2. 船での暮らし

船での暮らし

 船は大きな三角の帆を張り、海へと滑り出していった。航海は順調だった。風が、帆を大きく膨らませた。ハサンの心も希望で膨らんだが、すぐに困難がやってきた。


 本来この船に乗るべきであったハサンという男は船乗りであったらしく、ハサンにももちろん、その役割が期待された。が、ハサンは船のことは全く知らなかった。船の仕事をしたことは当然のごとく、なかった。一体何をすればよいか皆目わからず、ただおろおろし、そのうち――こんなことは今まで経験したことがないのだが――不安と緊張で気分が悪くなってしまった。そこで出発後一日くらいは船室でぐったりと休むはめになった。周りはそれに同情し、ハサンの船に慣れてないところに多少は怪訝な顔をしつつも、それでもとやかくは聞かず、経験がないものでもできそうな仕事をハサンにあてがっていった。つまりそれは諸々の雑用であって、ハサンはそれらを処理するために、船中を小忙しく駆けずり回ることになったのだ。


 掃除から食事の支度の手伝いから、あるときはゴキブリを捕まえ、あるときは船底にたまった水を掻き出し……。呼ばれれば返事一つで飛んでいくハサンなのであった。こんなに働いたことは今までなかった。とても快適な生活とはいえなかったが、しかし……仕方がなかった。自分は身分を偽ってこの船に乗り込んでいるのだ。


 自分は本来ここにいるべきハサンではない。偽物なのだ。もしそれがばれたらどうなることだろう。船の人々は自分をどうするだろうか。どこかの港に置き去りにしてしまうだろうか。いや、そんな手間も省いて、海に突き落としてそれでおしまいかも……。想像するとぞっとしてしまい、決してこの秘密がばれてはならない、と強く思うのだった。なので、なるべくなら彼らの言うことは聞こう。彼らには逆らわないように、なんとか長くこの船に置いていてもらおう、とハサンは思うのだった。


 判断を間違えたかなあ、とハサンは後悔した。あの時は、この船に乗ることを決めたときは、それが正しいやり方だと思ったのだ。確かにあのまま陸に残っていては、金はただただ減る一方、非常に高い確率で、大変な困難に直面していただろうことが予想されるわけで……。ハサンはあれこれ思い悩まないことにした。思い悩んだところで仕方がないのだ。現在の状況が変わるわけでなし。


 元来が楽天家であるハサンはそう思って、ただ、船の仕事に精を出すことにした。人使いが荒すぎだろう、と、腹も立つこともあったが、努めてそれを表に出さないことにした。考えてみれば、今まで自分の生活はとても優雅で快適なものだった。幼い頃は使用人がいたし、成長してからも何かと世話を焼いてくれる女性たちがいた。しかしこの船には……そもそも女性がいないではないか! むさくるしい男性ばかりの一団を見てハサンはため息をついた。また、質素極まりない食事を口にしてハサンはため息をついた。小麦粉を練って焼いたものかまたは米と、その付け合わせが少々、たまに魚がとれればよいほうだ。昔の自分はもっと美味しいものを食べていた……愉快な暮らしをしていた……。ハサンは嘆くが、やはり、どうしようもないことではあった。




――――




 そんな生活であったが、友人もできた。アジーズとターヒルという、どちらも自分と同年齢くらいの若い男である。


 まず仲良くなったのはターヒルだった。大男である。さっぱりとした笑い方をする。単純そうだが気が良いやつらしい、とハサンは思った。近づいてきたのは向こうからだった。しかもやたらとこちらに声をかけてくるのだ。はて、そういう趣味の持ち主かしらん、とハサンは思った。


 ハサンは美しい顔をしているせいか、同性からもよくもてた。言い寄ってくる男性もいた。ターヒルにもそういった趣味があるのではないかと思ったのだった。しかしあまり下心が見られない。どうやらただ単に友人として親しくしたいだけなのだろう、とハサンは結論づけた。


 ターヒルとよく一緒にいるのがアジーズという男だった。端正な顔立ちの男で、顔のよい男には気を付けたほうがよい、とハサンの本能が告げていた。しかし、アジーズには鼻もちならないところはなく、大らかで鷹揚だった。悪い奴ではないのかもしれないな、とハサンも次第に気持ちを許した。


 このターヒルとアジーズ、やたら一緒にいるのだ。というよりも、ターヒルがやたらアジーズのそばにいたがる、といったほうがいい。ターヒルの本命はアジーズなのかしらん、とハサンはさらに思ったが……しかしやはり下心は感じられないので、どうにも謎なのだった。まあでも気にすることもなかろう、と思い、ハサンはそれについて考えることをやめた。

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