8 首長男爵と尾白の君(後編)

 暇乞いをした時の、アゾレス様の顔ったらなかった。


 あの岩石顔が驚きの表情で歪んだ顔なんて、初めて見た。


 理由を聞かれても、答えられなかった。答えられる筈もなかった。


 とにかく、お世話になりました。実家に戻りますとだけ告げて、頭を下げた。


 同僚たちも皆、驚いているようだった。説明も何もなしだったから、悪いことをしてしまった。


 男爵様とは結局、顔も合わせなかった。


 もし会ったとしても交わす言葉などなかったし、目を合わせることも出来なかったろう。


 でも、これで良かったのだ。


 こんな分不相応な気持ちは誰にも知られたくないし、知ってほしくもない。


 例え、男爵様にすら。


 城下町への一本道を、私は歩く。今度は隣に誰もいない。


 荷物は着替えが何着かと、簡単な物だけだった。全部トランクに詰め込んだ。


 身も心も妙に軽く感じた。空を見上げれば、澄み渡る大空と真っ白な雲。


 胸いっぱいに息を吸い込む。


 そしてもう一度思う。いや、言い聞かせる。これで良かった。


 私は、男爵様の何にああも惹かれていたのだろう。


 言動?お優しい性格?破天荒な行動?


 今となっては、分からない。


 男爵様とアゾレス様は、あの離れで一体何をしていたのか。


 会話から察するに、例の尾白の君がらみの事であるのだろうが。


 男爵様の事だ。求婚に着ていく礼装ぐらい、手作りしていたのかもしれない。

 

 でも礼服にしてもあの布は大きすぎたかしら。まあ、いずれどうでも良い事か。


 私にはもう、関係のないことにしてしまったのだから。


 とにかく歩こう。歩き出そう。それが第一だ。


 城下町に着いたら、故郷へ行く陸鳥車に乗せてもらおう。ああ、懐かしの故郷リーズブルグ。アウスカンプ家の領地である、深く、昏く、美しい森。


 そこで子供の頃みたいに気が済むまで泣いたら、きっと又何でも出来るようになる気がする。


 そうだ、これで、これで良いんだ。


 頬を、何かが伝った。


 「コーデリア」


 涙を拭っていると、聞こえる筈のない声が、聞こえる筈のない方向から聞こえた気がした。


 どれだけ都合の良い頭をしているんだろう、私は。


 「コーデリア!」


 待って。


 気のせいじゃ、ない。


 どうして、頭の上から、男爵様の声が聞こえてくるのか。


 「避けろコーデリア・アウスカンプ!」

 

 頭上から、影が差した。


 見上げると、風船が浮いていた。


 大きな、家屋敷ほどもある巨大な風船が。


 それが真っ逆さま、私めがけて空から突っ込んでくる。


 ぶら下げた籠に、首長竜を乗せて。


 「避けるのだ、まだ上手く操縦出来ないのだぁ!」


 私は悲鳴を上げて道端の茂みに飛び込んだ。


 私の頭上をかすめると、風船は道のど真ん中へ滑り落ちる。


 轟音と共にバウンドし、そのまま大地に横たわって動かなくなった。


 私は茂みから頭を突き出して、もうもうと立ち込める土埃を見つめていた。


 「げほっ!げえっ!まだまだ着陸に難ありだなアゾレスよ」


 激しくむせ込みながら現れたのは――間違える筈もない。


 「ですから、ガスの排出を緩めた方がよろしいと申しました」


 「五月蠅い!兎に角追い付いたのだからそれでよいのだ!げほっ」


 ヴィンディッヒ男爵様のお姿だった。


 何故、なんで、ここに。


 「見つけたぞ、コーデリア!どこに行くつもりだったのだ!」 


 立ち上がった私は、服にまとわりついた草を手で払う。


 「だん、しゃく、さま。なぜ、このような所に」


 「お前を追いかけて来たに決まっているだろうが!」


 「その、そのうすらでかい風船は、何でございますか」


 私は、すっかり地面でしぼんでしまっている巨大風船だった物を指さした。


 男爵様は、にやっと笑った。笑顔なんか、随分久しぶりに見た。


 「これは、気球という物である!我輩が発明したのだ!」


 「き、きゅう、で、ございますか…?」


 「いかにも!空を飛ぶ、この世に二つとない乗り物である!」


 ぽかんとしている私に、男爵様はさらっと説明してくれた。


 男爵様のお父上、先代ヴィンディッヒ男爵は空を飛ぶことに挑戦していた。


 しかし、体の大きな首長竜では、既存の翼で飛ぶ事は到底無理だったのだそうだ。


 そして息子の現男爵様は、翼を使わず空を飛ぶ方法を模索していた。


 「つばさを、つかわず?そんな事が出来るのですか…?」


 「出来るのだ!この気嚢と言う風船の部分にガスを詰めてな。一緒に街歩きした時に、ほら、あの緑鱗竜の子供が手放した風船を見て思いついた」


 「あれで…で、ございますか?何故、離れでこそこそと泥棒のように作業なさっていたのです?」


 言ってしまってから、しまった、と思い私は口を塞いだ。


 もう主従ですらないというのに、何という物言いだというのか。


 だが、男爵様は、例によってくつくつ笑っている。


 何がおかしいのやら、妙に楽しそうだ。


 「うむ、やはり辛辣よな、コーデリアは!まあの、翼以外の方法で空を飛ぶとなると、教会がやれ異端だと騒ぐやもしれんのでな。隠していた」


 「ああ、そう言われれば、確かに」


 アゾレス様が、せわしなく動いて気球とやらを立て直している。


 しぼんでいた風船が、見る見るうちに膨らんで立ち上がる。


 なるほど、あの時離れで縫っていたのはこの風船部分、気嚢だったのだ。


 私が呆れ半分驚き半分でその様子を眺めていると、男爵様が小さく咳払いした。


 「これはな、尾白の君を迎えに行くために造り上げたのだ」


 私の尻尾が、スカートの中でぴくりと動く。


 そう、尾白の君を、か。


 「…左様で、ございますか」


 「あー、うむ。男子たるもの、この程度の偉業を成し遂げんことには想い人に胸も張れんと思ってな」


 「でしたら、早く行かれたらよろしいでしょう」


 「なに?」


 私は、後ろ手に拳を握り締めていた。


 スカートの中で、尻尾は固く強張っていた。


「それで又、私をお供に連れまわそうというのなら、ご遠慮くださいませ。私はもうヴィンディッヒ家のメイドではないのですから」


 男爵様は、口を半開きにして、私の言葉を聞いていた。


 わたしは、いま、どんな顔をしているのか。


 想像したくもない。きっと、とても酷い顔をしているのだ。


 「地の果てへでもどこへでも!その、気球とやらで行ってしまって下さい!でも、私は、私は絶対にお供などいたしません!」


 泣いてなどやりたくはなかった。私だって、貴族の娘なのだ。


 想い人の前で、これ以上無様な姿を見せるなどと、私の矜持が許さない。


 歯を食いしばる私に、男爵様は、ゆっくりと近づいてくる。


 私は、何でもいい、何か悪態を怒鳴りつけてやろうとした。どれだけ、私を虚仮にすれば気が済むのか。


 「それは、困る。我輩は、とても困るのだ、コーデリア」


 「何が、困ると…!」


 「我輩はな。其方の故郷、アウスカンプの領地へ幼いころに行ったことがある。リーズブルグの森を歩いたこともある」


 今度は唐突に何の話を始めるのだ。この首長めは。


 「だから、それが」


 「尾白の君とは、そこで出会ったのだ」


 「はい?」


 今、何と言ったのか。


 「我輩はなその頃、あー、何だ、屋敷に古くからあった、立派な陸鳥の毛皮を気に入っていてだな」


 あの、離れの廊下にかかっていたものか。だがしかし、それが何だと。


 「それを被って遊ぶのが、好きだったのだ。遠出した先の野山を駆け回ったりな。あー、尾白の君に出会った時も、それを被っていた」


 「これですね」


 いつ作業を終えたのか、アゾレス様がいつの間にか私たちのすぐ側に来ていた。


 手に、立派な陸鳥のなめし皮を持っていた。


 「見覚えがないですか?コーデリア嬢」


 不意に、脳裏へ在りし日の記憶が蘇る。


 リーズブルグの森の中で、妙な陸鳥に追いかけまわされた忌々しい記憶。


 まさか、そんな。


 「それでだな、コーデリア。こればかりは往生した。だがな、あの、我輩が大恥をかいたあの路地で」


 今度は、私が、口を半開きにする番だった。


 「我輩に駆け寄った時たなびいた其方のスカートから覗いた尻尾の形は、間違えようがない。あの時森の中で見初めた、あの尻尾だった。だが、色が違う」


 「それで私が書状をしたため、アウスカンプ家に確かめたのです。ご近在に、アウスカンプ家の関係者で尾の白い雌竜はいないものかと。すると、何とまあ」


 私は、耳を塞いだ。待ってほしい。


 「呆れたもので、子供の頃に自分の黒い鱗にコンプレックスを持っていたアウスカンプ家ご息女は、自分の体や尻尾を白く塗っていた事があったと」


 「うそ、でしょう」


 私は、地面にへたり込んでいた。


 「嘘ではない。尾白の――いや、コーデリア」


 そんな私に、男爵様はそっと手を差し伸べた。


 その顔は、今まで見たことが無いほど。


 「我輩は、其方を、迎えに来たのだ」


 真っ赤に染まって、見ているこっちが恥ずかしくなるぐらいだった。


 私は、それを見て。


 「いつも、みたいな」


 思わず、酷い顔のまんまで、笑っていた。


 「いつもみたいな、長々とした口説き文句は仰らないのですか?」


 「う、うるさい!今更お前相手にやってもしようがなかろう!」


 男爵様も、真っ赤な顔のまま、笑っていた。


 笑っちゃうような、嘘みたいな、話だった。


 「御二方、気球が直りましてでございます。お屋敷へ帰りましょう」

 

 いつでも気球を飛ばせるように調整したらしいアゾレス様が促す。この方も、本当に無表情で何でもこなす方である。


 私は男爵様と、静かに目と目を合わせて。


 それから、そのの手を取り、立ち上がった。


 はにかみながら目を逸らす、男爵様。


 ああもう、この方ときたら。


 このせいで、私と口を聞けなかったのか。


 「今度はちゃんと、操縦とやらをしてくださいね。男爵様」


 「分かっている。任せていよ」


 本当に、この、首長男爵様ときたら。


 私は、男爵様に手を引かれて、気球の籠に乗り込んだ。


 気球はすぐにふわりと浮かび上がり、高い高い空へ舞い上がっていった。


 ※


 ヴィンディッヒ男爵とコーデリア・アウスカンプのその後について記録はあまり残されていない。だが、その後も二人で教会や世間の弾圧に負けず、気球の研究を続けていった。その技術は現代に至るまで残され、夫婦は航空技術の基礎を築いた偉大なる竜として伝えられている。

 ヴィンディッヒ家とアウスカンプ家はその後も栄え、互いに養子を出し合うほどの良好な関係を築いた。下級貴族だったアウスカンプ家は、その養子が立てた武勲によりクルドハル帝国屈指と謳われる騎士の名家として名を馳せ、竜帝の懐刀となった。

 余談だが年老いた男爵が気球の事故で亡くなったのは、コーデリアが流行り病で病没したきっかり一年後であったとされる。

 彼は最後のフライトに臨んだ時、両手にいっぱいの花束を抱えていたという。


 

 


 

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