第24話 愛情
「あの人、何者?」
引っ越した先で二人になったとき、ダイが言った言葉だ。
あの人、とはもちろん菜々さんのこと。
ダイにとってはいろいろ刺激的だったらしい。
「まあ、菜々さんだからね」
「その言葉だけで納得してしまいそうな自分が怖い…」
ダイがそんなことを言うのも、分からないでもない。
昨日の夜、突然の引っ越し宣言について行けなかったのは私も同じだ。
朝目が覚めたら、ほとんどの荷物をまとめ終わった菜々さんがいて。
「おはよ、キョウちゃん。さすが、荷物少ないね」
なんて笑っていて。
「おはようございます…あ、やります」
と起き上がろうとしたとき。
「まだ寝てなきゃだめ」
そうは言われても、自分の引っ越しにノータッチというわけにはいかないだろう。
怠さの残る体を無理矢理起こし、立ち上がる。
しかし次の瞬間、激しい目眩に襲われてその場に崩れ落ちてしまった。
「だから言ったのに。今までの疲れの蓄積。かなりダメージ受けてるよ、キョウちゃんの体」
そう言いつつ、優しく抱き起こしてくれる。
立ち上がることすら出来ないなんてショックではあったけれど、実際倒れてしまっては仕方ない。大人しくベッドに戻ることにする。
寝転んでもまだグラグラ揺れる視界に目を閉じた。
少し冷えた菜々さんの手が瞼を覆う。
「何も考えずに寝ときな。どうしても触ってほしくないものとかある?」
「…ないです」
「じゃあ、勝手にやっちゃうね」
優しい手の感覚が遠ざかって行くのを少し寂しく思いながら、私は全てを菜々さんに委ねることにした。
「キョウちゃん…」
遠慮がちなダイの声が聞こえたのは、それから1時間後くらい。
知らない内にまた眠ってしまっていた。
「…ダイ?」
「用意、できたから」
そう言うと、ダイは私を横抱きにして抱えた。
「え、あ、歩くよ」
咄嗟のことに動揺する。
「ダメ。朝も倒れたって聞いたよ。まだ無理しないで」
そう言って、決して下ろそうとはしない。
思っていたよりも随分がっしりした体は、難なく私を運ぶ。
「力、あったんだね」
聞こえようによってはものすごく失礼なことを言っているのに、
「キョウちゃんが軽すぎるだけだよ」
そんなこと言っては哀しそうな目をするから、それっきり何も言えなくなってしまった。
1階に降りてすぐの所に車が横付けされていた。
「ほら、乗って」
菜々さんの車の後部座席に寝かされ、ダイの膝の上に頭を乗せる形になる。
こういう形での密着はありそうでなかったから、どこか恥ずかしい。
「私の家、来たことあったでしょ?キョウちゃん」
アンダンテでの飲み会で、二次会と称してはみんなで菜々さんの家によく押し掛けた。
もう随分前のことのように感じるけれど。
「あそこの近くだからね」
そう言いつつ、ゆっくり車を走らせる。
菜々さんの運転は静かだ。
低い視点から見えるのは、一部の高いビルと空だけ。
それでも、私が初めて自分自身の意志で選び、生きたこの町を、忘れたくなくて目を凝らす。
「お別れだね…」
何気なくつぶやいた言葉に、菜々さんが笑う。
「寂しいけど、今は緊急避難だから。時間が経てば、また戻れるよ」
そうかもしれない。
あの父親から逃れるには、これしかない。
引っ越した先だって、いつ嗅ぎつけられるか分からないけれど、とりあえず目に見える危険は避けなければならないから。
それに、思い入れの強いこの町とはいえ、起きた出来事が生々しすぎて、今の私にはこのまま暮らしていく自信もなかった。
流れる白い雲を見つめる。
この雲のように流れて、私はどこにたどり着けるのだろう。
首元に触れるダイの膝が温かい。
枕にしては少し固いけれど、この密着感は安心する。
「寝てていいからね」
さっき起きたばかりだというのに、そんなことを言う。
それでも、ゆったり髪を撫でられてきると、また眠りの世界へと堕ちてしまいそうだ。
疲労の蓄積、と菜々さんに言われたけれど、こういうところで実感する。
ああ、心地いいなぁ。
ダイが傍にいて、菜々さんが先頭に立ってくれて。
私はただ、守られていればいいなんて。
心地いい。
心地よすぎて泣きたくなる。
やって来た眠気に逆らわず、大人しく目を閉じると、じんわり浮かんだ涙が一粒こぼれ落ちた。
うれしいとも悲しいとも違うこの感情は、一体何ていう名前なのか。
そんなことを思いながら、再び私は眠りに就いたのだった。
次に気がついたのは、もう夕方に近い時間で。
我ながらあまりにも寝るので少し驚く。
見渡せば、見慣れない部屋の様子。
そうだ、私は今日引っ越してきたんだ。
「おはよ、キョウちゃん」
声の方を向けば、菜々さんがニコニコ笑っていた。
「すみません、菜々さん。全部任せてしまって」
「大丈夫大丈夫。実際動いていたのは彼だしね」
菜々さんが視線を向ける方へ目をやれば、疲れ切った様子で床に眠るダイが見えた。
「もちろん、傷に障るほど動かしてはいないから安心してね」
ダイがおじさんに暴力を振るわれたのはつい二日前のことだ。
そのことについてまだじっくり話せていないことに気付く。
「これから、いくらでも二人の時間があるんだから。焦らずじっくり話してごらん」
さらっと言ってのけるけれど、こっそり真髄をついてくるから恐ろしい。
「んー…あれ…?」
寝ぼけたダイの声が聞こえた。
「おはよ、佐倉君」
「おはよ、ダイ」
「…ん、ああ、おはよ、ございます」
ぼーっとしていたのに、私たちが声を掛ければガバッと起き出した。
一気にいろいろなことを思い出したのか、ぎこちなく挨拶を返す。
「お疲れ様でした。キョウちゃんも起きたことだし、おやつの時間だね」
菜々さんはまた、どこから持ってきたのかカゴに盛られた焼き菓子と紅茶の入ったポットをテーブルに置く。
「菜々さん、これ…」
見慣れた焼き菓子のパッケージに、思わず問いかける。
「そう、アンダンテの焼き菓子だよ」
菜々さんは目を細めて言う。
「これ、メッセージカード。キョウちゃんに」
手渡された可愛らしい水色の花模様がプリントされたカードには、優衣ちゃんを始めとするアンダンテの仲間からのお見舞いの言葉が書かれてあって。
「ほら、インフルエンザのキョウちゃん。しっかり治して復帰するんだよ」
なんて肩を叩かれる。
もう、せっかく止まった涙がまた零れそうだ。ほんとこんな不意打ちやめてほしい。
「さ、食べよ」
またまた菜々さんはダイを巻き込んで、お茶の時間が始まった。
展開に着いていくのが必死なダイも、結局いつも通り食べ物に釣られている。
「うわ、おいし。このマドレーヌすごく好きな味です」
「でしょ。アンダンテ名物なんだ」
自慢気な菜々さんに、ダイは微笑んで言った。
「キョウちゃん、ほんといいとこで働いてるんですね。こんな美味しいモノ作れる場所、絶対優しいところだよ」
「ふふっ、よく分かってるじゃない」
ダイまで肩を叩かれている。
「いてっ…」
痛がるダイを黙殺し、菜々さんは言った。
「だから、絶対。絶対帰ってくるんだよ」
「…はい」
強い目を見て、私はしっかり頷いた。
私の荷物が少なかったからか、はたまた菜々さんの采配が的確だったからか、片付けは夜を待たずに終了した。
すっかり元の自分の部屋のようになった新居はすんなり落ち着ける場所になり、未だ残っていた以前の町への感傷も徐々に引いていくのが分かる。
晩ごはんに、と簡単な料理を手早く作り、あとは二人でね、なんて言って菜々さんはそそくさと帰って行った。
温めた料理を運び、ベッド脇のサイドテーブルに落ち着いたダイが言ったのが「何者!?」という言葉だったのだ。
「でも、本当にありがたかった。僕だけじゃキョウちゃんを助けられなかったと思うから」
「ほんと、菜々さんには前からお世話になりっぱなしで」
「なんか、ほとんど面識のない僕でも、甘えていいような気がするよ」
「そうかもね」
穏やかな沈黙が落ちる。
そして、私には聞かなければならないことがある。
「ねえ、ダイ」
二人分のマグカップに温かいお茶を注いでいるダイに問いかける。
「もう、ケガは大丈夫なの?あのとき、なんで来てくれたの?」
会いたかったけれど、絶対に会いたくなかったあの時、私を暗闇の世界から引きずり出してくれたのは、間違いなくダイだった。
「あの日、朝目がさめたらもうキョウちゃんがいなくて」
なんとなく、顔を合わせることが怖くて、ダイの目覚める前に帰ったあの日。
「傷は思ったよりひどくなかったんだ。先生も看護師さんも、僕が精神的にショックを受けたことを心配してくれて、しばらく入院しなさいって言ってたんだけど」
私も、それがいいと思っていたのだ。
「でも、でもね。ショックはもちろんショックだったけど、助けてくれたのがキョウちゃんだったから僕は、僕のままでいられたんだ」
ダイの目はあくまで優しい。
それに、ひどく力強い輝きに満ちていた。
「会いたかったよ、キョウちゃん。あんな場所に呼び出しちゃって、救急車の手配とか取り調べとか、全部任せちゃって。迷惑ばっかり掛けてるのはものすごく分かってたけど、本当に会いたかった」
「ダイ…」
こんなにストレートに言われてしまうと、臆病な私はどうしていいか分からなくなる。
真っ直ぐに、ただ真っ直ぐにダイは、私を求めてくれているから。
「早く退院したくて。何よりキョウちゃんに会いたくて。夕方まで病院にいたけれど、何もすることがないから退院させて下さいってお願いしたんだ」
ダイの気持ちがうれしい。
私に1番に会いたいと思ってくれた。
その事実が私を温める。
「それと、父さんが確保されて前の病院に入院したって連絡が入ったから、もう安全だろうって」
そっか、おじさん無事に確保されたんだ。
それだけでもダイの精神的負担はかなり軽減されるだろう。
私も、ダイが危険にさらされる危険性が減ってちょっとほっとする。
「ねえ、キョウちゃん」
ダイが神妙な顔で近づいてくる。
「こんなに近づいて、こうしても、怖くはない?」
そう言って、私の頬を優しく撫でてくる。
その指は微かに震えていて、彼の緊張が伝わってきた。
「大丈夫…だって、ダイだから…」
たぶんダイは、無理矢理に犯された私の精神状態を心配している。
来るときに横抱きにされたのは運搬に近かったし、膝枕も移動のための方法だった。
意志的に近づいてくるのとは訳が違う。
もちろん、私だってただの性行為に対しては恐怖感しかないと思う。
それでも頬に触れる感触に嫌悪感はなかった。
むしろ、ダイの温もりを感じられて安心感すら覚えているほどだ。
それは、ひとえにダイだから。
私が自分の命よりも大切だと信じた存在だから。
「よかった…」
ダイは、ほっと息をついた。
「昨日から、ずっと考えてたんだ」
撫でていた私の頬をそっと包んでダイは言う。
「父さんもキョウちゃんも守れなくて、悔しくて…自分が不甲斐なくて…」
頬に添えられた手を握る。
震える声がせつない。
「それでも、何より思ったのが、キョウちゃんを奪ったアイツへの憎しみだった」
私の手に、反対側の手を重ねる。
「何でだ、何でおまえがって。僕のキョウちゃんなのに、おまえには触れる資格なんてないのにって」
思いがけないことを言われて、しばし私の思考は停止する。
「…汚く、ないの?私のこと、穢れてるって、思わないの?」
答えを聞くのが怖いのに、思わず口走ってしまう。
ダイに蔑まれることだけは、耐えられそうにない。
「思うわけないよ!」
強い口調でダイが遮った。
「キョウちゃんは昔から、誰よりキレイで僕の1番なんだ」
そう言うと、ダイは私の頭を抱き上げ、そっとキスを落とした。
「…ダイ?」
「これで、分かった?キョウちゃんは僕の何より大切な、キレイな女の子だよ」
2回目のキスは、全く思ってもみないもので。
そのあとに紡がれた言葉も、どう受け止めればいいのか分からない。
それでもその感触は、甘く熱い。
触れるだけの唇から感じるのは、優しさよりも温もりよりも、もっと激しい情熱。
「最初から、こうしておけばよかったんだ」
愛おしそうに髪を撫でながら、ダイはそう囁いた。
「キョウちゃんに僕の弱い所見せたくなくて、会えないなんて意地張って。そんなことしても意味なかったのに」
ダイの少し掠れた声は耳に心地よく、私はすぐにまどろんでしまう。
「合ってるか分からないけど…キョウちゃん、好きだよ」
「…私も。合ってるか分からないけど、すき…」
お互いに分かっている。
決してこれが恋愛感情ではないということを。
これは長年持て余してきた寂しさのなれの果て。独占欲と混乱のあわさったもの。
それでも、お互いを愛しいと思う気持ちに嘘はない。
恋愛感情よりももっと重くて、恒久的な何か。
家族愛とか、人間愛とか、それすらも凌駕するほどの密度の高い、愛。
「キョウちゃん、愛してる…」
その言葉は、どんな魔法よりも深く胸に落ちていった。
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