13 竜と翼と ⑸
空が何だって言うのか。
あんな果てのない世界なんて。
手を伸ばしたって、どうあがいたって、届かない世界なんて。
辿り着いて一体、何の意味があったのか。
何故私たちは、あんな世界に憧れたのか。
神話に語られる竜も。
自由に羽ばたく飛行機乗りも、いない。
戦いに飢え、欲望に渇いた。
赤黒い鋼の群れに、埋め尽くされた世界に。
ねぇ、提督。
ねぇ、ベイくん。
問いかけるのも無駄だと。
私は知っているのに。
「奥様」
そこで目が醒めた。
ベッドの傍ら、家政婦のアンリさんが私を心配そうに見下ろしていた。
「…なんだい」
「申し訳ありません。泣いておいででしたので、つい、起こしてしまいました」
「泣いてた。私が?寝ながら?」
「はい、あんまりにも悲しげで」
「…ああ、そうかい」
随分と長い夢を見ていた気がする。
悲しい夢、などという言葉では済まされない夢。
夫が、ベイリンが見せたのだろうか。
あの白竜は、死んでからもう随分経つのに、未練がましいことだ。
「今日はエミリアさんがお見えになる日ですよ。観艦式を一緒にご覧になるんでしょう?」
「ああ、ああ、分かってるよ。あの臙脂の外套を出しておくれ」
そうだ、今日は孫の嫁が訪れる日なのだった。
このリアガルドのド田舎に、空中艦隊とやらが偉そうな姿を見せびらかしに来るから、ぜひ一緒に見物しましょうだとか何とか。
ご苦労な事だ。もうすぐ卵も孵るだろうってこの時期に。
気にかけてくれるのは嬉しいのだが、あの孫夫婦は私に気を遣い過ぎる。
私のような年寄りは、多少放っておかれるぐらいが丁度よいのに。
私のような、役立たずは。
「今は、何時だい?」
「一角の刻限です。もう朝ごはんのお時間ですわ」
「そうかい、じゃあまだ時間はあるね」
そう言って、私は窓から空を見上げた。
忌々しくも、美しく澄み渡った空を。
※
剥き出しの配管から沁み出る油と廃液の臭気。
雑多な機械類に埋め尽くされた、低い天井。照明ばかりがいやに眩しい。
唯一の救いは意外にも揺れが少ない点だ。
「今、高度何メッテを飛んでいますか」
先を進む青鱗竜の士官に、私は尋ねる。
「5000メッテ程だ」
「こんなに安定しているものですか」
「今日みたいな天気ならな。そういうのは、キミらの方が詳しいんじゃないのか」
「実は飛んでいる軍艦に乗るのは初めてなんです。それもゼ級に、しかもこれから観艦式なんて」
冗談混じりに答えると、若い士官は快活に笑った。青い鱗が電球の明かりで煌めいた。
『ル式』の製作中止は私だけではなく、製作に関わっていたスタッフ全員に衝撃を与えた。新型の墳進機関が実用に耐え得る安全性を認められなかったという説明が軍務省並びに空軍からなされたが、これに納得する者は誰もいなかった。既に簡易型の墳進機は『ビ式』を始めとした艦載機に高速戦闘用のブースターとして実装され、問題なく運用されていたのである。その発展形たる『ル式』墳進エンジンの安全性は、過去に視察で訪れた空軍技術士官によって保証されていた筈だった。
誰がどう考えても、中止の理由が何か別にあるのは明らかだった。
憤るスタッフたちに、私はキリニコフとのやり取りを説明し、頭を下げた。結果的に、私は自分の意地で彼らから仕事を奪ってしまったのだ。
――とにかく出来得る限りの埋め合わせはする。新しい仕事もすぐ回してもらえるようにする。許してくれ。
そう言った私に投げかけられたのは、意外な声だった。
「…それで、これで終わりじゃないんですよね。主任」
私は顔を上げた。
ぎらぎらと目を輝かせる、スタッフ全員の顔があった。
それからの彼らは素早かった。のろまな私の指示など待つまでもなかった。各方面に出来得る限りの手を伸ばし、協力者を集めてきたのだ。
音速を超えるという、祖父ベイリンすらなし得なかった偉業を果たし得る飛行機。これを完成させたいという思いを抱いていたのは自分だけではなかったのだと、今更のように私は思い知った。
ブリガンタイン社内からは、多数の技術者が『ル式』開発再開の嘆願書を社長と軍務省宛てに提出した。又、帝国空軍内部からも多数の支持者が得られた。キリニコフの言った通り、軍内部には祖父ベイリンの偉業を讃えるいわゆる『信奉者』という方々が多く存在していたらしい。更に私を驚かせたのが、ザウツ造船など大手ライバル企業からの協力者たちだった。どこから噂を聞きつけて来たのか商売敵の我々に手を差し伸べ、ザウツ社から軍部に出向していた制服組に手を回させるなどの裏工作までやってのけた。ブリガンタインのみならず航空業界全体には、キリニコフをはじめとした軍に蔓延る寄生虫どもへ一矢報いてやろうという空気があったのである。この手厚い支援のお陰で、本来通らなかった筈の申請書類がどれほど認可されたことか分からない。
多くの声に軍務省も動かざるを得なかったようで、『ル式』開発再開の認可が下りるまでそれ程の時間はかからなかった。
ただし、条件は付けられた。
例え安全性が認められようとその構造の頑強さに些かの懸念があり云々という、最早難癖としか思えない理由により、『ル式』は操縦者を乗せる事を禁じられた。簡単なジャイロ・コンパスと計算機を内蔵した、いわば『無竜機』としての作製を命じられたのだ。
流石に製作スタッフたちもこれには閉口した。既に『ル式』は複座式の操縦席を備えて、ほぼ完成してしまっていたからだ。それに、『無竜機』などと字面だけは良い名称で呼んではいるが、要するにこれは『ル式』を航空爆雷かロケット砲のような飛翔体として使用せよという指示に他ならなかった。
我々が造りたいのはそんな使い捨ての兵器ではない。
竜が操り、空を自由に舞う、飛行機なのだ。
「あれがズ級か」
舷窓から、分厚い翼をいっぱいに広げる猛禽が、気流を切り裂いて空中艦隊の間を縫っていくのが見える。今回の観艦式に参列を許された、空中駆逐艦『ズ級』その一番艦である。
「でかいな。あれも飛行機なのか」
「ラープの作品ですよ。あんまり大きな声じゃ言えませんけど」
それを聞いて、青鱗竜の士官はゆっくり目を細めた。
「…そうか」
ラープが渡してくれたファイルの中には、『ズ級』設計図と関連書類のほか、いくつかの連絡先メモがあった。その内の一つにあったのがこの若い士官、リッツェ・ルイス少佐宛の電話番号だった。
リッツェ少佐はラープの学友である。歳は若くとも優秀な逸材であり、飛び級で入った飛行学校でラープと知り合った。私たちの呼びかけに快く答えてくれ、この艦に私が潜り込む手筈まで整えてくれた。空と飛行機をこよなく愛する竜である。
「例の銀ぴかは最下層の格納庫だ。しかし、俺がついて行ってどうなるんだ?」
昇降機に乗り込んだ私たちは、びりびりと唸るワイヤーの振動音を聞きながら『ル式』の元へ向かっていた。
「俺にあれを操縦して欲しいって話だったが、あれからコックピットは外されてるんだろう。どうする気だ?」
当然の疑問を口にした少佐に、私は手に持っていた工具箱を掲げてみせた。
「ええ、だからこいつがいるんですよ」
程なくしてゼ級艦底格納庫に到着した。これまでとうってかわってだだっ広く、薄暗かった。元々爆撃用の弾薬庫を改造しただけのこの空間が、居住性など考えられている筈もない。だがそんな中でも、油に塗れた整備員たちがまばらにたむろし、職務に勤しんでいる。そしてその中央に私たちの『ル式』があった。
銀のフォルムに庫内の朧げな明かりが反射し、幽玄ですらあった。
早速少佐が顔に似つかわしくない偉そうな物言いで整備員らを遠ざけた。私はすぐさま『ル式』に駆け寄り、工具箱を開けた。少佐の言う通り『ル式』は一見して操縦席など見当たらず、巨大な矢じりその物に見えた。
少佐が不思議そうに見守る中、私はテストハンマーを取り出して『ル式』のボディをおもむろに叩き始めた。鈍い音が庫内に響き渡り、少佐のみならず整備員たちも呆気に取られていた。やがて私はその場所を見つけた。機体の背部、そのほぼ中心、微妙に音が違う箇所がある。私がそこをテストハンマーで強く叩くと、カスタネットのように小さな蓋が開いた。
「開くのかそれは」
目を瞬かせる少佐。私は蓋の下にあった取っ手を捻る。すると、コックピットを覆い隠していた合金板が勢い良く浮き上がった。
誰かが口笛を吹いた。
「驚いたな…継ぎ目なんかさっぱり分からなかったぞ」
素直に感嘆してくれている少佐に、私は心の中で少しだけ胸を張る。夜を徹して作業した甲斐があった。合金板を取り外す。両手で持ち上げられる程度には軽いものである。露になった操縦席から、隠しておいた風防用のガラスを取り出した。どうやら傷などは負っていない。
「すぐに組み立ててしまいます。ちょっと待って下さい」
私はそう言って、作業に没頭するべく操縦席に潜り込んだ。少佐の顔は見なかったが、「分かった!」という返事からは高揚感が隠しきれていなかった。背後からはがやがやと整備員たちが騒ぎ始めた気配がする。だが構っている時間はない。操縦桿の調整や計器類の点検など、やる事は山ほどあっても時間はない。
「あのぅ、少佐殿。これは何事でありますか…?」
ついにこらえきれくなった整備員の内の一人が、リッツェ少佐に質問しているようだ。適当に取りつくろうとか少佐は言っていたが、大丈夫だろうか。
「今からこいつで、俺が飛ぶのさ」
あまりにも真っ向な言動に、私はスパナを取り落とした。そして操縦席から身を乗り出した。
「少佐!」
何て無茶をするのだ。これがバレたら、私も少佐もただでは済まないというのに。だが少佐は安心しろとばかりに私へ目くばせした。
「お前らは手を出さなくていい!全責任は俺が負ってる!カモフさんは心配せず作業を進めてくれ!」
堂々と言い切った少佐に、私は呆れた。ほとほと無茶を言う竜だ。私が更に声を上げようとするのを、少佐はひらひら手を振るう動作で制した。整備員たちは暗がりの中で相談し合い、自分たちがどう行動すべきか躊躇っているようだった。
私は眉間を押さえた後に、諦めて作業に戻った。
「無茶し過ぎですよ」
だが手を動かしながらも、口を止める事も出来なかった。
「こんなに大っぴらにして、バレたら貴方の立場はどうなるんです」
「気にするな。エリート士官様の立場なんかウンザリしてたとこだ。ここまで来てこいつで飛べないんだったら、死んだほうがマシだね。あんただってそうだろう」
それは確かにその通りだった。
「どうして、ここまでしてくれるんです」
私は、自分がここまでずっと思っていた疑問を口にした。
リッツェ少佐は将来を嘱望された、自ら言っていた通りエリートなのである。こんな軍民として横道に外れた事は、例え旧友との縁があるとはいえ普通は避けて通りたがる筈だ。
だが、この青鱗竜の少佐はこんなにも献身的に協力してくれる。
「そりゃあ運命だからだ」
「うん、めい?」
過給機弁の調整を終えた私は再び起き上がり、『ル式』に寄りかかっていた少佐を見下ろした。
「そうさ。俺の敬愛するベイリン翁は、孫のあんたと同じ白竜だろ」
「ええ、まぁ」
「そんで、最初の飛行機パイロットカッセン・ヤッケルは俺と同じ青鱗竜だって話じゃないか。運命を感じるだろう」
「そんな非科学的な…」
私が苦笑いを浮かべると、リッツェ少佐はにやりと牙を剥いた。
「ミーハーなんだよ俺は。それに、ラープには貸しもあるしな」
一通りの作業を終え、私は操縦席から降りてこようとした。だが腕力不足でなかなか這い上がれず、結局少佐に引っ張り出してもらった。祖母曰く、この運動神経の無さは間違いなく祖父譲りなのだという。
「俺から言わせれば、あんたも良くやると思うがね」
「私、ですか?」
少佐の問いに、汗を拭きながら私は答えた。
「そうさ。あんたといい、ラープといい。何だってこうまでしてこいつを飛ばそうとするんだい。普通やらないぜ?単身軍艦に潜入して、しかもあんた、これから俺と一緒に空を飛ぼうってんだろ?」
そう言って少佐が指さした操縦席は、複座式だ。前席には少佐が、後席にはナビゲーターとして私が搭乗する。いかにリッツェ少佐がパイロットとして素晴らしい腕前を持っていると評判であれ、『ル式』は初飛行だし、墳進機関の操縦性は未知数である。助手は必要不可欠であった。
「今すぐ殺されたって文句は言えないぐらいの状況だ。何でここまでする。ベイリン翁のかたき討ちかい?ラープへの義理立てかい?」
「…それもあります」
整備員たちの動作に気を配りながら、私は操縦席から引っ張り出した飛行服を作業着の上から羽織った。暗闇に紛れて密告にでも行かれたら、たまったものではない。
「祖母が、リアガルドに住んでいるんですよ」
着替えながら、私はぽつりと言った。少佐が背筋を伸ばして反応した。
「ゲルダ・カモフ女史が!初耳だぞ」
「隠居してるんです。今、妻もリアガルドに来ています」
私がこの計画を思いついたのは、祖母が倒れるより少し前。通年帝都上空で挙行される観艦式が、今年に限ってリアガルド上空で行われると聞きつけた時である。リアガルド郊外には軍部のお偉いさんが大勢住んでいる別荘街がある。現在、竜帝ジア八世陛下がここに立ち寄り静養しているのである。
「祖母と、妻にですね、こいつを見せてやりたいと思ったんです。…それに」
私はそう言って、銀色をした『ル式』のボディを軽く叩いた。
ふっと、瞼を閉じる。ぼんやりと、年老いた白竜の横顔が浮かび上がる。
いつ見たのかも分からない、きっととても幼いころだろう。その悲し気な横顔は、私がたった一つ覚えている祖父の記憶である。
「祖母だけじゃない。空を飛びたくても、飛べなかった竜たちに。見せてやりたいんです。私たちはここまで来たと。こんな凄い物が造れるようになったんだぞ、と」
ふいに、暗がりから誰かが動く気配がした。レンチを片手に携えた整備員だった。
彼は、いや、彼らだった。これまで遠巻きに私たちを見ているばかりだった複数の整備員たちが、手に手に道具を持って『ル式』に、私たちににじり寄ってきていた。
「何だお前ら」
少佐が油断なく身構え、懐に手をやる。
私がそれを止めようとしたその時。
「自分らも手伝わせてください」
先頭に立っていた整備員が、穏やかな声で言った。
私は、「え?」とおかしな声を放ってしまった。
被っていた帽子を脱いで、整備員は私の目を見つめた。
「まだいろいろとやる作業はあるでしょう?発進準備もある。大勢の手があった方がいい筈です」
別の整備員が、いや、庫内の至る所から声が上がった。
「やろう!飛ばしましょう!」
「水臭いですぜ少佐、こんな楽しい事黙ってるなんて…」
私は。
私は本当に、どれだけの竜たちの手を借りるのだろう。
彼らにも軍属としての立場はあるだろうに。だがしかし、彼らの言う通りでもある。ここからの作業は、私だけでは不安だった。背に腹は代えられない。
私は彼らに礼を言おうとした、そこを。
「こりゃあ、こりゃあ、感動的!」
甲高い、拍手の音が遮った。
整備員たちが、騒ぐのを止めた。
今度こそ少佐は懐から拳銃を抜いた。
暗闇に、いつのまにか無数の鋭い光がちらついて、私たちを囲んでいる。
「数々の困難を跳ねのけて――ってか?気に食わねぇなぁ」
それが兵士の掲げる銃剣のぎらつきだと、私にもすぐに分かった。
微動だにしない兵士の群れを掻き分け、将官マントを着こんだ影が一歩前に出る。
「なぁ、カモフさんよ」
憲兵隊総監、鰐竜キリニコフだった。
※
エミリアさんが草原を歩く。
アンリさんに車いすを押してもらいつつ、私はそれについて行く。
空は快晴、観艦式日和とでもいうのか。
この辺りの住民は別荘街や中心街で見物をするらしく、歩いているのは私たちだけだ。
エミリアさんの背中には、大きな卵の入った背負い袋がある。驚くべきことに私のひ孫なのだ。日差しを当てる為に、袋の口が半分ほど開いている。
「まだ絵も描いていないのかい?あの孫は、本当にやる事が遅いねまったく」
竜民にとって、愛する者の手で卵に好きな物の絵を描いてもらうのは大切な儀式なのだ。
普通はもっと早い時期に描いてもらうもので、もうすぐ孵るというこんな時期まで真っ白にしておくのは珍しい。
「いいんです。おばあさまに描いてもらいたいんですから」
「はーんそうかい。って、私っスか⁉」
しまった。驚きのあまり、つい昔の小娘みたいな口調を使ってしまった。
「っス?」
エミリアさんが振り返る。琥珀色の鱗が青空に眩しい。
「何でもないよ気にするんじゃないよ!と、とにかく何を言ってるんだい。そういうのは夫に描いてもらうものと相場が…」
「ああ、来ましたよ!」
アンリさんが空を見上げた。私たちもつられて見上げた。
黒い小さなシミみたいな物が、いくつもこちらにやってくるのが見えた。
「フン!大艦巨砲の唐変木どもが、群れをなしてご満悦だよ」
「今年は、ちょっと違う物が見られますよ」
「何が見られるって言うんだい」
「それは後のお楽しみ…っス」
「やめて!」
ごうごうと音を立て、艦隊は集結していく。
あの孫は、こんな時でも仕事なのだろうか、まったく。
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