる状態だったんだね」

「うん。あれからしばらく保護室にいたんだけど、急速に落ち着きを取り戻したらしくて」

日中は、総室での振る舞いなどの観察の意味も込めて、保護室からの仮退出の許可が出ていたらしい。


ダイが毎日のように病院に出向いたり電話でやり取りしたりしているのは知っていたけれど、あまり細かいところまで聞いていなかった。

おじさんのことに関しては、ダイの方から話したいことだけ話してくれればいい、そう思って。

だから、思いのほか早く良くなっている、もうすぐ措置も解除できるだろう、とのことしか私には分からない。


「でもどうやって…」

決して縛り付けておくことが治療になるとは思わない。

それでも、こういった形で入院したおじさんを、いとも容易く外に出してしまった病院の警備体制には少し思うところがある。

「分からないんだ。どうやって警備の目をくぐり抜けて外に出たのか」

ダイも、かなり困惑しているようだ。

「持ち物は?」

「きっと手ぶらだと思う。財布なんかは全部詰め所に預けていたから」

それなら、行ける場所は限られている。

探しに行くべきなのだろうか。

それとも、何かリアクションがあるのを待つべきなのだろうか。


「ねえ、ダイはどうしたい?」

残酷かもしれないけれど、これはダイが決めることだ。

探しに行くにしても、ここで待つにしても、私はダイの傍にいるから。

「僕は…」

ダイが心の中で逡巡しているのが分かる。

「…やっぱり、探しに行きたい」

決意の篭もった眼差し。

不安に揺れながらも、強い意志を感じる。

「ほんとは、まだちょっと怖いけど。父さんのことを怖いと思う自分もイヤだけど」

握る手に力がこもる。

「でも、どうせなら僕が見つけてあげたい。見つけて、大丈夫だよって言ってあげたい」


ダイはやっぱり優しいと思う。

あんな目にあっても、まだおじさんのことを捨てきれない。

むしろ、救ってあげたいと思っている。

でもそれが、ダイなんだと思う。


「分かった。じゃあ、一緒に行こう」

「え、でもキョウちゃん…」

「一緒にいさせて。私が、ダイのそばにいたいの」

今度はこちらから強い視線を送る。

もうダイを一人にしたくない。

何があろうと、私たちはもう離れてはいけないんだ。

「…ありがと。じゃあ、一緒に来てくれる?」

「もちろん」

進むべき道は、ダイとともに在る。


最低限のものを身に付けて夕闇の迫る町に飛び出した私たちは、まずダイのアパートを訪ねることにした。

生活はもう今の家で共にしていたけれど、おじさんの帰る場所を考慮して、完全に引き払うことはしなかったのだ。

「やっぱり、父さんの帰る場所はあの家だと思うんだ」

「そうだね」

病気になるまで、何より家族思いで家が大好きだったおじさんのことだ。

何か心が乱れたときに縋るとすれば、それは家族の匂いのするものに違いない。

そうなれば、行き先は一つ。あのアパートしかなかった。


無言で町を駆け抜ける。

こうして外を走っていると、あの日、ダイのヘルプを受けて一人走った夜の道を思い出す。

あの不安で怖くてたまらなかった気持ち。

もちろん今も不安だし、どういう展開が待っているのかと思うと怖い。

それでも、今隣にはダイがいる。

同じように、いや私よりももっと不安で怖くて逃げ出したいはずのダイが勇気を振り絞ってここにいるいうことは、私に勇気をくれる。


やがて、見慣れたアパートの玄関。

ダイがおじさんと長く暮らして、ひどく傷つけられた場所。

それでも、たくさんの思い出があるだろう場所。

ここにおじさんがいるのかは分からないけれど、まずは足を踏み入れるしかない。


「ダイ…」

「何?キョウちゃん」

「何があっても、一緒に行こう」

「…うん」

どちらからともなく手を取り合い、ゆっくりした足取りで共に進む。


一番奥の部屋。

玄関の扉に手をかける。

ノブをひねれば、何の抵抗もなくギギィと軋んだ音を立てながら扉が開いた。

鍵が明いている、そのことに緊張が走る。


「父さん、いるの?」

声を掛けつつ中へと入るダイに着いていく。

家の中は、あの乱れに乱れていた状態が嘘のようにスッキリと片付いている。

この片付けにも、菜々さんがかなり尽力してくれたということをダイから聞いていた。


部屋の隅々まで見回しながら、ゆっくり進む。

室内はあまりに静かで、なんの気配も感じない。

本当におじさんはいるのだろうか。不安に思いながらも、ただ進むしかなくて。

「父さん?」

ダイは時折呼び掛けてはあたりを伺う。

ここにいてほしい気持ちと、もしダイがまた襲われたらという不安に心が乱される。

それでも、探すと決めたダイを支えるのが私の役目だ。


「父さん?」

いくら呼び掛けても、何のリアクションもない。

ここにおじさんはいないのだろうか。

そうして、最後の部屋にたどりついた。

「ここ、父さんの部屋なんだ」

小声で言うダイは、緊張からか少し震えている。

繋いだ手をさらにきつく握り直して、最後の部屋に挑もう。


「父さん?いるの?」

声を掛けながら扉を開ける。

目に入ったのは、ベッドや棚などが置かれたごく普通の部屋の様子と、なぜか紙の散乱した床で。

おじさんの姿はない。

ここではなかったのか。ふっ、と緊張が緩んだその時。

「これ…」

屈んだダイが、床に散らばっていた紙を拾う。

「どうしたの?」

「写真だ…」

よく見ると、紙だと思っていたのはたくさんの裏返った写真。

それも、幼い頃のダイとお母さんの写真で。

懐かしい、私たちが出会った頃のダイの家に、ダイとお母さんがいた。

二人は写真の中で、笑い合っていたり、泣いているダイをお母さんがあやしていたり。

そんないくつもの失われた家族の光景がそこには残されていた。


「懐かしい…こんな写真、あったことも忘れてたよ」

懐かしむダイの横で、私は拭いきれない不安を覚えていた。

「なんで今こんなところにこんな写真が…」

不自然に散らばるそれは、誰かがここでその写真を手にとっていたという証。

そして、それを行えるのは、おじさんにほかならない。

「おじさん、やっぱりここに来たんだ」

「うん…昔の写真が見たかったのかな。また、お母さんを思い出して…」


そうかもしれない。

それでも、なんとなく違和感を感じる。

お母さんを思い出したにしては、お母さん一人の写真ではなくダイと二人の写真ばかりが散らばっている。

家族を思い出したにしては、出掛けたときの思い出の写真が一切ない。

おじさんが欲しがったのは、ダイとお母さん、そしておじさんが共に暮らし笑い合っていたあの頃なのではないだろうか。


「ダイ、」

「どうした?」

「あの家に行ってみよう」

私たちが幼い頃を共に過ごしたあの家へ。

「でも…」

もちろんそこは、私が父に犯され続けていた家の隣で。

そして、私の父はいまだそこに住んでいるのだ。

「今は、何よりおじさんのことだよ」

当然、無理矢理犯された恐怖は消えない。

あいつにまた会うかもしれない場所に自ら出向くというのも、できるなら避けたいところだ。

それでも。

今あそこへ行かないと、後悔するような気がするのだ。


「分かった」

私の決意が固いのを見て、ダイも心を決めてくれた。

あんな状態になった私を見つけたダイが、本当は私を行かせたくなくて迷っていたのも理解している。

そんないろいろなことを踏み越えてでも行くしかない。

おじさんがそこにいるのなら、どんな状態なのかは分からないけれど、ダイが、そして私たちが、暴走を止めてあげなければならない。


ダイが写真をそっとカバンにしまうのを待って、家をあとにした。

私たちが出会ったあの町。

全てが始まり、全てが狂い始めたあの町へ。


タクシーの中では、二人とも無言だった。

緊張と不安と恐怖。

そして、これでおじさんを見つけられるかも知れないという期待。

いろいろな気持ちにゆらゆら揺れながら、それでも前へ進む意志だけは忘れない。

繋がれた手で、お互いの心を通わせる。

ダイの手はしっとりあたたかくて、それだけで私は落ち着けるのだ。


辿り着いた場所は、私にとっては恐怖の場所だ。

いまだ続く恐怖と逃げ出したい気持ち。

それでも、ダイと出会った始まりの場所でもあるそこを、心の底から憎むことはできなくて。

震えそうになる体を必死に堪え、その場に立つ。

「大丈夫?キョウちゃん」

「うん。大丈夫」

探さなければならないから。

おじさんと、おじさんの示した家族への意志を。


一歩一歩踏み出すたびに、何かに近づいているような気がする。

それはおじさんに、というような具体的な何かではなく、もっと根元的なもの。

ざっくり言ってしまえば、私たちが新たな道へ進むために選ばなければならない人生の岐路のような何か。

確信はない。

それでも、きっと、何かが変わる。


ふとダイの家だったところに目をやると、そこには人影があって。

「…父さん?」

呼び掛けると振り返ったその人影は、まさしくおじさんだった。

「父さん!」

おじさんはくるりと背を向け走り出した。

追いかけるダイに必死に着いていく。

離しちゃだめだ。

おじさんを、止めなくては。


それでもおじさんは、振り返ることもなくどんどん走る。

そして、近所にある人気のないビルへと入っていった。

「屋上だ」

エレベーターの止まった先を見て叫ぶ。

屋上なんて、嫌な予感しかない。

私たちも慌てて今降りてきた隣のエレベーターに乗り込む。

ふわりと浮上する感覚。

音もなく動き出す箱は無機質で、少し寒い。

上へと上がっていくほんの数十秒が永遠にも感じる。

階数の掲示を無言で見つめ、ひたすら祈る。

どうか、どうか間に合って。


チン、とこの場に似つかわしくない音を立ててエレベーターは屋上へと着いた。

降り口から右に折れ、すぐの場所にある鉄の扉に手をかける。

錆びていて重いそれは、ゆっくりゆっくり開く。

外からの突風が吹き込んでくる。屋上は風が強いようだ。

射し込む冷気に目を細めながら、屋上にいるだろう姿を探す。


「いた!」

ダイが小声で叫ぶ。

視線の先を見ると、私の記憶からほんの少しだけ老けた、それでも昔のままの姿のおじさんが、屋上のフェンスに背中を預けてしゃがみこんでいた。

「父さん…」

今すぐ飛び降りるような気配が感じられないため、ゆっくりと近づいていく。

見れば、おじさんの手には数枚の写真が握られていた。

さっきの家に散らばっていた写真の一部なのだろう。

おじさんはその写真を優しい眼差しで見つめている。

ああ、愛していたんだ。

おじさんは、家族をこの上なく愛していたんだ。

それが一瞬で分かってしまうような、そんな穏やかな表情だった。


「父さん」

ついにすぐ隣にたどり着いたダイは、優しくおじさんを抱き締めた。

「…心配した…一緒に、帰ろう」

やっと捕まえられた安心からか、ダイは涙ぐんでいた。

「大也…ごめんな。ごめんな…」

おじさんはダイにされるがままの状態で、謝罪の言葉ばかり口にする。

「いいんだ。父さんが無事でいてくれればそれで」

ダイは柔らかな口調でおじさんに語りかける。

「夜は冷えるよ。病院に一緒に帰ろう?」

それでも、おじさんは首を横に振るのだ。

「…ごめん、ごめんな」

ただそれだけを繰り返して。

「病院が嫌なのか?それなら家でいい。でもここは寒いし危ないよ。だから一緒に行こう」

ダイは言葉を尽くして説得している。

それでもおじさんは頑なだ。

「…私は、行けないんだよ…」

そう哀しそうに言うおじさんは、とても病状により不穏な行動をとっているようには見えない。

何らかの意思のもとそう決意しているようにしか見えないのだ。


どうして?おじさんの身に一体何が起こっている?


「よくここまで来たね」

不意に背後から声がして肩が跳ねる。

この声は…

「探したよ、京佳」

二度と聞きたくなかった私の父の声だった。


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