6 首長男爵と尾白の君(前編)
朝の掃除は気持ちが良い。
きちりと制服に袖通し、全ての家具を艶々に磨き上げる。
それは私にとって至福の一時である。
だがその、黄金の一時は。
「コーデリア!」
ああ。又しても、脆くも崩れ去り。
又しても、男爵様と来たら。
「コーデリア!コーデリアはいるか!」
ああ、またあんなにズカズカと歩いて。
また絨毯が痛むのだわ。家具を二、三個蹴散らしているに違いないわ。今頃執事長のアゾレス様が鱗を逆立てているのだわ。
そして何故か、私はもう見つかっているのだわ。
「ここにおったかコーデリア!」
乱暴に扉が開く。私は本棚を磨いていた手を止める。
「はい、何でございましょうか男爵様」
この方、ヨッフム・バーリッシュ・ヴィンディッヒ男爵様。
由緒正しき首長竜の血族にして、竜帝陛下より男爵の位を賜った、この地の領主。
そして、私のご主人様。
「ついに見つけ出したのだ!我が愛しき尾白の君を!麗しの令嬢を!」
「はぁぁ、左様でございますか」
ため息しか出ない。
私、コーデリア・アウスカンプ。これでも貧乏貴族の娘。
今は行儀見習いとして、このヴィンディッヒ家に奉公の身。
「おぉ、美しき尾白の君よ。我輩の胸は今にも張り裂けそうだ!今すぐ貴女を我が腕に抱きとめんことを!」
また始まった、男爵様の一人芝居。肩をすくめざるを得ない私。
「はぁ、それはいいですねぇ。男爵様の胸がさっさと物理的に張り裂けてしまえば、私めもお暇が頂けますわ」
「身も焦がさん程に恋慕の焔が我輩を包んでいるのだ!ああ狂わしい我が君よ!」
「それはまたようございましたねぇ。頭から油ぶっかけて差し上げますから、さっさとその焔とやらで丸焼きになって下さい」
「…貴様、主君の恋路をもう少し応援しようとは思わんのか」
「思いません。一切」
きっぱりと言い切って差し上げた。
「あ、相変わらず辛辣にも程があるぞ貴様」
「それをお許し下さる男爵様に仕えられて、私めは幸せ者にございます」
私がそう言うと、男爵様は「そ、そうか?ま、まあ、さもあろう」などと長い首をかいて照れた。余りのちょろさにヴィンディッヒ家の将来が心配になってくる。
「…だいたい、私がこのような態度になるのも無理なき事とご理解ください。これで何度目ですか。その『尾白の君』とやらを見つけたのは」
「今度こそは本物である!」
このヴィンディッヒ男爵様。こう見えて領主としてはなかなか有能で、領民からも慕われているが。
いかんせん、うら若い雌竜が大好きでしょうがない。
美竜の噂を聞けば東へ西へ。しかもしつこく口説いては、毎度振られる困り者。
格上貴族の令嬢に言い寄って、頬へ平手のお返事を頂いたのも何度やら。
町娘を追いかけ回して、肥料の山に頭から突っ込んだこともあった。
それでもめげず、へこたれず、男爵様は雌竜に首ったけ。
――それというのも。
「兎に角参るのだコーデリア!尾白の君を迎えに参上するのだ!我輩のステッキを出せ!」
「まったく…大概になさいませんと、又アゾレス様に叱られますわよ?それで、今度は何処へお出ましにございますか」
「城下町!」
「では石畳に折れぬ黒樹のステッキにいたします。大人しくしていて下さいね」
「分かった!」
何歳児なのか、この男爵様は。
ああ、そうそう、尾白の君。
尾白の君、それはヴィンディッヒ男爵の想い人。
ご幼少のみぎりより想い続けて、もう十五年と言うのだから恐れ入る。
しかも会ったのは一度きり、どこぞの深い森の中。
例によって供も連れず散策をしていた男爵様は、古木の下に佇む雌竜を見かけた。
雪のように真っ白な尾をした、美しい雌竜を。
思わず声をかけたらしいのだが、雌竜は慌てて逃げ去ったらしい。
それはそうだろう。夫でもない雄竜に尾を見られたなんて、常識ある女性は恥ずかしがって当然だ。
男爵様はそれ以来、その雌竜に惚れっぱなし。
尾白の君と勝手に呼んで、日々日々思いを募らせる。
雌竜漁りを止めないのも、その名も知らぬ想い人を探してのことらしい。
小さな頃の初恋相手を、延々懇々と追い続けるなんて。
これだから貴族の長男なんてものは、どういう精神構造をしているのかしら。
なんて考えはおくびにも出さず、私は黒樹のステッキを男爵様に手渡す。
私は出来るハウスメイドなのである。
「お待たせしました男爵様」
「待ちかねたぞ、いざ参らん!愛しき尾白の君を探して!」
何が尾白の君か。今度もまたハズレなのだわ。
また、頭を下げなくちゃならなくなる事態に陥るのだわ。そして、アゾレス様にお叱りを受けるのだわ――勿論、私が。
意気揚々とステッキ携え歩き出した男爵様に、私は続いた。溜息を呑み込んで。
城下町までは歩いて半刻程度。今日はよく晴れて、男爵様の足取りも軽い。
よく整備された街道は、この領内が豊かなことを窺わせる。男爵様と私は、並木道を二人きり歩いて、ご城下へと向かう。
男爵様はあまりお供を連れて出歩かない。
貴族であれば輿だの陸鳥車だのに乗って、お供を山ほど侍らすのが普通なのだが。
この首長男爵様は、特に女性を相手にする時は、何故か身一つで行きたがる。
「ぞろぞろと供を引き連れていては女性を怖がらせる!」
と、いうのが理由らしいのだが。
その志はまあ立派だが、じゃあ何故私だけいつも一緒に連れていかれるのかしら。
一度じっくりと、お話を聞いてみたいものだわ。
などと考えている内に、城下町に着いた。
石造りの殺風景なお城と違って、今日も町は美しい。
漆喰の白い壁と、オレンジに統一された屋根瓦に、柔らかな陽光が降り注ぐ。
町の地面は全て石畳が敷かれ、竜民は皆、朗らかだ。
「さあ来たぞ!尾白の君はどこだコーデリア!」
「私が知っている訳ありませんでしょう?」
本当に、これさえなかったら完璧な領主様なのだけれども。
先日の街歩き中にその雌竜を見かけたという通りへ、私と男爵様は向かった。
城下町の竜民たちは男爵様がすれ違うたび、にこやかに一礼する。そして、何事もなかったかのように去っていく。
あんまりにも男爵様が街へ雌竜漁りにお出ましへなるものだから、皆、慣れてしまったのだ。
そんな領民に、男爵様は。
「おうおう!今日も皆息災か!何よりである!」
などと、およそ男爵位を賜った御方とは思えぬ気さくさである。
何人かと挨拶を交わした後に、私たちは件の通りへ辿り着いた。
「その、尾白の君(仮)はどんな方だったのです」
「花売りの娘だ!スカートの隙間からちらりと見えた白き尾の、何と優美で美しかったことか…」
「はあ、左様でございますか」
本当に雄竜という奴は。そんなに雌竜の尻尾が良いものだろうか。
「まあそれでしたら、今日も同じ通りで商売をしている可能性はありますね。昨日は何時ごろにここを通ったのですか」
「そうさなあ、丁度、四本角の刻ぐらいであったか」
「四本角の刻と申されましたら…」
ちょうど、今頃ではないか。
「来た!」
突如、私の頭を男爵様が押しのけた。
のけぞりつつも、そこは私だ。男爵様の視線の先を見逃さない。
確かに、そこには花籠を抱えた可愛らしい雌竜がいた。
素朴な雰囲気だが、優しい眼差しの緑鱗竜だ。
私たちはその尾白の君(仮)から目を逸らさず物陰に隠れた。
「どうだコーデリア。見目麗しかろうが」
「今まで男爵様があまりタッチしなかったタイプですわね」
「楚々とした中にも気品の漂うあの物腰!彼女こそ尾白の君に違いない!」
「はぁ、まぁ、どうでしょうか」
私が訝しむと、男爵様は「違いない!」と拳を握りしめた。
「ではコーデリアよ。汝はここで待ち、我輩の勇姿を見届けよ」
きりりと顔を引き締める男爵様。
私は手にしたハンカチをひらひらとはためかせ、せめて見送ってやる。
「イッテラッシャイマセー。ゴブウンヲー」
「貴様、どうやったらそこまで無感情にそういう言葉を…え、ええい!行ってくる!」
颯爽、などという二文字を背負って男爵様はマントを翻す。
その表情が緊張に強張っているのは見なかったことにしてさしあげる。
あれでも女性の前に立てば、あの一人芝居のような口説き文句がつらつら出てくる御方なのだ。
まあいつも、どんな風に口説いても、しくじってばかりなのだが。
誤解して貰いたくはないのだが、男爵様はまあまあの男前であるし、何より領主様である。
きちんさえしていれば、大概の雌竜は受け入れてくれる。
問題は、尾白の君と思った方には誰彼構わずその口説き文句を並び立てていることであって。
あまつさえ、その言動が領内のみならず帝国中で風聞となっていることであって。
それではご婦人方もいくら口説かれようと本気になさらないのは当然であって。
そしてその光景を冷ややかな目で見つめるのが、私のささやかな楽しみだったりするのだが。
さあ今日はどんな風に失敗するのか。
などと私が胸ときめかせていると、通りの反対側から子竜が駆けてくるのが見えた。
真っ赤な風船を大事そうに持った、緑鱗の子竜だった。
待て、あれは、もしや。
男爵様はお気づきでない。
私は何とか手を振ったり、小声で男爵様を呼んだり試みたのだが。
「だんしゃくさま、だんしゃくさま!」
気づいていない。この首長竜、本気でご婦人以外目に入っていない。
そうこうしている内に、男爵は花売りの前にやってきた。
そしてひざまずき、懐から花を一輪取り出した。
「おお、麗しの…」
「ママー!」
うわあ。
声を漏らすまいと、私は口を抑えた。
子竜の言葉に、男爵様が固まった。
「見て見て!パパに風船買ってもらったー!」
硬直する男爵様の頭上だけに、ぴしゃりと音を立てて雷が落ちたのが、私の目にはありありと見えた。
ああもう、何ということでしょう。
その辺りのチェックは、ちゃんとしておくべきでしょう男爵様。
母竜が、凍り付いた男爵様に困っている。
子竜が「おじちゃん、だれー?」などと言って男爵様をつついてる。
やめてさしあげて。これ以上トドメを刺さないでさしあげて。
流石に私はたまらなくなった。男爵様の振られ風景を見物するのは面白いが、これは、ちょっと、哀れ過ぎる。
きりきりと長い首をきしませて、男爵様が振り返る。
そんな眼で見られてもどうなされば良いのです男爵様。
ええい、もう。
「ここにおられたのですね、旦那様!」
私はわざと大きな朗らかな声を上げる。そしてスカートをなびかせて、男爵様に駆け寄った。
「全くもう、お探しいたしましたわよ。さあ参りしょう陸鳥車を待たせてございますわさあさあ」
無理矢理手を握る。力を失った男爵様を引っ張って、走り出す。
突然私が現れたことに驚いた子竜が、思わず風船から手を放す。
視界の隅でふわふわ飛んでいく風船が見え、子竜の泣き声が聞こえた。ああごめんなさい、あとでお詫びに参ります。
私は男爵様を引きずって、通りを離れ町の広場まで出てきた。
「だん、しゃく、さま…っ」
息を切らした私とは対照的に、相も変わらず呆けている男爵様。
本当にもう、この御方は。
「今度からは、口説かれる方は既婚者かどうかきちんとお確かめに…」
そこまで言って、はたと気づいた。
男爵様は、呆けてなどいなかった。
それどころか、これまで見た事の無かった険しい表情で、私を睨んでいた。
何だと、いうのか。
広場の喧騒が辺りを包んでいる。男爵様は無言で私を暫くの間凝視した後に。
「帰るぞ」
と、一言だけ言って、歩き出した。
私は、訳が分からなかった。
そして、もっと訳の分からないことに。
次の日から、男爵様は私と口をきかなくなってしまったのだ。
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