第25話 出発
朝目覚めて、隣に眠るダイを見つける。
そんな簡単なことがこんなに幸せなことだなんて、知らなかった。
いろんな事件、ドタバタの引っ越し。
落ち着いたときに得られたモノは、かけがえのない穏やかな日常。
一日がこんなにもやさしく流れていくということを、私は初めて知った。
「…んー…おはよ、キョウちゃん」
「おはよ、ダイ」
見つめていれば目覚めたダイは、寝起きのポヤポヤした感覚のまま私の額に触れる。
「今日は調子良さそうかな」
「うん、たぶん」
この家に引っ越してきてから、あれほど眠れなかったのが嘘のように眠れるようになった。
食事も徐々に慣らしていって、いつも通りとは言わないまでも摂れるようになってきた。
菜々さんはしょっちゅう顔を出しては作り置きのおかずを作ってくれ、立つこともままならなかった時を支えてくれた。
そのおかげか、ここ最近ではキッチンに立って料理をすることも出来るようになっていた。
キッチンに立って思うのは、私の精神を支えるものはやはり料理なのだ、ということ。
料理を作ること。それを食べてくれる人がいるということ。
それだけで、私の中心がシャンとするのを感じる。
「おいしいねー、このパスタ」
そう言ってくれるダイの存在も大きい。
やはり、一人で作って食べるのでは味気ないから。
だからこそ、職場はカフェを選んだし、お客さんの美味しい笑顔を見るのが大好きだったんだ。
そして今、私は私の大切な存在に料理を作ることが出来る。
それはなんて贅沢なことだろう。
ダイはダイで、何を作っても美味しそうに食べてくれる。
家庭料理に飢えていた、ということもあるかもしれないけれど、何だかんだ言って美味しいモノに弱いのだ。
「それだけじゃダメだよ。あと二口は食べて」
看病経験の長いダイは、私の健康状態にもうるさい。
少し食欲がないだけで、あれやこれやと世話を焼く。
昔は、心配性ではあったけれど、ここまで世話焼きではなかったように思う。
良い意味でおおらかで、だいたいのことに「大丈夫大丈夫」なんて言っていたのに。
これは、再会してから感じるダイの変化だった。
「職場復帰、今日からだね」
朝ごはんの目玉焼き載せトーストを頬張りながらダイが言う。
「そう。早番だから、もうすぐ出るよ」
そう言って私は野菜スープを一口。
菜々さんの命令で、当初1週間だった私の休暇は2週間に延びていた。
焦る気持ちもあったけれど、そのおかげで体も心も充分休むことができ、仕事にも余裕をもって臨むことができる。
「無理したらダメだよ。調子悪くなったら絶対休むこと」
「はい。ちゃんとします。それに今日のシフト菜々さんと一緒だから、しんどくなったらごまかせないし」
「そか、それは安心だね」
菜々さんの存在は、もうすっかりダイの中でも頼れるお姉さんとして根付いていた。
「ダイは今日はウチの店じゃないんだね」
「うん。次アンダンテさんに行くのは4日後かな」
ダイは私より一足先に仕事に戻っていて、毎日私の作ったお弁当を持って出勤している。
細かいことは言わないまでも、病気の父親が急遽入院してそれに振り回されていた、という少し事実を捻じ曲げたことを伝えると、ものすごく親身なって話を聞いてくれたらしい。
現状、ダイはまだおじさんと顔を合わせてはいない。
病院とは逐一連絡を取り合っているし、手続きや洗濯物の交換など、足繁く病院に通ってはいるが。
この前のように、ダイの何かがおじさんを刺激してしまっては、悲劇の焼き直しとなってしまうから。
だから、会いたい気持ちももちろんあるけれど、それを堪えてダイは会わない選択をした。
家族思いのダイにとって、おじさんのいる病院に行くのに顔さえ見られないなんて、本当はものすごくツラいことだろうと思う。
それでも、ダイの選択を私は全面的に支持する。
もう、痛めつけられて苦しむダイは見たくないから。
そんなダイの抱えているツラさをなんとなく汲み取って、何暮れなく気に掛けてくれる先輩さんの話は、ダイとの会話の中でしょっちゅう出て来る。
どうやら、あの再会した初日、ウチの店にダイが水をぶちまけたとき、思いも掛けない出会いに言葉をなくすダイから私のことを聞き出していたらしい。
「今度キョウちゃんに会いたいって言ってたよ」
なんて軽く言ってくるダイに、
「勝手に話さないでよ」
と、恥ずかしさから言ってしまったけれど、
「キョウちゃんも菜々さんにしゃべってたでしょ?」
なんて言われてしまっては、言い返しようがなかった。
ダイも、本当にいい場所に巡り合えたものだ。
「それじゃ、出ようか」
「はい。いってらっしゃい」
「いってきます。キョウちゃんも、いってらっしゃい」
「いってきます」
そんな何気ないやり取りに心を温めながら、私は家を出た。
新しい家からアンダンテまでは、これまた以前と変わらず自転車で15分くらい。
今の私の体調の事も考えると、のんびり漕いで20分くらいを目標にゆるゆる進む。
大好きだった川沿いの道も野良猫の集会も、今のこの道にはないけれど、人の温かさに満ちた新しい生活を感じられるこの時間も、私には愛おしくって大切なものになるはずだ。
久しぶりの仕事。
緊張するし、何て顔して行けばいいのか分からない。
なんといってもインフルエンザからの肺炎、なんて未知なものを演じなければならないのだ。
まあ、詳細は語らないとしても、体調がものすごく悪かったよ、というところだけ伝わればなんとかなるだろうけれど。
少しずつ進んでいる今も、あの空間が懐かしい。
緑にあふれ、生き生きと店員が働き、みんなの「おいしい」が満ちているあの場所。
私の、失くしたくないモノの一つ。
息を吸い込む。
うん、私はまだ、ちゃんと生きている。
やがて、ブレーキの軋む音と共にたどりついた目的の地。
いつもの場所に自転車を停め、扉の前に向かう。
「ただいま」
小声で言う。
アンダンテは、いつもと変わらない顔で私を迎えてくれた。
「よしっ」
あらゆる感情を押し込め、そっと扉を開く。
「おはようございます」
少しの緊張を隠しながら、できるだけいつも通りに。
朝のひんやりした空気と、コーヒーの香り。
ああ、帰ってきた。
私は、ここに、帰ってこられた。
「…岩田さんっ!!」
私の姿を認めるや否や優衣ちゃんが飛びついてきた。
懐かしい、私の妹。
「会いたかったんですよ!ずっとずっと。でも菜々さんにお見舞い禁止って言われるし」
すでに優衣ちゃんは涙ぐんでいる。
「ごめんね、心配かけて」
「もう!ほんとに心配したんですよ!インフルエンザの前から疲れた様子だったし、治療も長引いてるって聞いたし」
「ん。ごめん」
「でも、よかった。岩田さん、帰ってきてくれてよかった…」
私にしがみついて離れない優衣ちゃんの頭をそっと撫でる。
こんなにも、待っていてくれた。
その事実は、私の心をひどく温める。
「私も、会いたかったよ。優衣ちゃんの笑顔が見たかったし、一緒にお仕事もしたかったし。アンダンテにも、ずっとずーっと来たかった」
「岩田さ~ん…」
離れようとしない優衣ちゃんは、まるで犬かの何かようだ。
垂れた耳とかしっぽとか、そういうのが見える気がする。
「ほらほら、そろそろ離れようか」
いつの間にか到着していた菜々さんに引き剝がされた。
「だって菜々さん!菜々さんは岩田さんに会ってたけど、私本当に久しぶりなんですよ」
「分かってるよ。でもね、仕事だから。それに、これからいつでも会えるよ。ね、キョウちゃん」
二人まとめて頭を撫でる菜々さんには、やっぱりかなわないと思う。
この人がいてくれたから、私は今ここにいるのだ。
「いろいろお世話になりました、菜々さん。おかげで復帰できました。優衣ちゃんも、メッセージありがと。ちょっとツラかったときだったけど、元気出たよ」
「よかった。ほんと」
菜々さんはそう言って目を細めた。
「じゃあ、キョウちゃんも帰ってきたところで。仕込みに入ろうか」
「はいっ!」
優衣ちゃんと声を合わせる。
日常が、この手の中に帰ってきたんだ。
いざ仕事に入ってしまうと、感慨にふけっているヒマなんてない。
次から次へと仕事をこなし、あっという間に開店だ。
「キョウちゃん、ちょっと」
一段落ついたところで菜々さんに呼ばれた。
「はい、何でしょう」
「キョウちゃんしばらく、キッチンに専念してもらうから」
「あ、それは構わないんですけど、なんで?」
「もし親父が来たら、ホールだったら逃げられないでしょ」
「あ…」
忘れていたわけではない。
いつだって父は私のことを脅かし続けている。
それでも、なんとか職場復帰したいという思いばかりで、父がこの店に現れたことを忘れていた。
「休んでる間、来たんだ。あいつ」
「えっ、まさか皆に迷惑…」
「大丈夫。たまたま応対したのが私だったから、キョウちゃんはあの日から休んでいて、そのまま辞めたことにした」
「あ、はい…」
まさか休みの間にそんなことがあったなんて。
父の脅威を知っていながらそこに思い至らなかった自分に腹が立つ。
「キョウちゃんが自分を責める必要ない。この休みの間、キョウちゃんは自分自身をしっかり建て直すべきだったの」
菜々さんは、そっと手を握ってくれた。
「だから、何も心配ないよ。皆でキョウちゃん守るから」
「菜々さん…」
「軽く、あの親父が危険だってことは皆に伝えてある。キョウちゃん守るためなら、皆協力するって言ってくれてるから」
「…ありがとうございます」
本当にもう、頭を下げるしかなくて。
どれだけお世話になっているんだろう。
自分の不甲斐なさはこの際置いておくとして、菜々さんへ、そしてみんなへの感謝しかない。
「ほら、顔あげて。キョウちゃんの特製ドレッシングとマドレーヌ、待ってる人がいっぱいいるんだからね」
励ますように肩を叩く。
思うことはいろいろあるけれど、今は顔を上げて進むしかないんだ。
「はい。おいしいもの、笑顔になってもらえるもの、頑張って作ります」
それは私の決意表明。
帰ってきた私が出来る、唯一のこと。
「そう、その言葉を待ってた」
微笑む菜々さんに笑いかける。
とにかく私は、今できることを全力でやるのみだ。
「二人ともー、開店ですよー」
私たちを呼ぶ優衣ちゃんの声に背中を押され、日常に踏み出す。
「はーい、今行くね」
菜々さんがホールへと向かう。
私はエプロンをきゅっと結び直し、今の私の城であるキッチンへと向かった。
ここからが、私の始まりだ。
やはり、久々の立ち仕事は体に堪えた。
ほどほどに忙しかった今日。
自分の段取りで仕事を進め、菜々さんに口うるさく言われて休憩を取りながらでも、夕方には何度か立ちくらみでしゃがみ込んでしまい、優衣ちゃんにひどく心配された。
それでも、心は穏やかな喜びに満ちていた。
人生でこんなに満たされた日はないんじゃないか、そんなことすら思った。
働いて、仲間と力を合わせ、充実した疲れを抱きながら大切な人の待つ家に帰る。
生まれてからずっと、ずーっと望んでいたものが今ここにはある。
クタクタの体でノロノロ自転車を漕ぐ。
見た目はたぶんへろへろでどうしようもなく疲れた女が自転車に乗っているだけなんだろうけど、この心の中はキラキラしたもので溢れていた。
このままで。できればずっとこのままで。
祈りにも近い気持ちで切実に思う。
これまではずっと、初めから欠けているか失うかの人生で。
初めてたくさんのものを与えられ、温かくて嬉しくて、失くしたくなくて。
心から切実に、もう何も失くしたくない、そう願う。
それでも現実は、思いも掛けない形で押し寄せる。
スマホの通知という形で現れたそれは、いとも容易く私の平穏を奪っていく。
点滅する緑色のライトはダイからのメッセージ。
それは、また運命が大きく動く瞬間で。
「父さんが行方不明になった」
私は再び、全てのモノが崩れ去る音を聴いたのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます